階段


 朝、目が醒めて、あの女がもう行ったと彼は言う。彼の横には大きな赤いソファが置かれている。チャップリンに似た彼はやはりヒゲを綺麗に生やしている。黒電話はどうしたの? と私が言うと彼は「あの女が持っていきましたよ」と答えるので、私はむしゃくしゃしてドアを7回叩いた。
 ドアの向こうから映写機の絡まる音がするので、あの女が映画を観ていた途中だったのだろうと、何かを察した。ドアを開けるつもりはなく、窓を私は開けることにした。すると大きな湖が見えた。風と枯葉が何千枚も水面に落ちている。清掃員が必死にボートを漕ぎながら枯葉を集めている。あの女は湖の底に住んでいると聞いたことがある。都会にいた頃はネットカフェに住んでいたらしい。ネットを駆使して私の居所を突き詰めたのだろう。「もう、時間なんだ」と彼が言うので、私は窓を閉めた。黒電話を惜しいと思いながら、階段を登り始める。何千階もあるこの階段を登りきる頃には、あの清掃員もボートから降りて、人々のもとへ帰るのだろう。ちょうど疲れたのか、なぜか赤いソファを私は欲した。

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