スクリーンショット_2019-04-02_23

斜に構えていた僕に勇気をくれたスマホゲーム『Florence』

物語のあるゲームについて、その内容について語りすぎるのは野暮というものだろう。しかし『Florence』は僕にとっては新鮮で、シンプルで、高品質で、言ってみればひとつの理想のゲームだった。なるべく内容に触れずに紹介したい。

––––––

斜に構えた人生だった。
スマートフォンが流行し始めたころ、「そんなものは必要無い」と言って、ひとりガラケーにこだわっていた。流行に左右されるのを良しとしなかったからである。何年も経ち、社会人になり、いい加減業務に支障が出るに至るまでそれは続いた。スマホを手にした後も、自分はスマホなんて無くても生きていけると考えていた。

そういう人間だったので、スマホのゲームといえば「ガシュイーーーーン!! ウルトラハイパーファイアーマグネティックゴルゴンゾーラ激SSSSSSSSSレア、ゲット!」と騒々しい、リセマラ推奨のゲームに違いない、という偏見を持っていた。ゲームは好きだったが、スマホのゲームだけは遊びもせず避けていたのである。

しかしある日、App Storeを眺めていると、目に止まるものがあった。上品なイラストで、ゲームというより、絵本のような体裁。『Florence』コピーは「恋と人生の物語」。このゲームは、ひねくれ者の僕に「食わず嫌い」をする理由を与えてはくれなかったのだ。

『Florence』は、言ってみれば音と音楽とインタラクションのある漫画のようなものだ。
その物語は、実に退屈なシーンから始まる。主人公は目覚まし時計を止めて、時間ギリギリまで眠り、その後は歯磨き。あとは「平凡」といえば説明十分なくらい無感動な平日。

ひねくれ者の僕は「これを作ったやつは、プレイヤーを退屈で殺そうとしているに違いない」と皮肉った。第一、この主人公ときたら、一日中退屈そうな顔をしているのだ。

しかし、今にして思えば、僕はこの時点で制作者の手のひらで転がされていた。退屈すらコントロールされていたのだ。主人公の生活は、この退屈な1日を対比に、彩りを得てゆく。
プレイヤーは、インタラクション(目覚まし時計を止めたり、歯ブラシを前後すること)と音、音楽、アートによって、主人公「フローレンス・ヨー」の生活を高い精度で追体験する。ヨーにとって退屈な一日は、プレイヤーにとってもまさしく退屈な体験となる。
では、ヨーの体験が、例えば「気になる人との初デート」であればどうなるか?

「言葉をうまく紡げない」という心境を、小説ならどう表現するか、マンガや映画ならどうするか。そして、ゲームならどう表現できるか?
『Florence』はそういった、言葉に頼らないゲーム的表現の宝庫だった。朝起きられないこと、思い出を愛おしむこと、誰かを後押ししたいという気持ち、日常を全く違う気持ちで体験する日、何かを忘れようとする時の気持ち……そんな微妙な心境までをも、『Florence』はほとんど言葉を使わずに表現しきったのだ。

ヨーは『Florence』の物語の中で、ある種の困難に立ち向かうことになる。それはともすれば「ありふれた困難」だが、だからこそ万人が共感できるテーマに仕上がっている。
ヨーは僕と違って、斜に構えるようなことのない、素直で前向きに挑戦できる人だった、それがヨーの強さだった。ひねくれ者だった僕は、ヨーのように立ち向かえるだろうか? 多分、できないだろう。だから、僕も斜に構えるのはやめて、ヨーのようにもっと素直で、挑戦的になろうと思う。
そうして、僕は地獄の10000回リセマラに挑戦することになるのだが、それはまた、別のお話。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?