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新海誠『天気の子』評

観てきたので評論をぶつぞ。

端的に、総評を言えば悪くなかった。たぶん『君の名は。』よりもよかった。しかし映画の根幹の部分で看過できない問題があった。以下に良かった点と悪かった点を示そう。


【良かった点】

新海誠監督(以下敬称略)の強みは、光と水の描写にある。その強みを活かした、雨に光る東京を舞台にした感傷的な恋愛譚『言の葉の庭』で新海のスタイルは確立された。だが『言の葉の庭』には、商業的に成功するには足りない要素があった。展開と舞台(画)が単調だったのだ。

この弱点を緻密なプロットと虚実織り交ぜた舞台設定で克服したのが『君の名は。』だった。物語の展開は観客を引き込む力を持っていたし、広がった設定の幅が画の美しさを効果的に引き出していた。都会、夕焼け、彗星の描きっぷりは白眉だった。

美しく都会を描く技術は若い世代の希望と共鳴するために不可欠だ。現代において経済的成功にタッチせずに、説得力のある夢や希望や憧れを描くことは難しい。そして新海は、都会(それは経済的成功の象徴だ。)を美しく描く術を知っている。現代の若年層にウケたのは極めて自然な成り行きだった。

だがその『君の名は。』もエンタメの域を出ず、良くも悪くも耽美の領域に留まった。観客はなんだか面白いもの、すごいものを観せられた気にはなるが、結局残ったのは虚ろな余韻だった。スクリーンに、欠落した青春の理想を観ただけだったのだ。提示された幻想に違和感を抱いた客は新海に背を向けたし、共感できた客にとっても新しい何かを得るような映画体験にはならなかった。いずれにせよ、美しく虚ろな映画、それが『君の名は。』だった。

以上のように新海誠を理解したとき『天気の子』が従来の新海作品よりも秀でている点は以下の二点だ。

『天気の子』は天気を材に採った作品だったが、水と光の描写に長けた新海が〈天気〉に目をつけたのは美的必然だったし、実際それを料理する試みはかなり成功していた。舞台設定の工夫は踏襲され、情景描写の美しさも一段上がっている。この点は文句なく本作の良かったところだ。

もう一つの良かった点は、ただのキレイ系映画に終わってしまった『君の名は。』に対し『天気の子』には監督の、検討する価値のある主張があったことだ。この点は恐らく本作の根幹であり、新海の進歩だった。

そして問題は、つまり悪かった点は、新海が取り扱った問題とそれの解答、要するに主張の、提示の仕方にあった。


悪かった点

ところで先日、地上波で流された『君の名は。』が巻き起こした反応は様々で、好意的な意見の他にも、モチーフとしての災害の取り扱い方や、性的な含意のある描写に問題を指摘する意見が一定数あったようだ。これに関する新海のインタビューがある。

「僕の映画『君の名は。』を強く批判した人たちに批判されないようにするべきなのか。あるいは違うやり方があるのか。その時に僕が出した結論は『君の名は。』を批判してきた方々たちが見て『もっと批判してしまうような映画』を作らないといけないと思いました。」

新海の反骨気質は、教員と生徒の不倫劇を美談として描いた『言の葉の庭』においてすでに明らかだったし、それを先鋭化させることはなんら悪いことではない。問題はその姿勢が中途半端に終わってしまったことだ。

『天気の子』の物語は複数の二項対立を軸に展開した。〈個人/社会〉〈人為/自然〉〈市民/公権力〉〈子供/大人〉。主人公の少年はこれらの対立においていずれも前項の位置を占めた。

少年は、少女との出会い、交流、離別、と進み、最終的に、少女の命と街の回復の取捨選択を迫られる。大いなるもの(社会、自然、公権力、大人)の圧力に屈せず、少年は少女の命を取ることを決断し東京を沈める。つまり社会よりも好きな女の子の命を優先させるわけだが、このあたりが「もっと批判してしまうような映画」と新海が言った所以だと思われる。

道徳的な批判をするつもりはない。むしろ問題として指摘したいのは、エゴイズムを肯定するために都合の悪い要素を新海が(道徳的観点から)隠蔽した点だ。

私が決定的に違和を感じたのは、逃避行をする少年と少女が雷を起こしトラックを爆破炎上させた後、逃げ延びたホテルでクスクス笑っているのを見たときだった。

※トラックには路上駐車の取り締まりにひっかからないように誰かが乗っていたはずだ。つまりここで人が少なくとも一人死んでいる。

しかしこれは一例に過ぎない。あれだけの災害が起これば絶対にそれなりの数の人命が失われたはずだ。

少年が少女の命と天秤にかけ、切り捨てたものはなんだったか? この問いが、決断を支持するにしろ否定するにしろ、見過ごされてはならない。劇中では水浸しの東京が何度も映し出される一方で、死を直接描いたシーンは一度もなかった。少年が少女と引き換えに切り捨てたのは社会だったが、その社会は作中で、抽象的で無機的な、単なる物存在に成り下がっている。でもそうではないはずだ。少年が切り捨てたのは建物だけではない。多くの人命もまた犠牲に供されたのだ。

社会から命を捨象するために、新海は江戸が二百年前に埋め立てでできた話を持ち出し、3DCGを使った東京の空撮映像を何度も挿した。スケール拡大のトリックによって切り捨てた生命を隠蔽し、問題を生臭くないものにすり替えたのだ。このような小手先で誤魔化すやり方は、はっきり言って卑怯だった。

※空撮のシーンは美的な観点から言っても「浮いていた」ように思う。他のシーンが美しかっただけに、それは余計に目立った。

私の主張はこうだ。新海は作中で少年に直接、人を何人か殺させるべきだった。銃でもナイフでもいい。百歩譲ってそれが無理だとしても、事件以後の少年に成長の跡がまったく見られなかったのは本当に最悪だった。彼には、得体の知れない社会なんてものではなく、命と正面から向かい合わせるべきだった。

都合の悪いことをちゃんと描くことで、少年の決断の価値(それは新海自身の主張でもある。)も重みを持ち、観客に訴える効果も大きくなったはずだ。社会よりも個人的な事情を優先させることの躊躇いが、もっとちゃんと描かれるべきだった。だが日和った新海は、血と涙と膨らんだ溺死体を隠蔽した。それは現実から目を背ける安易な美化だ。社会とは抽象的で無機的な概念ではなく、血の通った個別具体的な生活を伴う人命の積分なのだ。

もちろん決断が死の気配をまとえば、賛否は今より割れただろう。商業的な困難があるのも分かる。しかしそれがなにかを主張するということだ。死を描いた結果、否の側に回るような客層を、新海は切り捨てるべきだった(この層は今後の創作の足枷になるだろう。)。死の隠蔽は反対派への忖度であり、大衆迎合だった。だから結局のところ、新海の反権力姿勢はファッションの域を出なかった。これはとても残念だった。

物事のキレイな面だけ見て共感するのは安易だ。累々たる屍の上に幸福を築く覚悟があるなら、それはそれで悪くないが。

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