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信長公記(49)信長、足利義昭をいただき入洛

9月7日、義昭公に「近江(滋賀)を討ち果たし、入洛しましょう」と約束を交わす。その日中に岐阜を出発。

9月8日、近江の高宮(彦根市付近)に着陣、2日間滞在休息をとる。

9月11日、愛知《えち》川近くに野営。

9月12日、佐々木父子(六角家)3人が立て籠っている観音寺(近江八幡市)・箕作城(東近江市)を攻める。攻めたのは佐久間右衛門尉、木下藤吉郎、丹羽五郎左衛門、浅井新八。箕作城は午後5時ごろ陥落。

この時美濃三人衆は「我ら先陣として遣わされると思ったのだが、何故そうされなかったのだろうか…」と不思議に思う。

9月12日晩、箕作山に陣を構え、翌9月13日、観音寺城を攻める手はずだったが、すでに佐々木父子3人は逃亡していたので、13日、観音寺城を乗っ取った。

周りの残党も降伏したので、近江の国を平定した。

9月14日、不破河内守を美濃西の庄の立正寺(岐阜市)へ差し向けた。(当時足利義昭がここで過ごしていたからか)
21日、さらに馬を進めて柏原の上菩提院(米原市)に着いた。

22日、桑実寺(近江八幡市)へ行く。

24日、信長公、守山へ。

25日、志那・勢田(草津市)への渡し船都合着かず滞在。

26日、琵琶湖を渡り、三井寺の極楽院(大津市)に陣を構える。

27日、義昭公、三井寺到着。光浄院で宿泊。

28日、信長公、東福寺へ陣を移動。三好勢の敵将・岩成主税頭の守る勝龍寺表(城?)へ兵を差し向ける。その時の武将は柴田日向守、蜂屋兵庫頭、森三左衛門、坂井右近(政尚)。
首50を討ち取る。義昭公清水寺に移る。

29日、勝龍寺表へ馬を寄せる(兵を寄せる?)。寺戸の寂照院に陣を設ける。岩成主税頭は降伏。

30日、山崎着陣。芥川(城?高槻市)には三好勢の細川六郎(昭元)、三好日向守(長逸)がいたが、夜に退散。越水・滝山(の城)にいた篠原右京亮も退散。芥川の城へ信長公のお伴で義昭公は移った。

10月2日、池田城攻め。(池田勝正が守備)水野金吾の家来・梶川平左衛門この合戦で討死。
激しい合戦だったが、城に火をつけ、町に火を放つことに成功する。
義昭公上洛に参戦した足軽たちは「末代までの高名だ」と命がけで戦った。

軍兵の力は日々にあらたになり、戦うことは風が生ずるようにはげしく、攻めることは河の決壊するようなすさまじさである

三略

のような活躍(勢い)だった。

池田勝正降参。人質を差し出される。信長公、5畿内および隣国を支配。松永弾正(久秀)はつくもかみ(茶碗)、今井宗久は松島の壺と紹鴎なす(茶碗)を献上。源義経が崖下りをした際の鎧を献上する者も現れた。

芥川に滞在の14日間、外国や日本のものたくさん入ってきた。門前で市をなすほどの盛況ぶりであった。

14日、義昭公、京に入洛。六条の本圀寺へ。天下の人々みな喜ぶ。

信長公も一安心。供回りを連れ、清水寺へ。諸部隊を入れては庶民に無礼を働く者もいるかもしれない、と警固を堅くした。そのため、乱暴を働く者は誰一人いなかった。

畿内には逆徒もいたが、風に草木がなびくように、10日余りのうちに退散していなくなった。

細川昭元の屋敷を義昭公の居所とした折、信長公は一緒についていき、太刀や馬などを進上した。

義昭公は信長公に三献の馳走を下され、義昭公自ら信長公にお酌で盃を賜った。

10月22日、参内。正式のいで立ちで威儀を整えられ、義昭公は征夷大将軍に。

信長公の働きは日ノ本にならぶことのない名誉、末代までの面目、子孫からはよき手本としてたたえられるに違いない。

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