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「地域活性化」について考える(中編)

(前編のまとめ)「地域活性化とは、状態じゃなくて行動のことだ」ということ。でも、現状「こうなったらいい」とか、「活性化とはこういう状態のことを言う」とか、そういう“状態”についての議論ばかり目立つという話。

※前編・後編と思って書いてたら随分長くなりそうなので、「中編」を作りました。
以下中編の内容です。

変態を増やすなら、変態な教育者が必要だ

もしこの「前編」で述べた考えが正しいとしたら、必要なのは「状態について議論すること」ではなく「行動を起こす変態を育てること」だ。

もちろん議論は無意味だとは言わない。しかし、議論のための議論があまりに多すぎやしないだろうか?これはこのまちに限ったことじゃ無いけれど、「こうなったらいいですね」という結論を出しただけで本当にそうなったら苦労はない。議論だけでは事は進まない。行動が必要だ。

僕はよく変態という言葉を使うが、そこに悪い意味のニュアンスは無い(と個人的には思っている。結局は受け取られ次第だが。)。変態とは、やりたいと思ったことをやっちゃう人のこと。行動ありきで考える人のことだ。今の世の中、なかなかみんな余裕が無くて、行動に移せないことが多い。だから、行動できちゃう人は「変な人」に映ってしまう。

そんな「変な人」を敬意を持って変態と表現している。僕が始めた“常磐ラボ”はなんとなくそんな変態が集まっていて、とても楽しい。この記事も、常磐ラボを始めていなかったら、こんな風には考えなかったかもしれない。でも、世の中を変えていくのはきっとこういう変態たちだし、変態じゃない「まともな(普通の)人」だって、変態が作り出す面白い世の中が来るのを願ってるはずだ。だから、イベントなどでもそれなりに盛り上がるのだろう。

ただし、一部の変態が作り出す一過性のノリに大部分の「まともな人」が乗ってくる状態では、「また誰かこういうのやってくれないかな」みたいな感情が最後に残る。これではちょっと残念だ。変態が多い世の中ならば「楽しかったから、今度は自分がやろう!」とか、「運営に入りたい!」みたいなことになるだろうし、その方がきっと盛り上がる。そのためにはどうすればいいのか?

大学教員として思うことは、少々複雑で残念ながらあまり楽観的なものではない。なぜなら、教える立場の人間に、あまりに変態が少な過ぎるからだ。少なくとも、今の公教育は、行動を起こすことを前提に何かを教えることはほとんどない。そして、実際教育者の立場から離れたところで個人として行動を起こす人もほとんどいないだろう。だからきっと「行動を起こす」ということ自体もあまり具体的にイメージできているわけではないのだと思う。

僕自身そこまでガンガンと大学教員以外の肩書きで行動しているわけではないが、それでも大学の外に『常磐ラボ』という自分の居場所を持ち、そこに「こんな人が増えたらいいな」と思う人たちと一緒に考え行動することが出来ているのは、きっと強みになると思う。特に、この先10年、20年を考えた時には(大学のイメージや役割を根本からひっくり返すようなドラスティックな改革が無い限り)明らかに斜陽産業に入る大学業界に身を置くものとしては、大学以外に自分の居場所を作って行動することはリスクヘッジであるとすら思っている。

当然、大学スタッフ、学生たち、その他周りのいろんな人から「変な人」だと思われているはずだ。でもそのポジションを自分で受け入れてしまったら、別にどうということもない。逆に、今まで知らなかった変態と知り合うことができるので、おもしろいことも多い。ストレスも無い 笑

常磐ラボで過ごす時間は、きっとそこに集まる変態達(特に若い世代の人たち)に刺激を与えて、人生を考えるきっかけになっていると思う。なぜなら、なにより自分が一番そういう刺激を受けて、人生について考えるようになったからだ。これは既存の枠組みではおそらく教育などとは言えないものだろう。あやふやな組織でカリキュラムも無く、到達目標も無ければ成績評価も無い。でもこういう取り組みをする変態な教育者がこれからは必要だし、旭川にもっと増えたらいい。

みんながみんな常磐ラボに集わなくても、そういう居場所を例えばオンラインに作ることだってできる。それなら費用はほとんどかからない。僕自身はリアルなコミュニケーションが大事だと思っているからリアルな場を作る方向で考えちゃうけど、もっと軽やかにもっと幅広いアイデアを持っている人がもっと面白い仕組みを作ることだってできるはずだ。そういう変態な教育者が増えることが、未来の変態を増やし、面白いアクションや制度が飛び出すまちが出来上がるかもしれない。そうなった時、きっと地域も自然と活性化してる。

変態な教育者はどうしたら増えるのか?(教育者の定義とは如何に)

これは難しい。とても難しい。義務教育も高校教育も大学教育も、好き勝手に色んなことをやっていいわけではないし、ここで言う変態的な活動は当然だけど人事評価には何の影響も与えない。時間だけ食って評価に繋がらないなら、やる意味も無いしその時間は仕事やプライベートに使いたいと思うのは当たり前のことだ。場に集まる人だって同じで、そういう場に来ること自体に意味を感じなければ、わざわざ時間や体力を使ってその場に来ることは無いわけで。

そう考えると、“変態”はもともとそのような素質がある人なんじゃないかという気すらしてくる。変態気質みたいなのがあって、それが表出してるかどうかの問題、みたいな。変態気質が埋もれている潜在的変態が、既に変態化した人に出会うとその潜在的な変態気質が呼び覚まされるような。しかしながら、少し考えればわかるように、そういうタイプの人間は、いわゆるふつうの「教育者」と呼ばれる職業に就いたりしないだろう。多分、そういう道には進まない人が多いのではないかと思う。

ここまで考えてきて思うことは「教育者」という表現そのものが良くないのではないかということだ。変態な教育者とは、要は潜在的変態の潜在的変態性を顕在化させるような人のことだから、なにも学校の先生でなくてもいいし、学生でもなんなら小学生だって構わない。そして、この中編のポイント、“教育者”は人でなくてもいいと思うのだ。

僕たちは、「教育者」というとすぐに学校の先生をイメージするが、僕たちは学校の先生から全てのことを教わったわけではない。最近話題になった本『知ってるつもり』の中でスローマンとファーンバックが言っているように、「知識はコミュニティの中にある」のだ。

個人が学習し、理解できる量には限りがある。それを超える何かを成し遂げるには、コミュ二ティが必要だ。根本的な営み、すなわちモノを考えることにおいて、私たちは一蓮托生なのだ。
知能は特定の個人ではなく、コミュニティの中に存在する。このためコミュニティの知恵を引き出す意思決定の手続きは、比較的無知な個人に頼るものより優れた結果をもたらす可能性が高い。有能なリーダーとは、コミュニティをもり立て、その内に宿る知識を活用し、メンバーの中で最も専門能力が高いものに責任を移譲できる人だ。(pp. 279〜280)

とすれば、真の教育者は「コミュニティ」であり、そこにいろんな変態が参画することで潜在的変態が徐々に顕在的変態へと変貌していくのではなかろうか。

だから、ひとりの人間としての変態をふやすことを考えるのではなく、「行動できる場としてのコミュニティ」を増やすことこそ求められるものだということになる。その一つが、常磐ラボだ、という位置付けにまで持って行けたなら、それは素晴らしい。

〜後編へ続く〜

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