見出し画像

No.021 待ちぼうけ

学生諸君、おはよう。
お待たせしてすまない。
電車に乗り遅れてしまってね…。

「待つ」といえば、諸君は「待ちぼうけ」の唄を知ってるかな?
そう、山田耕筰は有名だね。
しかしこの場合、北原白秋の方が大事なんだよ。
何番まであったか、、、とにかくあの詩を書いたのは彼なんだから。
なんの教訓か知らんが、怠け者がうさぎを待つだけの場面が描かれているんだ。

こう言っちゃなんだが、あれは内容的に待ちぼうけとは言えないよ。主人公が真剣にうさぎを待つ気配はないし、木の根っこにうさぎがぶつかって死ぬのを待つなんて、ひどい話だ。魚釣りなら自分で仕掛けて待つという段取りを踏んでいるからまだわかるが。
ギャンブルで勝てないことを待ちぼうけなどと言う者があろうか?
主人公の呑気さと結末には目も当てられない。

ところで、待つという行為は私にとってはなかなか受け入れ難い面があってね。いや、正確には「待たせる」ことのほうが怖いんだ。
せっかくだから、今日は少しそのことについて触れさせてくれ。

予定していた「動物生態学」の講義はこの話が終わり次第、すぐに始めるからちょっと待ってくれ。

私の神経質な思い込み、いや、実害がある分むしろ強迫観念とでも言おう。私自身が超えられずにいる特性があり、長年悩まされているのだ。
自分が待つ側ならまだ良い。待ち方を知っているし自分の気持ちの収め方もわかる。相手にかける言葉も対処法も知っている。しかし、人を待たせる側に立ってしまうととたんに私はその対処法を知らない。途方に暮れ、疲れ果てるのが私の弱点だ。

待ち合わせの場合、相手に連絡して謝り、見通しを伝えれば良い。それくらいのことは私でもできる。あるいは誰かと行動している最中に急にトイレに行きたくなった場合なら、そう告げてトイレに向かえば良いだけの話だ。

しかし、いざ相手を待たせ始めると気が気でなくなり、まもなく私の精神がやられ始める。これがなぜかわからないのだ。待たせ始めて間もなく気分が悪くなり始め、みるみる精神が崩壊していく。

待つ側の気持ちがわからないという事情が関係しているのかもしれない。私自身は待つことができるが、他人が待つ時の心境は想像もつかない。
人は本来、人を待つことができるものなのだろうか?まだ来ぬ人を際限なく待ち、心がかき乱されてどうにかなるものではないのか?そう考えてしまうから、誰かを待たせることが苦しくなるのだ。

おそらく誰かを待っているような気配の人を街で見かけることがある。実は先程も私は大学に来るまでの間に、駅でそんな人を何人も見かけた。たとえば帽子をナナメにかぶり、おそらく彼女のトイレを待っているであろう20才前後の青年は、熱心に自分の手をいじり、あくびをしながら気楽に彼女を待っているようだった。
一方、少し離れたベンチに腰掛ける少女と母親は、祖父母の買い物か何かを待っていたのだろう。2人ともやることは全てやったという顔で、時間が過ぎるのをボーっと待っていたからである。特に不機嫌になるわけでもなく、無表情で過ごしていたのだが、この時点ですでに30分は待ち続けていたのではないか。

ほかにもちらほら、片割れを待つ何人かが平然とそこらにいるのだ。なぜ君たちはそんな平気な顔で人を待てるのだ、と片っ端から尋ねてまわりたくなるね。君たちは待ち方をどこで教わった?敢えてそんな落ち着いた風を自らに演じさせて待つのか?それとも、内心、不満を噛み殺して耐えているのか?どうなんだ?
一方的に待たされていることに、もっと疑問を感じて良いのだよ。あなた方は待たされ、放り出されているのだよ。見通しの立たない孤独で虚しい待機にどれだけの時間と労力を費やすのだ?

諸君。
これが私の奇妙で厄介な観念だ。
笑ってくれ。

そうそう、待たせる側の心境について説明がまだ途中だった。むしろここからが本題だ。どうか聞いてくれ。

人を待たせるストレスがどういうものかわかるかい?待つストレスではなく、待たせることで生じるストレスが。そして待たせたあとに来る言いようのない疲れが。
いや、私は前向きだから、もっと早く行動して相手を待たせない方法があったはずだ、などという後悔は生じない。
しかし、待たせることが確定した瞬間に始まるあの敗北感と挫折は耐え難い。相手を待たせ続けることになる現実と戦わなくてはならないのだから。待たせ続けることで積み重なる屈辱。プレッシャーと恐怖でエネルギーが消費されていく。
そして待たせ終わった時に、解放感と引き換えに新たにやってくるあの虚無感。

日本のどこかに私を待ってる人がいる、などという歌詞があったが、私には考えられない。人を待たせておいてよく平気でそれを歌えたものだ。

実際、待たせる現実から逃れられたことは一度もない。
暗く湿った激しい自己嫌悪を抱き、待ち合わせ場所へと向かうことになる。大きな罪悪感と同時に、なぜか社会に対する恨みまで立ち上がってくる。責任転嫁という簡単なものではない。なぜこうなった、という恨みと憎しみに満ちた社会への罵倒と非難が始まるのだ。もしかすると、自分自身への侮蔑とも言える。このとき、おそらく私の寿命の進みは5倍や10倍のスピードであろう。

さすがに学生諸君には、私のこの愚かな絶望はわかるまい。

次の瞬間、私の目の前に突如として神が現れたかと思うと、私は祈り始めているのだ。神様、どうか今日のこの日をなかったことにしてくれませんかと。そのためならこの先の私の任意の2〜3日を喜んで差し出しますから。

何の変化も生じない現実に神をも恨み、失望と憔悴で私の精神は混沌とし始める。
自分の足で稼げるものならどれだけ救われたことか。できる限りの力で走り犠牲を払おう。しかし電車やバスはこちらの事情は知る由もなく、たとえ知ったところで私のために急いでくれるはずもない。
それでも行かねばならないのか?
自分が虚しく、全てが恨めしい。

メロス、お前はどうやってこのストレスと戦ったのだ?お前にもあったろう、友を待たせるストレスが。

ようやくその人に会えたときにその呪縛が解けるのかというと、そうではない。
残念ながらそれは解消されず、残り続ける。相手に謝罪したところで何も、どこにも、効かないのだ。

相手は「全然、全然」「平気、平気」と、とびきりの笑顔でさらに私を辱める。洞察力の高い私をもってしても、その笑顔の意味はわからない。なぜ彼らは怒らないのだ?そうだ、怒ってほしいのだ。
徹底的に私の非をつき、この悪事を責めてはもらえないだろうか。自ら進んでその罰を一滴残らず浴びるのに…。
そんな願望も相手の笑顔の前に虚しくかき消され、虚無とともに私はもう一言だけあやまり、この苦行は一区切りとなる。

諸君、どうだ、これが私の卑しい特性だ。
こうして私の人生は何度も屈辱の底を経験した。

そもそも、なぜ時間に間に合わなくなるのか?
問題はそこからなのだが。
しかし残念ながらそれに対する答えはない。

私自身はその理由がさっぱりわからないのだ。半ば怪談じみたその経緯は調べようもなく、もう長年放ってある。
たとえば朝起きて、身支度や朝飯を食べるなどして、あるところまでは順調に進んでいたはずなのだ。
予定していた出発時間が近くなる。出発時刻はだいぶ余裕を持って設定してあり、10分や20分出遅れても支障が出ないようにするのが常だ。

しかし、それは突然やってくる。
「まずい、間に合わない」
ある時点まではちゃんとわかっていたし、常に時計を見ながら支度していた。神経質な私の心に備わっているセルフスヌーズ機能が私を何度も助けてくれていたし、遅刻など起きるはずはなかった。

なのに、なぜ?

きっと誰かが時計の針を早めたに違いない。そうとしか思えない速さで、時刻が過ぎ去っているのだ。未来にタイムスリップしたのだろうか?いや、状況からして「時間」のほうがこっちに戻って来たとしか思えない。

こうして私は待ち合わせに遅れる。そして、人を待たせることが苦痛でならない。
どちらも私自身に原因があると誤解されそうだが、私はそうは考えない。
私にとっては全て謎なのだから。

さあ、これで終わりだ。
聞いてくれてありがとう。
ちょうど講義が終わる時間か…。
少し長くなってしまったようだね。
質問はないか?

え?講義?
ああそうか、「動物生態学」の時間だったね。

すまんすまん。
うっかり私自身の話で時間を使ってしまった。

動物の生態で言えることは、、、。
そうだな、たとえば、うさぎは自分から木にぶつかって死んだりすることはまずない。
まあそれについてはまた次回深めよう。来週の授業できちんと扱うことにするから。

悪いが、待っててくれ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?