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〈資本主義社会‐内‐存在〉商品人間と欲望の大量生産

1/3 這い寄る資本家

まず我々が警戒せねばならないのは、システムによる侵犯である。たとえばそれは次のようにして始まる。

「これ、めっちゃ便利なんですよ。電車とか、お風呂とか、すきま時間を使って稼げちゃうんです。ほらこんな感じで(彼女は私にスマートフォンを見せる)アンケートがいっぱいあるんですけど、これに回答するだけでお金がもらえちゃうんです。あ、お金と言っても本当はポイントで、いやでも通販で服とかコスメとかいろいろ買えるから、ほぼお金みたいなものです」

「ふうむ」私は眉をひそめる。「で、たとえばそれを一時間やったとして、君はいくらもらえるんだね?」

「うーん……。300、いや、がんばれば400ポイントくらいかな。そんなにぶっ続けでやらないからちょっとわからないけど」

さて、このポイントの換算率は1ポイント=1円なので、時給で考えればあまりにも割に合わない労働である(そもそもあまねく対価のための労働は割に合わないものだがそれはさておき)。だとすれば、どうして彼女のようにコミットする者が現れるのか。

第一に本人の言うように時間的制約がないこと。そしてもう一つの理由はこれがその実質に反して、法令上では労働として扱われないということだ。餓鬼だろうがアル中だろうが学校でバイトを禁止されていようが関係ない。スマホを持っていればすべてが許される。

昨今はどこもかしこもデータデータである。企業は情報を集めたい。しかし収集には手間がかかるし、分析にはそれなりの専門家が要る。困る。そんな時に揉み手をして現れるのが、ある種の調査会社だ。

この調査会社は〈AI〉とか、〈ビッグデータ〉とか、流行のワードをちりばめた営業トークをまくしたてる。そして最後に「うちならデータをそろえられますよ」と囁く。企業は情報の収集を調査会社に委託。そのデータがいかにして集められるかはすでに述べたとおりだ。

マルクスを引くまでもなく、これが調査会社による女子高生(別に女子高生じゃなくてもいいんだけど)の生産した剰余価値の搾取であることは明らかで、これ自体は別に目新しいことではない。ただ、今回注目するべきは、スマートフォンを介して、搾取がリモートコントロールされている点である。

この調査会社の賢い点は、〈AI〉や〈ビッグデータ〉などの最先端っぽさにあるのではない。新たな労働市場を開拓した点にある。

新たな労働市場となれば、某アパレル企業や百円均一の雑貨屋のように、物価の安い地域に工場をおっ建てるのが定石だ。しかしそのやり口もグローバル化による国家間格差の減少で限界が見え始め、資本家は頭を抱えていた。

その点この調査会社は二重の意味で開拓に成功している。まずは〈誰でも〉という点、そしてもう一つは〈すきま時間を〉という点だ。

アンケートの内容次第では回答者に年齢や性別で制限がある場合もあるが、基本は誰でも、アンケートに回答する根気さえあれば参加できる。これが従来のような労働に参加できない層をも搾取の対象にすることを可能にした。

もう一つ。〈すきま時間を〉これもとても重要だ。長年に渡って資本家は効率よく搾り取るノウハウを蓄積してきた。雇用コストを考えれば、必要なとき必要なだけ労働力を確保できるのが都合がいい。

その解答として発明されたのが、非正規雇用であり残業である。しかしいくら工夫しても細切れのすきま時間まで搾取することはできなかった。せっかく手間をかけて雇うのに、あるいは通勤するのに、短時間労働。資本家と労働者、双方にとって費用対効果が小さすぎたのだ。

ここで思い出して頂きたいのは冒頭の女子高生が持っていたニーズ、すきま時間の活用とバイト禁止の校則の抜け穴だ。誰もが常時ネットに接続した端末を持ち歩く。これは一つの革新だった。ネットワークは資本家と女子高生を接続する。

そうして実現したのが、資本制生産様式の領土拡大である。これまで述べてきた調査会社はその一例に過ぎない。さて、ここまで読んで、こんな疑問を抱く方もおられるのではなかろうか。

「資本家と女子高生、ウィンウィンだし別によくね?」

一見そのように思える。時間を活用したい女子高生と、それを利用したい資本家、お互いの思惑が合致し、一つのビジネスが成り立っている。

問題の構造を捉えるためには、より深い洞察とより広い視野が要求される。まずは深く潜ってみよう。

2/3 欲望は他者の欲望である

そもそも彼女の言う〈すきま時間〉とはなんだろうか?

〈すきま時間〉という言葉が用いられるのはもっぱらビジネス界隈である。生産性を論じる文脈でよく使われる言葉だ。それは厳密に言えば、細切れの非生産的な余暇である。特に活動しているわけでもないが、さりとて休日というほどの長さはない。

昨今はテレビの他にも Youtube, Twitter, Netflix など、余暇を潰す手段には事欠かない。先のアンケートサイトもその一つだ。我々の生活のすきまは、みっしりと埋められている。

過剰な退屈はストレスだ。余暇を潰す選択肢がたくさんあるのは喜ばしいことに思える。すきま時間という言葉には、それが非生産的で避けるべきものであるというニュアンスが含まれている。

しかし一方で、フライやフィリップスをはじめとする複数の心理学者は、退屈や余暇の重要性を指摘する。ベルトンによると「退屈は真の創造性をもたらす内在的な刺激を発達させるのに不可欠な存在である」これはどういうことだろうか。

たとえば夏休みに大量の宿題を出された子供が遊び方を覚えられないように、あるいは労働時間が長い国ほど受動的な娯楽代表のテレビ視聴時間が長いように、言い換えれば、ショーペンハウアーの言うようにギリシャの偉人を育んだのは彼らが自由に使える時間だったということだ。

つまり、すきま時間は元来、生産性を持っていたということだ。さらに言えば、これは一つの逆説だが、すきま時間こそが本来的な意味で最も生産的な時間だったのだ。すきま時間は、(資本家にとって)という注釈つきでのみ、非生産的なのだ。

ここで一つ注意を促しておきたい。女子高生が自らの日常の一部を〈すきま時間〉としてしまう時、資本家の価値判断が、女子高生のなかに内在化しているということだ。

彼女は自分で判断していると思っている。しかしそうではない。彼女の欲望は資本家の欲望である。これは掟から超自我への移行であり、一つのエディプスコンプレックスである。

さて、時間は労働力という形で売ることができる。我々はそうして得た金や時間、つまり財産を、商品、つまりコンテンツ(服、コスメ、etc.)とアクティビティ(映画、旅行、etc.)を消費することに使う。

結局のところ、あまねく商品は我々の財産に押し寄せる娼婦である。

余暇を潰す選択肢が多いこと自体は決して悪いことではない。問題なのは、選択肢から選ぶことに慣れ、自分で考えることをやめてしまうことだ。

資本家は商品の消費を促すために、マーケティングを仕掛ける。マーケターは退屈に悪のレッテルを貼り、叫ぶ。「欲望のままに消費せよ。人生は楽しんだ者勝ちだ」と。楽しむことに勝ちも負けも無いはずなのに、ここにおいても競争の原理が幅を利かせている。

マーケターによって提案された勝者の理想像は、メディアによって拡散される。それは一種のロールモデルである。我々はロールモデルの生き生きとしたイメージを、メディアを通じて潜在意識に刷り込まれる。

「99.9%除菌」「そうだ京都に行こう」「賢くリスクに備える」「ウイスキーがお好きでしょ」「一生思い出に残る式を」「青春ラブストーリー」「夢のマイホーム!」ドラマやCMに仕込まれた毒物は我々の精神を蝕む。(どちらかというと、メディアから直接ではなく身近な人間が生体濃縮して吐きかけてくる場合の方が多い)

我々が自分の欲望だと思い込んでいるのは、実はロールモデルの欲望である。我々はロールモデルになろうとし、ロールモデルに自己を同一化する。ここにおいても、欲望は他者の欲望である。

ロールモデルの模倣。アダルトビデオ受け売りのセックス、量産品のようなリア充、顔の無い恋人が欲しい病、既視感のあるインスタ映え写真、発明は必要の母と言わんばかりの最新家電、判で押したような観光地の巡礼……。人々は既製品の幸福を買い漁り、貪る。

さて、欲望が他者の欲望であるとして、欲望のままに生きることは問題なのだろうか?

なぜそれが問題かというと、欲望は決して満たされないからだ。

まずレヴィナスに則り、欲望と欲求を区別する必要がある。欲求は満たし得るが欲望は底なしだ。なぜなら既製品は〈本物〉じゃないからだ。

欲望の対象、曖昧な形を持ったそれは、たとえるならカフカの『城』のようなものだ。城を欲望する我々は城を直接目指すのではなく、コード化された様々な手続き(≒既製品‐選択肢‐ロールモデル)を欲求しなくてはならない。逆に言えば、城を直接欲求することはできない。この欲求を煽るのがマーケティングだ。

消費の対価は払わねばならない。労働者は自己の労働力を切り売りする。就活生は自己PRを引っさげ、自らを人事に売り込む。我々はシステムに、消費者と生産者の一人二役として組み込まれる。

対価を払ったり消費したりすることに時間を割く人間は、次第に創造性を失い、消費の選択肢を選ぶ他なくなる。消費を選べば対価として労働を強いられる。それは時間を、延いては創造性を損なう。この流れは回帰し、加速していく。

メディアを通じたロールモデルの刷り込み。このことに思い至れば、すきま時間を埋める手段が、どれも強力な依存性を持ったドラッグのようなものであることがお解り頂けるだろう。テレビ、 Youtube, Twitter, Netflix......。それらは商品でありながらさらなる消費を喚起する。

個人の資本システムへの併合は、手始めに学校教育から始まる。競争、充実、比較、効率化……。すべては満足への指向だ。それは経済の原理でもある。

結果、機能と意志という二重の意味で、個人とシステムの境界は曖昧になる。資本家に機能を売り払う、量産的な存在という二重の意味で、人は商品になる。人は物質と精神の両面からシステムに蝕まれる。消費するために消費される。つまり〈資本主義社会‐内‐存在〉。これが冒頭で言った、システムによる侵犯である。

欲望の満足を目指す限り、人は永遠の飢餓に引きずり回され続ける。人間道から餓鬼道へ、三階級特進だ。カントやラカンが看破したように、我々は原理的に〈本物‐城‐欲望の対象〉にアクセスできない。触れるのは既製品だけだ。

最初の方で「資本家と女子高生、ウィンウィンだし別によくね?」という反論可能性に触れた。たしかに一部の人々にとってはそうかもしれない。

しかし全体の構造を女子高生の側が認識したとき、つまり創造性の喪失と餓鬼道への転落まで含めて把握したとき、彼女はこの関係性をウィンウィンだと思えるだろうか?(もちろん女子高生というのは一例でしかない)

3/3 蜘蛛の糸の在り処

ここまでの論述は、マルクスを媒介にして、
芥川の「人生は地獄よりも地獄的である」
サルトルの「地獄とは他者である」
ラカンの「欲望は他者の欲望である」
この三つのディスクールを接続する試みだった。

自分は自分ではないこと。欲望は他者の欲望であること。それに気づくためには自意識を肉体から剥がし、仏の視点から地獄全体を俯瞰する必要がある。

満足とは満ち足りることだ。満足を目指す行為は結果のための行為であり、それは極めて道徳的かつ自己否定的である。

それはコップに水を満たすようなイメージだ。そのコップこそがロールモデルであり、水の容積は自分だ。自分はコップの容積との比較(=他者のまなざし)によって、常に足りない度合いとして、欠如者として把握される。もちろん水をいくら注いだとしても、別のコップが現れるだけだ。

欲望の満足は原理的に実現しないことがわかった今、「満足しているか」という問いは、もはやなんの意味も持たない。満足は存在しないからだ。本論において地獄とは、資本主義社会が醸す欲望の蜃気楼である。

結果によって価値を保障されていた行為は、結果の実現可能性が否定されてしまえば、もはや価値を持たない。だから我々が行為するのであれば、結果ではなく行為そのものに意義を見出せるような行為でなければならない。

既製品の消費で〈満足〉しようという企みは不毛だ。為すべきはニーチェ的な転回、つまりそれは、「満足しているか」という問いを転覆することだ。(Q.E.D.)

すべての消費を否定するつもりはない。問題なのは、選択肢から選び消費すること、欲求しかできなくなること、消費されること、創造できなくなること、この連鎖である。

さて、以上、新手の資本家の手口を皮切りに、我々を取り巻くシステムと我々自身の欲望、この相互作用で立ち現れる世界の構造を素描した。つまりこれが〈資本主義社会‐内‐存在〉である。

この地獄を抜け出すためには、システムによる侵犯(この手口は年々洗練されている)を拒絶する、言い換えれば欲望の幻想を払う必要がある、というのが本論の趣旨である。

消費も消費自体に価値がある限りにおいて肯定される。しかし、欲望は他者の欲望であることを念頭に置いて検討したとき、肯定されうる消費は案外少ないはずだ。この発見が幻想を払う最初の一手になるはずである。

この辺は各々検討していただきたい。無駄な消費を止めて取り戻した時間はぜひ、地獄を抜ける足掛かりに使ってほしい。少なくともこの文章を読むのにかかった時間くらいは容易に取り戻せるはずだ。

たまに「金さえあればなんでもできる」などと真顔で言う者がいるが、あれは豚である。金が可能にするのは、欲求を満たすことだけだ。

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