見出し画像

インターネットはオタクのためにあったんじゃなかったけ

フォロワー数とか人生のQOLに対して全然貢献しないと思っている。と、昔から仲の良いツイッター経由で知り合った音楽界隈の人と飲み会してておもった。

元はといえば、親父がT-Squareの初代ドラマーみたいな音楽一家に生まれて、音楽に関しては比較的英才教育だった過去を持つから、音楽に対する思入れはすごく大きい。し、ワンチャン音楽で食っていけないかなぁとかたまに思うくらいには音楽はスキ。

で、そんな家庭で過ごしていると、子どもの時からPat Methenyとかその辺の音楽しか聴いてこなかった。そうすると、まぁその時に流行っていた音楽とか全然聴いてこなかった。ニッチ is グレート、そんな教育を受けてきたんだと思う。

学校に入ると、どうしてもマスウケする話題が必要になる。そのくらいから一応社交性があったからいろんな音楽を聴けるようになったけど、さすがに〇〇パチとかが流行ったときはきつかった。そのころ00年代のパンクロックシーン(Fall Out Boy, Panic At The Discoなどのパンクロック全盛期)とか、Guns And Roses, U2, レッチリ, スマパンあたり聞いてた自分からすると苦痛でしかなかった。

とまぁ、僕の音楽史はどうでもいいんだけど、僕の好きな音楽を好きな人とようやく大学生くらいになって会えたことだったと思うんだよね。それが、超インターネット的だったというか。

思えば高校生まで、「自分と話したい人とだけ話す、一緒の空間を共にする」って権利って認められないんだと思うんだ。学区とかいう糞制度、クラス替えガチャで1年縛りみたいな世界観。それがようやく、大学といいうシステムによってリセットされる。「話したい人は選べる」って環境に生まれて18年でやっと得られる。

だからもう、マスウケする社交辞令とか気にしなくてもよくて、「自殺とパンクロック」みたいな話を好きな人とできるし、幸せだった。だから大学って超インターネット的だったと思うんだよな。

そして、いま僕は超インターネット的に仕事をもらっているし、本当におもろい人以外は飲まないって決めてるんだけど、

...フォロワー数を増やすとか、友達100人できるかな的、全然インターネット的な発想ではないと思っていて。もちろんそれが幸せな人はそれでもいいと思う。

でも、インターネットというバーチャル空間は、僕らの関係性を一度すべてリセットして、超インターネット的にオタクな交わりができる空間じゃなかったんだっけっていう、お気持ち。年齢とか性別とか超えて、熱狂を媒介に友情を創れるメディアじゃなかったんだっけっていう。

そして今日、北欧ポストロックシーンとか、台湾ロックシーンとか、東南アジアロックシーンの話をしていて、「やっぱり自分はオタクな話をしているときが幸せなんだなぁ」と思った。

自分を尊敬してくれる人、プロレスの観客、そういう人が増えると一時的には何者かになれた気にはなるけど、ほんとに自分が幸せになれるのは、オタクとオタクなことを話しているときなんじゃないかって話。インターネットはオタクのためにあるべきなんじゃないかなぁと思ったはなしでした。

酔っぱらって書いているので、明日恥ずかしかったら消します。記憶あるかなw

とりあえず推しの曲をnoteの新規実装機能で上げておきます。


サポートでいただいたお金はFanzaの動画を購入するために利用されます。