見出し画像

「好きなことで生きていく」べきなのか

「好きなことで生きていく」がもてはやされて、はや20年。社会人になって、本格的に「好きなことで生きていく」ことが可能な経済になってきているとつくづく感じる。

この記事では、一度「好きなことで生きていく」とは何なのか、一度振り返ってみようと思う。(僕のスタンスとしては多様性を尊重すべきだと思っているので、「好きでないことで生きていく」人たちが劣っているとか、そういうことは一切考えていない。)

「好きでないことで生きていく」とこういう働き方になる

嫌いなことで生きていく方法、それはほとんどの社会人の働き方だと思う。「労働は苦役を伴うもの」と思っている人だ。そういう「好きでないことで生きていく」人の働き方を図式化してみた。

1. 「好きでないことで生きていく」参入障壁は低く、競合性が高い

ほとんどの人間は、「好きでないことで生きていく」道を歩む。ほとんどの人間は、「好きなことで生きていく」という道を歩もうとしない。なぜなら、「好きなことで生きていく」という方法は、あまりにも生きていく上では参入障壁が高いからだ。バンドマンになるとしても、ちゃんと食っていけるバンドマンになるには相当時間がかかる。一方で、誰でもできる「好きでないことで生きていく」選択肢を取った人は、そんなこと悩む必要はない。なぜなら、好きでないことはお金を得るための参入障壁が低く、とりあえず雇用されてしまえばとりあえずは食っていけるお金がもらえるからだ。だからたくさんの人がこっちの道を通るから、競合性が高い。

2. 「好きでないことで生きていく」ための差別化は、垂直軸での上下の差で測られる

一方、「好きでない人ことで生きていく」人たちに待ち受けているのは、自身を差別化するためにレッドオーシャンの中で戦うことである。競合性が高い社会の中では、常に同じ土俵で戦い続けなければならない。多様性ではなく、垂直軸で、上限の差で測られる。答えが決まっているので誰でもやってくるのだ。

クラウドソーシングで安く買いたたかれている主婦さんを見ると、強くそう感じる。同じ簡単な作業ができる人が100人いたら、できるだけ安く質の高い人を発注側は取りたいはずだ。だから、競合性が高い誰でもできるスキルで稼ごうとすると、スキルの差で測られ、かつ安く買いたたかれるのである。

「好きなことで生きていく」とこういう働き方になる

一方で、好きなことで生きていこうとすると、このような労働になる。

1. 「好きなことで生きていく」と、参入障壁は高いが、競合性は低い

「好きなことで生きていく」と、そもそもその生き方をしている人が少ないので、圧倒的に競合性が低い。一方で、その「好きなこと」を仕事にしている前提があまりないので、参入障壁が高い。

2. 「好きなことで生きていく」ための差別化は、最初の小さなブルーオーシャンを見つけること

好きなことで生きていくと、競合性が低いので他人と戦う必要はない。大事なのは、自分が好きなことが他人が価値を感じてくれる、小さなブルーオーシャンを見つけることだ。

小さなブルーオーシャンは、実はいろいろなところに転がっている。誰かの問題や要望を解決できれば、それは市場となる。自分が好きなことを誰かが欲していれば、もうすでにそれが小さなブルーオーシャンになるのだ。

自分が好きなこと、できること、それを他人が欲しているかどうか確認し、小さなブルーオーシャンさえ見つけられれば、好きなことで生きていくのはさほど難しくない。

そしてその小さなブルーオーシャンは、誰かが課題を抱えているときに、他人の提供する価値と被らないようにする必要がある。だから興味を深めていって、リベラルアーツ的な学問の交差点を見つけ、多様性の中のお宝を見つけることがとても大事になる。

この辺までの流れを図式化したツイートがこれ。副業は僕にとって小さなブルーオーシャンを埋める仕事だった。


世界のプラットフォーム化が、「好きなことで生きていく」を加速させる

あらゆるサービスがプラットフォーム化していくと、すべての人が、クリエーターとコンシューマーになれる時代になる。YoutubeにはYoutuberが、noteには好きなこと書き散らかしている人が、普通に生活していけるだけのお金をもらえるようになっている。Airbnbが好きな場所を好きな人が利用できるようになっている。

そしてそれは、今まで企業では提供できなかったような、「小さなブルーオーシャン」を埋める個人の活動を加速させている。ありとあらゆる芸術や社会課題を、個人が溝を埋めていけるようになるのだ。

「好きなことで生きていく」で完結する世界になる

これから、個人が価値を提供できるようなプラットフォームが増えてきたので、個人間での価値交換ということが当たり前になっていくと思う。

身近な例でいえば、noteなどで収入を稼いで、その資金で他人のnoteを購入することがある。そんな時に感じるのが、個人の価値をそのまま他人の持ってる価値と交換している感覚なのだ。(もちろん仲介手数料がnoteに入っているけど、それはエコシステムが残るためには必要なこと)

自分が役に立てるブルーオーシャンが見つかっていて価値を提供できる人通しが価値を交換していくのだろうと思う。

でもすべての人が「好きなことで生きていく」必要はない

ただ、すべての人が好きなことで生きていく必要はないと思う。好きなことがない人が、「好きなことで生きていく」ライフスタイルを選ぶと、たぶん「好きでないことで生きていく」ライフスタイルのほうにまたあこがれると思うのだ。向き不向きの問題だから、どっちがいいとかそういう問題ではない。

夢組と叶え組

桜林さんのnoteで、好きなことで生きていく人=夢組、好きなことがない人=叶え組として説明している、素晴らしいnoteがある。

以下、素晴らしすぎるので引用。

「やりたいことがない人」も、やりがいはほしくて、やることに意味がほしい。あなたがいるから助かる、あなたがいないと困る と言われたい。
なんとなく「やりたいことがある人」が良しとされる風潮があるけれど、やりたいことがないからといって嘆くことはない。それに、「やりたいことがある/ない」の傾向は性格や子供の頃の環境などで決まってくることが多く、あとから急に変わったりはしないのではないかと思う。
「やりたいことがある人」は夢中になる能力があり、恋愛でも同様に没頭して夢中になれたりする。たとえ思い込みで結果的にちがったとしても、何度でも夢中になることができる。「やりたいことがない人」の恋愛は、夢中になるのが先ではなく、深い理解などの理由があることが大事な人が多いような気がする。
夢中になる能力がある「やりたいことがある人」を「夢組」だとしたら、やりたいことがない人は「叶え組」だ。
このふたつはチームになるといいと思う。仕事でも夫婦でも、「夢組」と「叶え組」はお互いに力になれるし、自分にはない能力を持っている相手を大事にできる。

好きなことで生きていく「夢組」の仕事は今後増えていくし、夢組の人はちゃんと「好きなことで生きていく」べきだと思う。逆に、「叶え組」の人は無理に「好きなことで生きていく」ライフスタイルにあこがれはせず、自分の合う生き方をしていけばいいんじゃないかと思う。

サポートでいただいたお金はFanzaの動画を購入するために利用されます。