ヒトが持つ「ダサい」という感覚の正体

ポエム。かたいしくんのツイートを見て面白いテーマだなぁと思った。

ヒトが持つ、「ダサい」という感覚がある。このダサいの感覚について、ちょっと考えてみたい。この「ダサい」という感覚が、なぜ生まれるのか。そしてどうしてこの「ダサい」という感覚は、よく特定のコミュニティや、そのコミュニティのふるまいに対して感じ取れる。なぜなのか。

結論から言うと、ダサいという感覚が、階層を固定化させるうえで重要だからだと思う。今回は「ダサい」という感覚と、ヒエラルキーについて考察してみる。(あくまでもポエムであり、議論に根拠はありません)

階層と階級

なぜ、ヒトは階級・階層を作りたがるのか。平等という概念がちゃんと普及しはじめたのは、1776年のアメリカ独立宣言からになるが、逆に言うとそれまではずっと階級社会であった。

そして、法的に平等権が認められ、階級がなくなっても、ヒトは「階層」を発明し、格差を維持してきた。

ヒトは平等を求めながらも、一方で階層を無意識のうちに創り出している、複雑な生き物なのである。

ヒトとヒエラルキー

ヒトは放っておくと、ヒエラルキーを作るようにプログラムされているらしい。インドのカースト制度から、日本の士農工商、イギリスの貴族社会からアメリカの人種差別等、ありとあらゆる属性を利用して、ヒエラルキーという「差異」を創り出している。

ヒエラルキーには二種類あると思っていて、一つは①機能的ヒエラルキー、もう一つは②社会・文化的ヒエラルキーである。

①機能的ヒエラルキーは、一般的に、日本社会ではヒエラルキーといった場合、会社の組織図をイメージしてもらえればわかる。このヒエラルキーは指揮系統のために存在する。機能的な目的のために作られたヒエラルキーなのである。

もう一つ、今回のトピックである、②社会・文化的ヒエラルキーである。これは、全体最適のための機能的なヒエラルキーとは異なり、人との差異を作るための、記号的なヒエラルキーである。例えば、さきほど上げたような階級や階層等に値する。

なぜ、ヒトは社会・文化的ヒエラルキーを維持しようとするのか

ところで、ふと、こういう疑問を持った。


それに対して、こういう仮説を立てた。

まず、すべての人間の根本的なアルゴリズムは「生存」にあると思っていて、人間の生存の最高戦略は「より強い種と一緒に協力すること、そしてなるべく共倒れする弱い種から離れること」だと思っている。そのうえで、この環境をどう構築するかとなった時に、そういう環境を作るためにヒエラルキーを発明するのだと思う。

階級社会の崩壊と、階層の発明

そして、この強い種と一緒に協力するためには、強い種を連れてこなければならないわけだが、強い種の希少性はかなり高い。なので、強い種同士が一緒に入れるために、それら以外を入れない、排他的な「階級」を発明した。しかし、この階級が認められなくなり、新たに排他性のあるヒエラルキーが必要になった。

そこで発明されたのが、階層という新しいヒエラルキーである。階層は、目に見えてわかるヒエラルキーではなく、文化資本、社会経済資本によって生まれる、あらたなヒエラルキーである。

文化で見えない壁を作る

昨日、『階級のハビトゥスとしての文化弁別力とその社会的構成』という論文を読んだ。(ハビトゥスについては、社会学の権威であるピエールブルデューを参照してほしい)

ざっとまとめると、こういうことになる。

・文化には、ハイカルチャーと大衆カルチャーが存在する
・階層上位層ほど、ハイカルチャーが何かどうかを認識できるが、低いと認識できない

まず、ハイカルチャーと大衆カルチャーの評価は存在する。例えば美術館に行くのはハイカルチャーだし、パチンコをするのはローカルチャーである。

また、階層が高いヒト(職業威信スコア、自身の学歴、親学歴)ほど、何がハイカルチャーかどうかを見定める力がある。

つまり、文化という媒体を通して、何が強い種なのかを見定め、強い種のコミュニティ、階層を創ろうとしているのである。

文化という見えない階層維持装置

そして、社会現象として、文化を階層維持装置として利用している場合が多い。文化を持っていれば、「なぜ世田谷区に住むべきなのか」という問いにもこたえられるし、その階層維持装置によって得られる便益もわかる。より強い種族とともに生活することは、そのコミュニティ全体に大きな効果を与える。また、弱い種が起こす問題からも回避できる。

文化資本 vs 社会関係・経済資本と階層

ここまでの議論としては、以下のとおりである。

・ヒトは、より強い種族をともに行動し、弱い種族からは離れたい
・そのために、ヒエラルキーを発明した
・過去の「階級」というヒエラルキーが機能しなくなったので、「階層」を発明した
・階層は、文化資本、社会経済資本によって排他性を担保している

である。で、一歩進めて「ダサい」という感覚について議論するときに必要なのが、文化資本と、社会関係資本、経済資本である。それぞれの用語はピエールブルデューが提唱しているものであるが、ここで一度雑に定義しておく。

・文化資本:教養
・社会関係資本:人脈
・経済資本:所得

で、これらによって階層はできている。例えば、文化資本であれば、クラシックが理解できている人は上流階層のヒトは多いし、例えば〇〇さんクラスタのヒトは所得が高かったりするし、単純に所得が高ければ、年収の高い人通しのクラスタになる。こんな感じで、階層は固定化される。

文化資本については、理解が難しいので、引用で説明する。

文化資本
フランスの社会学者ブルデューの用語。経済資本に対していう。三つの形態をもち再生産される文化的所産の総称。
言葉づかいや行動様式など身体化されたもの
絵画や書物など物として客体化されたもの
学歴や資格として制度化されたもの


身体化された文化資本。
たとえば場に応じた行動の仕方、ものの言い方、道具の用い方などの能力を身につけていることである。それには文化資本の蓄積者自らが時間をついやし、身にそなわったものとして獲得していくことが要件となる。
ここでいう文化は、芸術や文芸活動などいわゆるハイカルチャーを含め、さらに日常的な立居振る舞い、行動様式などを包含する広い意味であることはもちろんである。
ハイカルチャーという表現が含意しているように、文化資本は、各社会において正統とみなされている文化に親しく近づくことができる能力、あるいは正統文化の規範にそったものであるほど、資本としての価値は高い。たとえば、正統言語を話せる人とそうでない人との差を考えてみればよい。
客体化された文化資本
絵画、書物、映画、さまざまな道具など、文字どおり物として獲得され、蓄積されることが可能な資本である。その獲得のためには経済資本が必要であるが、しかしこれらの物が文化資本として十分に効果を発揮するには、それらを用いるための身体化された文化資本が、それらの物の所有者ないしはその代理人によって所有されている必要がある。
制度化された文化資本
学歴などさまざまな資格という形式において現実化されているものである。
資格という制度によって、承認ずみの正統な能力と、そうではない能力とのあいだに境界線が画定される。換言すれば、資格という文化資本を獲得することによって、その獲得者は正統文化への所属を公認されるわけである。


階層を作る資本の希少性が高いほど、より階層を排他的にできる

そして、この資本関係は、実はプライオリティがあるのではという仮説がある。つまり、高階層であればある人ほど

文化資本 > 社会関係資本 >経済資本

という序列で、階層を排他的に創り出しているのだと思う。理由は明確で、資本の希少性だと思う。

文化資本は、子どものころからまず経済資本がないと教養が得られない。社会関係資本は、成金だともともと文化資本の高いヒトとのコミュニティは創りにくいが、一度経済資本さえ手に入ればなんとかなるかもしれない。経済資本に関しては成金でもなんとかなる。

「ダサい」という感覚が、階層を固定化する

そして、この「ダサい」の感覚は、おそらく文化資本によるものと思う。伝統的な富裕層の、成金に関するダサさを感じるのは、階層構造のバランスを保つために、文化資本できっちりとヒエラルキーを構築しているのかもしれない。経済資本、社会経済資本を持ち始めた新興中間層に自らの階層が汚染されないように。

この「ダサい」という感覚は、階層を固定化するための文化資本なのかもしれない。

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Dai

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