漫画家になれなかった男の話

私はかつて漫画家志望でした。
具体的に目指していた時期は、浪人の秋〜大学2年生の春までの、およそ1年半です。
少し長くなりますが、当時のことを書いてみようと思いました。

漫画家を目指し、諦めるまで


高校3年生のときに大学受験するも全落ちし、浪人生となった私は、受験勉強をサボりながら怠惰な生活を送っていました。
そんなある日。
予備校講師が授業でこんな話をしました。

「世の中の大人の多くはドリームキラーである。今までの自分の人生の尺度で物事を判断して、できるできない、なれるなれないを決めつけてくる。そういう大人たちの声に惑わされず、自分の夢を大きく持て。」

受験勉強を鼓舞させるための発言だったと思うのですが、あの時教室で、なぜか私はこう思いました。

「夢を大きく持て…か」

「よし…!」


「漫画家になろう…!」


ちなみにこの時点で漫画を描いたことはなく、絵を描くのが好きだったわけではありません。
多分当時バクマンにハマってたのでそれの影響を多いに受けていたと思います。

浪人生の秋頃、母親に言いました。

「俺、漫画家になるわ。」

これを聞いた母親はすかさず猛反対し、頭を抱えてました。
確かに、年間70万円する予備校代を払ったのに、途中で受験をほっぽり投げて「漫画家になる」と言い出されたら、頭を抱えたくもなります。

結局私はのらりくらりと受験勉強し、偏差値50程度の大学(滑り止め)に進学しました。

そして大学1年生になった春。
私はついに漫画を描き始めます。
まずはA4の白紙にネームを描き始めてみました。
稲中が好きだったので、四人の男子中学生が学園生活を繰り広げるギャグっぽい話を描き始めました。
そこで思うのです。


えっ…


むずっ…


頭の中に漫画のストーリーはありました。
色んな漫画のアイデアもたくさん積み上げて、メモ帳に沢山書いていました。

しかし、漫画を描くことは、想像を遥かに超えて難しかったのです。
面白いとか面白くない以前に、描きあげられないのです。
ネームを作るためにはプロットを作り、それに沿ってキャラや吹き出しを配置して、構図を考え、コマ割りをするといった工程が必要なのですが、このときはそんなこと知る由もありません。
漫画はもっと簡単に描けると思ってました。

ここで少し冷や汗が出るのです。


あれ?

思ってた以上に

漫画描くの難しい…。

今まで漫画はたくさん読んできたので、あっさり描けると思ってましたが、とんでもない。
読むのと描くのは大違いでした。

ちょっとやばいかも…。


結局1ヶ月ほどかけて15ページくらいのネームが完成しました。
しかし、何度も手直しを加えたりして、1ヶ月間その15ページを見続けたせいで、新鮮味を失い、全然面白く感じません。
原稿に清書する気持ちが起きませんでした。

そして私は新しい漫画の制作に着手します。
次の作品は野球漫画。
野球部の高校生男子と、野球帽を被ると性格が変わる女子高生の話。
女子高生がマネージャーとして入った野球部が弱くて、練習試合で野球帽を被って男になりきり、ピッチャーとして活躍して試合で勝つというストーリー漫画です。

この作品の制作に取り掛かったのが6月。
1ヶ月以上かけてなんとかネームを完成させました(31ページ)。

夏休みをふんだんに使って、野球漫画を参考にしながら下書きとペン入れをしました。
人物1人描くのにも時間がかかりますが、1ページあたり10体ほどの人物や顔を色んな角度で描くので、相当な時間と労力がかかります。

その他にも、背景描いてスクリーントーン貼ってベタ塗って集中線描いて…。
山のような作業が待ち受けています。


完成したのは5ヶ月後の11月でした。

大学に入学した後、サークルに入らず、友達を作らず、授業もサボりまくり、半年かけてなんとか31ページの漫画を完成させました。


今はもう処分してしまって手元にないのですが、相当ひどい絵です。
全く絵を描いてこなかった人間の処女作なので、それはもうひどい出来栄えです。
しかし、当時の自分はまぁまぁイケてると思ってました。
5ヶ月間毎日毎日見続けた漫画なので、絵もストーリーも感覚が麻痺して、良いのか悪いのかわからなくなってました。

初めて見る人にとっては面白いだろう!

そう何度も自分に言い聞かせました。

そして週刊少年マガジン編集部に電話し、持ち込みに行きました。
自分の中では、担当がつくかどうかは五分五分、といった算段でした。


そしていざ講談社のある護国寺へ。

対応してくれる編集さんは、20代後半くらいの若い男性でした。
軽く挨拶を済ませ、早速原稿を読んでもらいます。
読むペースは意外にもゆっくりと、しっかり読んでくれているようでした。
持ち込みの予習として色んな漫画家漫画や持ち込み体験談を読んできましたが、編集者は読むペースがとても早く圧倒されると色んな所で書かれていたので、こんなにしっかり読んでくれるとは、と嬉しくなりました。


そして、編集さんが読み終えます。

何を言われるのか…。

ボロクソ言われるのかな… それとも…。

緊張が最高潮に達したとき、編集さんがこう言いました。



「これは持ってくる人みんなに言ってるのだけれど…

絵が下手すぎます。



これを聞いた私は

ショック!

というより

あ、やっぱり?

という感情でした。
やっぱり下手だったんだ。
途端に目が覚めた気持ちです。
その後の編集さんの言葉で覚えているのは、以下の通り。

・絵が下手です。デッサンなどをして、とにかく画力を磨いてください。
・キャラの首が太すぎます
・私はこの漫画を読んでドキドキもワクワクもしなかった。
・好きな漫画は何ですか?
(自分)あしたのジョーです→きっとちばてつや先生も少年たちをドキドキワクワクさせたくて描いてますよ。読む人をドキドキワクワクさせてください。
・野球漫画を描くならDREAMSという漫画がおすすめです。スイングの描き方など参考になさっては。

などなど…。
ダメな時はもっとボロクソ言われるのかと思いきや、語り口は丁寧でこちらの質問にも答えてくれるような、感じのいい編集さんでした。

担当につくとか賞に回すとか名刺をくれるとか、そんな話はもちろんないまま持ち込みは終了。


このときの感情がどうだったのかよく覚えていません。
落ち込んでたとも思いますし、ダメで元々だったよね、と開き直ってた気持ちでもあったと思います。
唯一覚えているのは、母親に持ち込みの結果はどうだったか聞かれ、
「担当はつかなかったけれど原稿は賞に回してもらった」
と嘘をついたことです。

さて、持ち込みが終わり12月に突入。
私は意気込んで2作目を描き始めました。
「1作目はストーリー漫画だからダメだったんだ。今度は19ページのギャグだ!絵が下手でも許されるギャグでいこう!」
と決意を新たにします。

そして2作目を描き始めて、私は大変驚きました。
絵が上手くなっているのです。
1作目は人を描くのにあんなに苦労していたのに、2作目は少しだけ楽に描けるようになっていました。
キャラの表情や体なども、1作目に比べて上手く描けているのです。
「本気の漫画を完成させると画力が上がる…!」
と、このとき気づきました。

2作目の内容は、マッドサイエンティストが美少女アンドロイドを作るも、暴走してしまい、ボコボコにされるという暴力系ギャグ漫画です。

この漫画の制作中に大学の試験期間があったのですが、授業もロクに出ていなかったのでほぼすっぽかしてます。
自分は漫画家になるので、大学の授業など受けても無駄だと思ってました。
結果、1年時に取った単位は16単位です。
4年間で120単位とらないと卒業できないのに、1年間で16単位しか取れていないのは、かなりマズい状況です。
また、漫画制作に集中するため、友達も一切作りませんでしたので、試験を有利にパスする情報なども入ってきませんでした。

ちなみにバイトはなぜかラブホテルの清掃員を5月から11月までやっていました。
ラブホテルを選んだ理由は、バイトをしろと親に言われ、スネて自暴自棄気味になっていたからです。

話を戻して、2作目の漫画は12月〜3月の4ヶ月間かけて完成させました。
前よりかは若干絵が上手くなったと思っていましたが、まだまだ自信が持てません。
この時、高校時代の友人がたまたま家に遊びにくることになり、半ば無理やり読ませてみました。
自分の描いた漫画を友人に見せるというのは非常に恥ずかしく、読んでもらってる間は別の部屋に逃げ込んでました。
そしてしばらくして部屋に戻ると、友人はとても苦い顔をしてました。感想を聞くと、「稲中っぽいね」と言い、苦笑いしただけ。


あぁ、まぁね、やっぱりダメだよね…。

結局この漫画は持ち込みなどせず、友人1人に見せたきりになりました。


人生一回限り!夢を持とう!俺は漫画家になる!


こう意気込んで、若いエネルギーと有り余る時間を注いでみたものの…。

気づけば3月。何の成果も出ないまま大学1年生が終わっていました。

この時は病んでました。
人生で一番病んでました。
この時の病みエピソードとして、
・家族で食事しているときにいきなり泣き出す
・通っていた保育園、小学校、中学校などを見て周り、これまでの人生を振り返る
・夜12時に外に走りに飛び出す
など。
大学1年生という貴重な時間を漫画に消費して成果が得られなかったのが辛かったのだと思います。


そして3作目の制作に入りますが、この時点では完全に泥沼にハマってます。
誰に見せるわけでもない8ページのギャグ漫画を、目的のないまま描き始めます。
悪魔の能力を持った高校生が、テストでカンニングした同級生の手を蛇に変えて懲らしめるという漫画です。
全然ギャグになってないのですが、ギャグ漫画のつもりで描いていました。

この時の心情はというと、漫画を描いてても全然楽しくはないけど、漫画家になるのが夢なので、夢のために義務感で仕方なく描くという、もうワケのわからない状況でした。

買っても読まない技術書を積み重ね、絵下手な漫画家を探してはわずかな希望に追いすがり、アシスタントや持ち込み体験をネットでひたすら探して読み、遅咲きの漫画家がデビューした年齢をWikipediaで探すという、無駄な行為を繰り返してストレス解消していました。


受験勉強がうまくいかず、逃げるようにして漫画家を目指し始める。

漫画だったら子どもの頃から好きだった。好きなことなら全力を傾けて頑張れるはず。

その漫画ですら、困難に直面すると楽な方へ楽な方へと流れ、真摯に取り組むことができない。

そんな自分に自己嫌悪し病むという悪循環でした。



3作目を1か月ほどで描き終え、改めて自分に問いかけます。

「お前は本当に漫画家になりたいのか?」

こんなに苦しい思いをして、絵を描くのが得意でもない(むしろ苦手)、なのに漫画家になりたいのか。

漫画家になりたいと思ったときも、漫画が描きたいんじゃなくて、会社勤めしなくていいし楽しそうだからという安直な理由で志したのではないか。

幸運なことに大学に通わせてもらえて、親元で生活できており、不自由なことは何一つない。漫画家以外にも道はたくさん選択できる。

夢と現実のギャップに打ちのめされた今、決断するときではないか。



自問自答し、漫画家の夢を諦めるという決断にいたるまで、時間はかかりませんでした。

こうして大学2年生の春、漫画家になるという夢を諦めました。


その後

諦めたときは結局何者にもなれない自分に失望しましたが、半分くらい、肩の荷が下りてホッとした気持ちもありました。

その後の大学生活はというと、大学2年生の春からサークルに入り、残りの3年間サークル活動に打ち込み、青春を謳歌しました。
とても楽しく充実した日々でした。
単位も4年かけてなんとか取りきり、無事卒業、就職活動を経て会社にも就職しました。
就職活動する直前も、「やっぱり漫画家になる!」と逃げの精神からくる発作的衝動が起きましたが、再度家族にたしなめられ就職しました。

漫画は就職した後もちょこちょこと描き続け、WEB漫画として発表したり、コミティアに出展したりもしました。

このときは漫画家を目指していたころと違い、純粋に楽しく漫画を描いていました。
あふれ出る妄想やギャグに一人でニヤニヤしながら、「これを描いて見せたらウケるはず!」という、漫画描きにとって健全な精神で創作ができていました。
ただ、これで飯を食べていこうとするほどの気概は、このときはもうありませんでした。

なぜ漫画家になれなかったのか

めちゃくちゃ長くなりましたが、実はここからが一番書きたかった部分です。

なぜ自分は漫画家になれなかったのか、理由を考えてみました。

大小様々理由はあると思うのですが、一番の原因は、to do(やりたい)ではなくto be(なりたい)に意識が向いていたからだと思います。
漫画を読むのが好きだったので、描くのもきっと好きだろうと勘違いしていましたが、"読む"と"描く"は違う行為です。
そこを理解しないまま漫画を描き続け、壁にぶつかると、「俺は漫画が好きなはずじゃなかったのか…!?」とギャップに苦しむのです。

当時の私は、漫画を描きたかったのではなく、漫画家になりたかったのです。
孤独に創作に向き合い、人生かけて挑戦し続ける姿に憧れていただけでした。

なりたいだけなら、何にでも今すぐなれます。
漫画を描いて漫画家を名乗ればいいし、小説を書いて作家を名乗ればいいし、ライブをやってミュージシャンを名乗ればいいのです。
大事なことはto do(したい)です。
プロになるには、そこで生み出されたものにみんなが評価してお金を出してくれれば商売として成立し、プロとなれます。
みんながお金を出してくれるくらいのものを生み出せるよう、時間を注ぎ、余計な行動を削り、人生をかける狂気をぶつけるのです。
それでようやく憧れていた、プロの漫画家という"立場"が得られます。
恐らくそのときには、to be(なりたい)ことへの興味自体は失われていると思いますが。

夢破れた後に思うべきこと

ただ、プロになれなくても得られるものは沢山あります。
自分のペースで好きなものを描くことができますし、漫画以外の趣味を楽しむ余裕もありますし、友達や家族との時間も確保できるでしょう。
仕事に行ってる時間も漫画を描きたいと思う人は、プロが羨ましくなると思いますが。


どんな状況であっても、良い面もあるし悪い面もあります。
プロになって得られる幸せもあれば失う犠牲もある。
安定した職を選んで得られる幸せもあれば失うものもある。

大事なのは、自分の選択に責任を持ち、自分の人生を幸せにする努力を最大限することだと思います。
自分の場合、大学2年生の時にサークルに入り直すという選択をしたからこそ、その後の充実した大学生活がありました。

同時に、それまでの選択の結果によって今自分が手にしているもの、状況、人を大事にすることだと思います。
夢破れた人が夢を叶えた人を恨んだり、足を引っ張ったりしても、何も生まれません。
今自分が何を持っているかに注目に、それをフルに活用しつつ、その後の人生を幸せにするために努力する。
それが夢破れた後に持つべき考え方なんじゃないかと、私は思います。

終わり






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