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インターネット、フラットじゃなくて息苦しい問題

ここ最近、インターネットの歴史をずっと調べているんですよね。歴史って最近周期性があるということを学びました。例えば、ファッション。90年代のラップカルチャーが今若い子にリバイバルが来ていたり、僕の好きなPost Rockとかだと、00年代の音楽が最近風にリメイクされたりとか。

そういう文脈で、インターネットの歴史を見たときに、同じような周期性があるんじゃないかと思いました。(ちなみに95年生まれなので、インターネットの意識があるのは2005年くらいです。)適当に振り返ると、こんな感じかと思います。

・90-05年:コンテンツと個人が紐づかない「フラット」な時代
・05年-:コンテンツと個人がダイレクトに紐づく、「バーティカル」な時代

90年代は存在しなかった時期なのでなんとも言えないのですが、たぶん匿名性の高いインターネットだったのかなと思っていて、12才の小学生と、30才の大人がコミュニケーションをとっていても、どっちも大人だと錯覚しえるようなフラットな世界が広がっていたと思うんですよね。Web2.0とかも流れとしてはその流れだったかと思っていて、誰もが平等に発信者であり受信者になるみたいなイメージだったと思います。だから誰が言っているかとかは地位関係に関係なかったので、コンテンツはそのブランド価値を帯びなかった。

で、05年代以降になると、芸能人がAmeba Blog等をはじめて、現実のステータスを全部インターネットにぶち込んでPVを稼ぎ始めたり。ここ最近だと芸能人のアパレル化とか、ツイッターのインフルエンサー的なあてにならない錯覚資産である「フォロワー」という数値によって、「コンテンツ」よりも、「誰が話したのか」がより大事になってきているのではないかと思います。


インターネットのステータスが現実にそのまま拡張されたり、逆に現実のステータスがインターネットにそのまま拡張されたり。どちらもより人間に格差をもたらすようになり、フラットだったインターネットは、よりバーティカルになっていているように思えます。

そんな流れで今VRの界隈は面白いと思っていて、フラットな世界に回帰していると思うんですよね。おじさんが美少女になっていって抱き合ったり、転職に悩んでいる若者と、見ず知らずの社長が一緒にVR空間上で焚火を囲んで話しているような光景。こういった、現実世界の拡張では起こりにくい関係性が、VRというアーキテクチャによって、再度フラット化されているのは、非常に面白いところです。


そして、そろそろ現実の拡張であるSNSの空間から疲れてくる人たちが、よりフラットな空間に移住するのではないかと考えていて、たぶん来年のOculusが出てきたときに、その辺の欲望が顕在化してくるんじゃないかなぁ。

というお話でした。

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