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【Twitter5000日記念】もう二度と学生時代の話はしない(その3)

 その2のつづきです。

■きずなはほだし/たのしい人生(2011年5月〜8月)

 経済学部はゴールデンウィーク明けのスタートでしたが、情報学環教育部が4月下旬くらいから始まったので、あまり地元に長くはいませんでした。できるだけ委員会にかかわりあいにならないように自分の人生をやろう、というのは強い感情としてあって、上掲のpostでは委員会室のサーバーにデータを置くのを部屋の外から無線LANをつないでやろうとしています。

 教育部の顔合わせがあってプロフィール帳みたいなのを書かされたんですけど、「Twitterアカウント」みたいな欄があって完全にビビってしまい記入しませんでした。これはいかん、とまともな人のふりをするためにサブアカを作りましたがほとんど使わないまま。僕のまともな人計画は75ツイートで潰えました。
 経済学部も動き出していきますが、唯一おもしろそうだな、と思えたので出願した第一志望のゼミの選考に落ち(そんなに人気のありそうなところでもなかったのですが)、いきなり出鼻をくじかれます。そのゼミの先生の授業もとっていたのですが、真面目に受けて試験もできたつもりだったのに単位を落としてしまうなど、あまりいい思い出がありません。

 ほか、この頃に披露宴会場で映像を流したり、エンドロールの映像をその場で編集したりするバイトを始めます。身につけてきたスキルが換金できた経験だったのがちょっと嬉しかったのと、有名ホテルの裏側に忍び込めたような感じで楽しかったです。バイトといっても扱いとしては業務委託だったようで、請求書を発行したりしていた記憶があります。その後、挙式の様子を撮影する研修まで進んでいったのですが、ローンを組んで機材を買わされそうになったので(個人事業主みたいな扱いになるので、機材は自前という建前だった)、秋頃に「就活が始まるので……」と言い訳をして逃げ出しました(震災による延期を経た式が多い時期で、そういうことはこちらのnoteにも書いています)。

 また、連休明けに先輩にコンタクトを取り、「終盤になってしまいましたが、できることがあれば手伝わせてください」と申し出て、結局ちょっとだけ5月の学園祭に委員サイドから加わることになります。本当はそんなこと絶対しないつもりだったのですが、先にちょっと触れた、新歓のほうの委員会の委員長の前任にあたる人(「2年目」の前任者が失踪したので相談させてもらった)がこのときの学園祭でも委員長になっていたので、その恩だけは少しでも返したい、と思ってしまったのでした。
 結局、広報関係でビラを作ったり、委員向け資料の編集をしたり、当日は開門セレモニーの司会をしたり、ステージのバンド企画の前口上をしたりして、あとは相変わらず写真を撮ったりして過ごしていたのだと思います。事情をわかっていて、一定のスキルがある人間が突然加わったので、少しは貢献できたと思っていますが、5月半ばには3年連続で母校の体育大会を見に帰ったりして(結局この年が最後になります)、「他人としてかかわっていた」みたいな感覚もあります。

 もうひとつ、これは書くかどうかやや迷ったのですが、ひとつ上の先輩がひとり、2月に不慮の事故で亡くなってしまうということがありました。その人は駒場で執行代をしていた2009年には、中心メンバーだったのに当日に新型インフルエンザを発症してしまってほぼ何もできないまま終わってしまったという巡りあわせがあり、一時は行方不明になり、留年もして……という経緯もありつつ、関われる最後の学園祭に戻ってきていた、という人でした。
 さらに付け加えると、その人は「行方不明」がなければ、僕の新歓「2年目」の前任者になっていたはずの人でもありました。年明け頃に一度遭遇する機会があって、「当日はヘルプに呼びますからね」「わかったよ!」というやりとりをした覚えもあります。ひょっとしたら、それが最後の会話だったかもしれません。最後に会ったのは、脳死状態で横たわっている病室においてでした(握った手は当たり前に温かく、臓器提供とかについて考えるたびに、いまでもその日のことを思い出します)。さして近しい先輩ではなかったはずでしたが、最後には棺を運ばせてもらった関係になりました。
 その先輩が遺した業務を回収するために、僕と同じタイミングで辞めたはずだった同期が復帰した、みたいなこともありました。目を背けて逃げたら後悔が残るような、そんなふうに思っていたかもしれません。

 そんな感じで全時間帯でヘルプに入ったこのときの学園祭ですが、引くほど雨が降りました。1日目がちょうど関東地方の梅雨入りの日であったと記憶しています。2日とも朝はまだ小雨程度で済んでいたような気がしますが、2日目のフィナーレくらいから撤収時間帯にかけて地獄のような土砂降りになりました。亡くなった先輩の盟友みたいな人が、「涙雨だな」とつぶやいていたのを覚えています。
 委員会には「設置撤収」という言い回しがありました。委員はみんなそれぞれの担当をもっていて、見ている方向もやっていることも違っていたりしますが、「設置撤収」は総力戦です。学園祭としての公開時間が終わると、参加企画がきちんと原状復帰をしたのかを確かめる「清掃チェック」、委員会が設置した資材を片付ける「撤収トラック」、キャンパスの原状復帰を徹底するための「屋外回り」などがありました。終電くらいで帰る委員もいましたが、基本的には徹夜です(学園祭当日は駒場では原則キャンパス内の施設[和館]に泊まり込み、本郷では家が近くない委員のために近隣のボロ旅館の大部屋がおさえられていました)。
 土砂降りの雨の中、委員会本部はガタガタでした。本当はさっさと引き上げたかったのですが、終電の制約もないのに帰るのも気が引けて、夜が明けておおむねすべてが終わるまで立ち会いました。

 前にもTwitterで書いたことがありますが、当時は無事に片付けが終わった朝方にビールかけをして4年生をひとりずつ胴上げしていくという、学生らしい野蛮な風習がありました(それ以前には、夜中にやっていた時期もあったようです)。僕は他人のつもりでその場にいたので、遠くからなんとなく見守って、お疲れさま、みたいな雰囲気に落ち着いていったのを見計らってこっそり帰りました。
 ただ、そんな中二病ムーブをやっていたところ、ひとりの先輩に捕まってしまいました。執行代として長のつく仕事をしていたはずなのに輪に加わっていないその人がいちばんの中二病ムーブだったのですが、そんな人が「行かないの?」と聞いてきました。売り言葉に買い言葉ですが、「僕は来年胴上げしてもらえますけど、あなたは?」みたいに切り返しました。精神的に未熟で、肥大化したプライドを制御できない東大生の、よくある煽り合いです。僕はそういうのが嫌いで委員会を辞めようとしていたはずだったんですけど。

 そのあと、その人が胴上げしてもらいに行ったんだったかはよく覚えていません(背中を押されて渋々胴上げの輪に加わった映像が脳内にありますが、記憶の捏造かもしれません、僕はそういうのがよくあります)が、僕が自分が口をついて言った「来年」に縛られてしまいます。「ここで逃げたら負け」みたいな方向に行ってしまいました。
 その年は「他人」だったので、打ち上げとか残務整理みたいなものからは一切距離をおいて、経済学徒をやり(必修ではないからもういいかなとも思いましたが、第二志望のゼミにも入りました)、情報学環教育部では週3で6限に出て、学生自治会ではDTPをやるポジションにおさまりました。無理して大きくも出ないけど、やってきたことを活かしつつ、なんとか成長しようとしていく。自分が思うような「大学生」がやれていた、唯一の時期だったかもしれません。

 ただ、近しい同期には「来年の学園祭はやるから」と伝えていました。仲が悪すぎて何人も辞めていったせいで人材不足に拍車がかかっていたのに、仲が悪すぎるので委員長を決める段階でそうとうもめたみたいな噂は聞きました。結局メール投票による選挙があったのですが、投票したらイコール公式な参加表明となるというおっかない告知があり(早くから参加表明するほどやる気はなかったしそう見られたくなかった)、誰が委員長になるかにあまり興味もなかったので、僕は投票自体しませんでした。
 投票の締め切りの日、たまたまだったのですが、数少ない仲の良かった同期のひとりと飲んでいました。彼とは1年の最初に一緒の担当をやって以来近しかったのですが、「来期参加することは決めているが、早くから参加表明するとえらい役職に就かされそうで、それはちょっと……」みたいに言っていて、ほぼ同じ気持ちで投票していない自分のことを棚に上げて「やるって決めてるなら自分が思う人に投票したらいいじゃん! きみが局長になったら僕はその下で支えるからさ」みたいなことを言いました。そうしたら彼は僕の目の前で「わかった、投票するとしたらあいつに入れると決めているんだ」と言ってメールを送りました。結果としてその1票で委員長が決まったのだったと、後になって知りました。

 そういう動きとはあまり関係はなかったはずですが、この時期に初めて鍵アカというものをつくりました。けっこう前に消してしまったのでどういうことを書いていたのかは忘れたのですが、daikouzuiのフォロワならリクエストは原則通していたはずなので、大したことは書いていなかったのだと思います。むしろ、daikouzuiでは精神衛生のために「リアル知り合いにはフォローを返す」みたいな行動をある時期以降は一切とっていなかったので(特に委員会界隈の人々にはフォロー返しの基準が厳しかった)、その行動様式を理解してくれない、根本的にインターネットに関する考え方が違う人とも一応のフォロー関係をつくっておく、みたいな役割が大きかったように思います。
 委員会界隈には「委員会アカ」「同期アカ」みたいなのを多くの人が持ち、内部的なこと(結果としてほぼ愚痴や嫌味)を言い合うタイムラインを形成するみたいな最悪の雰囲気があったのですが、それには与しないぞという姿勢でやっていたと思います(業務のことは業務の場で言わんかい、公開アカウントで書けない愚痴はもっとプライベートにやらんかい)。ただ、界隈で派手なもめ事が起きているのをつかめていないと差し支える立場になっていくことにもなるので、半ば「委員会アカ」としても活用していた気がします(ほぼ見る専)。普段はアカウントごとミュート(当時は「クライアントブロック」という言い方だったでしょうか)していて、怪しい感じをキャッチしたときに情報収集するのみでしたが。

 この時期は1日3桁ツイートが当たり前になっていて読み返すのがダルいので、このnoteの前提を完全に放り出す形になりますが、年末の振り返りpostでお茶を濁しておきます。マスコミ関係の道に進みたいな〜という漠然とした思いが幼少期からあったのですが、上京以降はテレビもあまり見ていないし新聞も読んでいない(このへんは就活が始まる前くらいに修正を試みましたが)、決定打として委員会のバタバタで「3.11」を取り巻くメディアの状況から完全に目を背けてしまっていた、ということに自覚的になり、迷路に入ります。結果として、半年後に本格始動した就活では、ニュースを扱うマスコミは1社も受けなかったはずです(説明会には行ったと思うのですが)。
 なんとか考えて人生をアレしないとな〜、とは思っていたのですが、後述するようにまたも委員会沼に沈んでしまい、それどころではなくなることになります。

 「きしょうさん」的にいうと、「経済学部アレ勢」「たのしい人生」が発生したのがだいたいこのくらいの時期です。
 「経済学部アレ勢」は、顔も名前も知らないままフォロー関係にあった学部の同期が、意識の高いpostをしない経済学部生を集めた同名のリストを作成したことに端を発した、ひらたく言えば内輪のコミュニティなのですが、「UTクラスタ」的なものに一切なじめない(意識は低く、オフ会に参加する勇気もなく、深夜アニメの実況もしない)ままツイ廃をやっていた僕が最初に属したインターネットコミュニティという感じです。学部を問わずメンバーはじわじわ増えていき、何度か飲み会も開かれました。僕が行ったのは最初の1回だけだったかな。いまもフォロー関係にある人はほぼいませんが(主に僕がブロックしたので)、みんな元気でやっているのでしょうか。
 「たのしい人生」は人生に悩んでいた僕がひり出した魂の言葉としか言いようがなく、初出は上掲の9月12日のpostです。これはもともと「怪しいお米 セシウムさん」のもじりだったのですが(原形がない)、11月ごろから「たのしい人生」単体でpostし始めたところ、東大クラスタ周辺で一種のインターネットミームとなります。

(これは知らない人のpostです。Togetterから拾ってきました)

 1年くらいをかけてなんとなく界隈に浸透していき、透明ランナー氏あたりの著名なツイッタラーがTogetterなどにまとめたりしたこともあって(daikouzuiが成立させたものとして、いまはなきNAVERまとめで紹介してももらいました)、「きしょうさん」は界隈のコアな人々に少しだけ認知される存在となります(自分で解説するのきもいな)。ただ、そういう経緯で増えたフォロワにもあまりフォロー返ししないという閉じた行動様式は相変わらずで、タイムラインでのインターネットミームによる内輪ノリ(いわゆる「うま信」「ナイスロック!」など)もさむいなと思って距離をおいていたので、だからといってどうということもなかったように思います。「オフ会に来ない割にはTwitterをしすぎている人」という認知だったのではないでしょうか。

(これも知らない人のpostです。当時RTしていました)

 ただ、自分のひり出した言葉には執着が強いので、「たのしい人生」は現在に至るまで個人的にこすり倒すことになります。この年の年末に作成したたのしい人生botは、11年目のいまも現役で稼働しています。

 もう誰も思い出してはくれませんが、個人的には「人生どうでも飯田橋」くらいのポジションくらいまでにはミームとして風に乗ってほしかったみたいな思いがあります。アルファでもなんでもない僕にあれ以上できることはなかったと思いますが、もっと日の目を見せてやりたかった。そういう思いがあります。

 (池田瑛紗[いけだ・てれさ]さんは2022年加入の乃木坂46・5期生で、2002年生まれの現在20歳です。美大を目指して浪人中にオーディションに合格し、美大受験の結果が不合格と出たのを確認した上で同期から少し遅れてグループに合流してきたらしい、という経歴があります。アイドルになる女の子にありがちな程度にオタクの感じがあり、加入時の年齢が比較的高めであったことも加味すると、「人生どうでも飯田橋」もインターネットミームと多少なりとも認識しつつ用いているような雰囲気が感じられます。)

 お顔の華やかな女の子の画像を不必要に挟んだところで、「たのしい人生」に関してはこのへんにしておきます。たのしい人生。


■明るく頑張る気はあった(2012年9月〜11月)

 学園祭というのは僕にとってカルマみたいなもので、復帰のために動き出した瞬間、あっという間に絶望が始まっていきます。これは8月くらいだったと思いますが、選挙で辛勝して決まった新委員長に委員会室に呼び出され、「就活を控えているほか、情報学環の研究生もしているので、コミット率は過大になりすぎないようにしたい。映像は担当させてほしいのと、あとは対外広報系をやれれば」みたいなスタンスを伝えると、「なるほどわかった、でもひとつ相談があって、執行代の役職はだいたい決まったのだけど、事務局長だけが決まっておらず、候補もいない。できればあなたにやってほしい」と、形式の上では委員会のナンバーツーみたいな役職をいきなり打診されました(何もなるほどわかっていない)。
 事務局長というのは、僕が新歓活動の「2年目」でやっていた役職と同じ名前だったので、そちらの委員会にはかかわりのなかった新委員長にとっては、「もしかしたらできるかもしれない」と最後にすがれるわらしべに見えたのかもしれません(仕事の内容はぜんぜん違うので、僕からしたら本当にダジャレみたいな話でした)。ただ、ほぼ固まっている同期の人事配置を全員分(20人弱くらいだったでしょうか)聞いたら、「これはどうしようもないんだな」ということがすぐにわかりました。
 おさえ直しますが、我々の代は仕事はできるが総体として非常に仲が悪く、それがもとでそもそも頭数が不足しており、水と油のような人物の組み合わせもけっこうありました。どのくらいの確度で僕に引き受けてもらえると思って話をもってきたのかはわかりませんし、その後にも聞きませんでしたが、委員長が決まった時点でそうなるしかないパズルだったんじゃないかと思います(委員長自身は、この打診がうまくいかなかったら自分が兼任するしかなかった、とあり得ないことを言っていました)。

 そうした逡巡がややありましたが、話はその場で引き受けました。歴史上最も経験の浅い(本郷での委員経験はなく、駒場でもよくわからない仕事しかしていなかったので)事務局長が誕生し、ややあって人事を公表した際には、事情を知らない先輩・後輩・辞めていった同期に衝撃を与えることになります。

 それまでは同期のミーティングなどにも一切参加していなかったし(そんな奴を連れてきて……)、本郷の事情みたいなものもまったくわかっていなかったので、いきなり戻ってきてもみんなの話をアホ面で聞きながらポン・デ・リングを食べるくらいしかできませんでした(根津に引っ越してきた直後くらいに千駄木にミスドがオープンして、異常量のポン・デ・リングを摂取していた時期でした)。
 リーダーシップをもって組織を動かすことが求められるはずの役職でしたが、逆立ちしてもそんなことはできないと最初からわかっていたので、とにかく手を動かして実務をやる(政策立案みたいなことは他に任せきる、色気を出して何かをしようとしない)と決めました。
 いま改めて書いてみて思ったんですけど、何が嬉しくてそんなことやらないといけなかったんですかね。1年春に引き止めにあって辞めそびれる、1年冬になぜか辞めずに新歓のほうにまでいってしまう、2年秋に逃げそびれる、という流れがあって、「3.11」があって先輩に助けてもらったので手伝いに行ったら、なぜか翌年やることの言質を取られてしまったとはいえ(おさえ直し)、何もそこまで泥のような仕事をやらされる筋合いはなかったはずです。

 あ、でもひとつだけどうしても我を出してやったことがありました。マスコットキャラクターのTwitterアカウントです(2年ぶり2回目)。動かし始めたのは翌年2月でしたが、よく覚えていないけれど9月にはもうアカウントをとっていて、それだけはめちゃくちゃやる気があったということがわかります。

 本郷はマスコットキャラクターが長らく定まっておらず、「めい」は前年に現れたもので(その前の年の没案?か何かだったらしくて、内部的には使われていたと聞きました)、この年もそれで行くかは決まっていなかったはずでした。マスコットキャラクターを続投で行く、ということが決まったのが2月くらいだったのかもしれません。結局「めい」はその後もマスコットキャラクターとして定着したようで、アカウントも運用が続けられています。駒場に続いて本郷でも僕はレガシーを残してしまいました(僕は僕で2回目なのでけっこうこだわりがあって、駒場と異なり「定型的な語尾に頼らない」という点で差別化を図ったつもりだったのですが、そこは引き継いでもらえなかったようです。語尾を伸ばすようなしゃべり方は完全に僕の趣味のみでスタートしました)。
 もはや広報活動を担当するポジションでもなかったわけですが、「あのバカはTwitterが好きみたいだから適当にやらせておけ」とやっぱり思われていたのだと思います。2年間でTwitterの活用はかなり世に広まった割に、忙しくてあまり数はつぶやきませんでしたが。

 ただ、いくら泥すすりツイッタラーが不意打ちではめられた役職だったとはいえ、ドーナツを食べてめぇめぇ言っているだけというわけにもいかないので、秋くらいの時期に唐突に精神的マッチョアクティビティを開始します。精神的マッチョアクティビティというのは、つまりは「昨期に委員会に寄せられた問い合わせやメールにすべて目を通す」ということを指していたのですが、たぶんあまり具体的なことをTwitterに書きたくなかったので、そのような仕立てになっていたのだと思います。
 委員会がどのように動くかあまりにもわかっていなかったのと、事務局長固有の仕事として「委員会に届いた問い合わせ/メールを担当に割り振る(誰が回答するか指示を出す)」というものがあったので、それに備えてやっていたことだったと記憶しています。あえてやるまでもないレベルのことだったのですが、そのくらいのことしか始めなければならないという悲しさがありました。量が多くてしんどい、というよりも、「なんでこんなやつがそもそも事務局長なんだ?」という詮ない問いが迫ってくるという意味で、精神的にくる行為でした。

 この頃は、「いきるのがつらい」「しきがちかい」「ほろびる」など、忙しかったりしんどかったり(試験があったり、大量の採点バイトをこなしたり、情報学環教育部でフルカラーの冊子をつくったり研究発表をしたり、そこそこ大変だったんです)したときにコミカルな調子でえんえんTwitterで愚痴るというのをめちゃくちゃやっており、いわゆる一種の「コンテンツ化」が進んでいった時期になります。ここで断っておきたいのは、前述の3点とも完全なる他人の受け売りみたいなもので、東大以外のクラスタの方が用いていたものに自分も乗っかっていたら、東大近辺の人々には僕のオリジナルのやつのように見られてしまった、ということです。
 図らずも人のふんどしで相撲をとるような形になった僕は、先輩・同期・ひとつ下の後輩にはすでに「Twitterばかりしている人」として見られていたのでまだよかったのですが、冬に事務局長として初めて出会うことになるふたつ下の後輩には、それを飛び越えて「いきるのがつらいきしょうさん」のほうで先に認知されてしまうことになります。

 もうひとつ転機となったのは、「ザ・インタビューズ」というWebサービスがこの時期にできたことです(1年くらいで死んでしまいましたが)。匿名で質問が来てそれに応えるというやつで、運営のトラブルか何かでデータごとサービスが飛んでしまったのでもう振り返るすべがないのですが、最終的には600くらい答えていたようです。質問ではなく相談がくるみたいな流れはまだなく、内輪ノリで激しめにイジられていたような痕跡がTwitterのpostから読み取れます。これも確実に「コンテンツ化」の一端を担っていたように思います。

 難関の入試をくぐり抜けて所属した情報学環教育部ですが、学園祭と就活で絶対手が回らなくなることが目に見えていたなかで、受験生向けのパンフレットの編集を担当したことから自治会に製作系担当として激しい勧誘を受けることになり、「これは本気で逃げないとあっけなく死ぬやつだ」と感じ、本気で逃げ出しました。「履修登録を忘れた」みたいなpostもあったのですが、忘れたことにしてフェードアウトしようとしたのかもしれません。冬学期は文学部の授業も履修していたようですが(夏からやりたかったが、授業の開始時期のずれから諦めた)、結局ほとんど行けなかったという覚えがあります。

 学園祭に関しては、なんとなくやる気を出していたのだと思います。京都大学の11月祭は例年東大駒場と日程が被っていたのですがこの年はズレていたので、刺激を受けるために同期何人かと見に行きました(駒場のときに学園祭コラボグッズとかをやって、委員どうし顔見知りだったこともあります)。さらにそれにくっつけて(順序は逆です)、高校の後輩が委員をやっていた九州大学の九大祭にも単身乗り込んできました。広大なキャンパスを後輩の運転する委員会軽トラに乗って案内してもらうとかいう、信じられないくらいのおおらかな運営でした。

 帰京し、ほぼそのまま駒場にヘルプに向かいます。「当日、肉体的にいちばんキツいのは1年目のOB(3年生)」と言われていて、事実その通りになりました。前日準備からシフトにフルで加わり、夜は現役を寝かせて積み残しの雑用を消化し(「妖精さん」という言い方がありました)、朝は現役を起こす、というルーチンで3日間を過ごし、徹夜撤収まで加わって月曜の朝方に帰宅、という感じでした(僕が特別だったということはなく、一般的なOBの動きです)。
 別に特別な仕事をするということでもなく、映像関係のヘルプに入る以外は写真を撮り歩いていたんでしょうか。カメラを3台くらいと三脚を持ち込んで、好き勝手動いていたような気もします。こういうちゃらんぽらんな形で次の5月もかかわるつもりだったのにな、と思っていました。

 学園祭当日の様子を見ると、「あーやっぱりいいもんだな!」と思ってしまいます。準備にかかわらず、当日パーッと働いてきただけの立場ならなおさらです。そのポジティブな感情がすべての原因という感じもするのですが(麻薬みたいなものです)、とにもかくにも頑張るぞ! みたいな仕上がり方をしていた気がします。まあ、すぐに目の前が真っ暗になるんですけど。

(ツイートには謎の勢いがあった時代でした。)


■「きしょうさん! 僕も生きづらいです!」(2011年12月〜2012年1月)

 12月に入り、委員会が動き出していくことになりますが、同時に本格的に始まったのが2013卒の就職活動です。この年は12月に説明会が、4月に選考が解禁となるスケジュールでした。
 東大生だったので、学内とか秋葉原UDXとかで東大生限定の合同説明会とかもありましたし、行ったら図書カードとかがもらえていました。東京ビッグサイトとか幕張メッセとかで、もっと大きい合同説明会もやられていたのでしょうか。1月くらいまでは正直まったく就活モードに入れていなくて、そうした合同説明会にもほとんど行かなかったという覚えがあります。志望業界みたいなものがぜんぜん定まっていなかったので、それでも遅いくらいですが、この時期にいろいろと考えておくべきでした。
 2月くらいに企業の個別説明会が始まって、新聞社とかのものを中心に一生懸命回ったような覚えがありますが、どこに行っても「これはちょっと自分には無理だなあ……」みたいな気持ちにしかならなくて、結局就活サイトの企業情報をつまみ食いして、志望動機が考えられそうなところにESを送り、という泥縄の就活を進めていくことになります。

 12月の上旬ごろに委員会の新歓説明会を開き(この時期にそんなものをやる団体はほかにないので、説明会はほぼ駒場で委員をやってきた後輩ばかりが来て、茶番のような説明と新歓コンパをやる、みたいな感じでした。一応申し訳程度に立看板とかで告知もしていたのですが、それを見て飛び込んできてくれた子が「なにこれ……」となっているのを見て心が痛みました)、入会届を受け付けて、そこに書かれている第1希望〜第3希望にしたがって、委員長と一緒に下級生の担当を割り振っていく、というのが事務局長としての初仕事のようなものでした。
 この担当決めが本当に壮絶で、正直すでに逃げ出したい気持ちでいっぱいでした。前述のように、駒場で委員をやってきた後輩たちの顔をなんとなくイメージしながらポストを設けているので、数がぜんぜん乖離しているみたいなことは起こらないのですが、当然駒場の2年間で委員会生活を終えるという選択をする後輩もいますから、ほぼ決め打ちのように考えていた後輩が来てくれなくて、ということが何件も起こりました。
 どのような希望が出ているかは委員長とふたりで抱え込んで情報を出さなかったので(全員が同時に何十人分の担当パズルを始めたらいよいよ収拾がつかないから)、同期たちには表でも裏でも口さがなく詰められていたという覚えがあります。我々の代は本当に仲が悪かったので、誰かが気絶するまで理屈で殴り続けるみたいな行動様式で物事が回っていました。

 そんなこともありつつなんとか年末ごろに委員会が正式発足にこぎつけるわけですが、特にふたつ下の後輩たちとはここに至って初めて直接かかわって仕事をすることになりますし、ひとつ下の後輩たちについても、僕は駒場であまり何もしていなかったのであまりかかわったことがない子もいて、個人的にはうまくコミュニケーションがとれるか割と心配していたのですが、そのあたりはだいたい「きしょうさん」という概念がなんとかしてくれた、という感覚があります。
 うまくナメられることに成功していた、とでも言いましょうか。「先輩がきしょうさんなんですか?」「ちがいます」とか、「きしょう、って本名じゃなかったんですね」「知らない人です」とか、「Twitterお気に入りに入れてます!」「人違いです」みたいなやりとりをしているうちに、「けっこう絡みやすい人」みたいなイメージをもたれたと感じています。基本的に人とのコミュニケーションは苦手なタイプだった(いまもですが)ので、新鮮でした。

 その後の日々について、どんな仕事をしていたのかは全然思い出せなくて、新歓活動のほうの委員会の記憶との解像度の違いに驚きます。おそらく、就活や試験なども重なって忙しさが複雑であったのに加えて、約10年間、できるだけ思い出さないようにしてきたのだと思います。
 ただ、担当として管掌していたのは、企画を出す学生向けの参加説明会と、大学当局との折衝の取り仕切りでした。当日が近くなると、全員分の当日人割(シフト表)作成、というのがそこに加わってきます。ひらたくいえば全体に関わる仕事です。
 担当ごとの仕事というのはタコツボ化しやすいもので、それこそあらゆる手段を用いて委員会全体の動きをなめるように見て、組織としてのコミュニケーションが成立するように心を砕いていた、みたいな言い方になるでしょうか。

 大げさな言い方になりますが、心理的には本当に24時間稼働しているような感覚でした。上掲のpostは「メールが来たら何時でも起きて即対応していた」という趣旨で(BoxcarもIDEOSももう懐かしいをこえて覚えてないですね)、Macに向かっているときもずっと何らかの情報をさばいていて、就活のことをしていても容赦なくSkypeが飛んできて……みたいなイメージです。ちょっと病的ですが、とにかく「自分のところで情報を止めない」ことには懸けていました。それくらいしか自分にはできないと思っていたので。

 当時からそのように言語化していたわけではありませんが、僕のテーマは「ヒューマンな仕事をする」ということだったように思います。後輩にナメられていたみたいなことを書きましたが、それで入ってくるようになった情報や機微もけっこうありました。上司に言ったら怒られそうなのでとりあえず聞いてほしい、みたいに頼ってくる後輩が現れたりとか、幽霊部員みたいになってしまった子や、先輩との折り合いのよくない子が、なぜか僕からの連絡にだけは返信をくれる(委員長、上司、同僚とぜんぶ無視なのに)、みたいなこともけっこうありました。
 人間は理屈だけでは動けないものだし、大学生が無給でやっていることでもありますから、組織をどんなに整えても、不規則な動きが生じることも多々ありました。理屈ではないものに、理屈で対処しようとしない。それが良いことなのかは別として、それができる人が、特に同期には少なかったな、という感覚があります(それを指して「仲が悪かった」と称している、ととらえてください)。


■恋した羊が土を這う(2012年2月〜4月)

 就活に関しては、2月3月の時期がタスク量としては最大だったような気がします。個別説明会を回って、大量のESを書いていたはずです。ESはWebで完結するような企業も多くなってきていたと記憶しますが、出版社をけっこう受けていたこともあり、ほとんどを紙で提出していたという覚えがあります(4月に入って選考が始まると「行って切られて終わり」という日々だったので、とられる時間は減りました)。
 2月には大学の試験があり、委員会では予算のタイミングでもありました。3月には大きめの参加説明会があり、この間には大学当局との折衝の場も何度かあったはずです。当時の記録が残っていたのですが、毎回何かしらで僕がめちゃめちゃ失敗して、めちゃめちゃ謝っていました。被害妄想もいくぶんか入っているとは思いますが、主に同期に対して「無能がバレた」みたいな感じがありました(僕が何をして何をしてこなかったのかみんな知らなかったので、能ある鷹が爪を出してくることを期待されていた節があるのですが、そんなものはなかった)。

 そのような折に、ちょっとした出会いがありました。
 TLでもお互い少し認知しあっていて、書いた小説を読んでもらったことがあった程度の他大の女の子がいたのですが、ちょうどこのときにアカウントを消しますみたいなことを言い出していて、たまたま起きていた(この日の消印有効のESがあったので朝方まで書いているところだった)のでついついコンタクトをとったら、アカ消しギリギリのタイミングで連絡先を交換することになったのでした。
 3月の上旬くらいに新宿で会って、個室の居酒屋にけっこうな時間いて、何やらいろいろ話したという覚えがあります(むしろそれ以上のことはほぼ覚えていません、儚いものです)。僕にとって初めてのサシオフになりました(厳密にいえばそれより前にもあった気がしますが、会ってみたら共通の知り合いが大量にいたみたいなやつで、インターネットでの出会いという感じはなかったはずです)。就活と学園祭が落ち着いたらまた会ってください、みたいなことを言ったのでしょうか。

 そのことがたぶん、僕のなかで何かの支えになっていたのだと思います。結果として数か月後、そのひとは僕にとって人生最初の恋人になりました。

 3月16日に駒場でやった参加説明会がこの時期の最大の山場であったと記憶しています。前年の同じ回が震災で中止になっていたなどの理由も重なり、準備が思うようにいかず、泊まり込みまでして臨んだもののボロボロだったという記憶があります。いまでも「3月16日」という日付を見ると暗い気持ちになるほどです(当日が前年秋の学園祭当日以来のツイート数0でヤバさが伺えます、朝から稼働していて、打ち上げには二次会まで行かないといけない立場だったので、まあわかるんですが……)。

 もうひとつ、この時期において特筆すべき事項としては、「きしょうガールズ」というフレーズが誕生したことです。これも例によって僕のオリジナルではなく、ネタクラスタ界隈の人が「○○ガールズ」(実在しない)にそれぞれ呼びかけていたというTLの流れだったのですが、僕のフォロワには「きしょうさんが突然何か言い出した」ようにしか見えず、「きしょうガールズ」という概念がひとり歩きを始めていきます。
 結果としてこのネタを僕がこすり倒すのは半年後くらいからになりますが、これも「きしょうさん」のイメージを形成する一端を担ったように思います。

 一日中大量のpostをしていた時期を抜け、この頃の芸風が「きしょうさん」っぽいな、とTwilogを読み返して自分で思います(恋愛相談が乗っかってくるのはもうしばらく後の話ですが)。メンタル的にはそうとうヤバかったんだと思いますが、この頃のTwitterは楽しかったな、と思うばかりです。

(この時期にiPad[第3世代のいわゆる"The New iPad"]を予約開始日に衝動買いして、主にミクフリックという初音ミクの音ゲーをやっていました。「あなたの歌姫」が最も極めた曲でした。いまはアプリがストアから引き上げられてしまい、もうプレイすることもできません。「Tell Your World」はGoogleのCMで使われていたんでしたっけ。就活の記憶となぜか強烈に結びついています。)

■引責辞任もできなくて(2012年4月〜6月)

 4月1-2日に新歓のほうの委員会の当日ヘルプに入りました。4月1日って本来「朝日新聞を受けるか読売新聞を受けるか選ばなければならない」みたいな日だったはずですが、ぜんぶぶん投げて駒場に行きました。メガバンとかのクソデカ日本企業をひとつも受けなかったので1日はガラ空きで、2日の夕方くらいに適当にESを出したメーカーの面接があり、途中で駒場を離脱したという覚えがあります。
 新歓のほうの委員会には、いろいろありましたが愛着も強かったので、離脱する前の控室で、外した腕章とネームタグを机に置いて写真を撮るみたいなことをしました。「これで終わり」と感傷的になっていたのだと思います。学園祭なら遊びに行くこともできるけど、こちらはそうもいかないので。

 こうして始まった本選考ですが、絶望的なくらい手も足も出ませんでした。準備も十分でなく、必要以上に気力体力も摩耗していましたし、もとから能力も足りないので、まずグループディスカッションが課された企業ではその段階ですべて落ちました(なんで見ず知らずの人らとこんなわけのわからんことを……と思ったら何も話せなくなる)。テストセンターの結果も芳しくないものを使い回してしまっていたらしく、テストセンター選考もほぼ通過しないというおよそ東大生とは思えない状況に陥ってしまいました(さすがに途中で気づいたのですが、受け直す時間がありませんでした)。
 出版社とかが課してくるペーパーテストは割と大丈夫で、作文だけはめちゃくちゃ強かったです。このような手札、制約条件のもとでやっていました。

 大きい会社を受けている早い人だと1週間以内で決着するみたいな状況のなか(もっと言えば外資系やテレビ局なんかはもっと早くから選考をしている)、一応の志望業界に定めていた出版業界は選考自体が割とゆっくりだったので、本格的にお祈りを受け始めるのも4月半ばくらいからでした。周囲の就活組はどんどん決まっていくので、温度差がありました。「何をしているのかよくわからない」みたいな見られ方をしていたようにも思います。
 Twitterだけはあまり変わらないノリでやっていたようです。唯一の精神安定剤のような感じだったのでしょう。

 細かいところは忘れてしまったのですが、志望度が高かった数社はわりかし選考を進んでいったものの、第一志望のところをはじめ、4月下旬に差しかかるくらいの時期にまたもお祈りが相次ぎ、精神的に厳しくなっていきます。また、委員会のほうもどんどん忙しくなっていき、4月第1週あたりはある程度身体を空けられたものの、そこを過ぎるとそうも言っていられなくなります。
 4月末ごろに当日前最後の参加説明会があったのですが、それもぜんぜん準備がうまくいかなくて(何がどうダメだったのかももう覚えていませんが、とにかくぐちゃぐちゃだったと思います)、どうしようもなくなっていました。

 このときは、何かけっこう重要な事務手続きを忘れていたんだった気がします。それは結局何らかの手を使ってどうにかしたはずなんですけど、このpostに対して、後輩にエアリプで「引責辞任は甘え」みたいなことを言われて、心が折れてしまいました。
 (補足しておくと、「自分も引責辞任をしたいような状況になっているが、それは甘えだと思うから自分はそんなこと言わない」みたいな趣旨で、純粋な敵意を向けられたというよりは、みんな疲れていた、みたいなことだったと思います。)
 これに追い打ちをかけるようにお祈りの連絡が押し寄せて、何もかもおしまいになってしまったみたいな順序だったでしょうか。

 心が折れたといっても、Twitterから離れただけの話です。Twitterを見ている時間も惜しかったというのが半分だと思います。ここから2か月ほど、postもしないしTLも見ない、という状況に自分を追い込んでいくことになります(いま思ったんですけど、マスコットキャラクターのツイート数が伸びなかったのはここに原因の一部があるような気がしてきました)。
 iPhoneのクライアントも消すか何かしてしまって、ホーム画面のEchofonがあった位置に「iPhoneを探す」を置いていた、ということを覚えています。

 ここまで述べてきたようなキャラクターであった僕が一切TLからいなくなってしまったことが、各方面にどのように受け取られたかはわかりませんが、何か思うところがあったようだ、と委員会の人々の一部には伝わっていたように思います。
 普通に仕事を進めて、周囲とも普通に接して、引き続き普通に失敗を重ね、謝罪をしていたんだと思います。前述の後輩ともその後別に何かあったというわけでもありません(もともと駒場時代から近しかったので、その後まで含めてそのままの関係だったと思います)。

 これ以上のことはもう覚えていません。学園祭当日は天候に恵まれ、大きな事故なく終えることができました(忘れているだけかもしれませんが)。徹夜撤収空けの5月21日の朝に金環日食があり、安田講堂前の広場で空を見上げていたという記憶がうっすらあります。
 あと、就活はほぼ絶望の状況だったのですが、最後に残った1社みたいなところに、委員会本部で深夜に適性検査(Webテスト)を受け、気持ち的には「学園祭翌日」だった5月22日に最終を含む2回の面接があり、微熱を出しながらガラガラの声で「学園祭やりました!」みたいなことを話していたら内定がもらえました。

(これもこのとき、当日夜の出来事だったはずです)

(気にかけて委員会本部まで来ていただいて、ありがたかったです)

 「結果オーライ、無事終わってよかったね、なんだかんだで楽しかったね」みたいなマインドは嫌い(だから10年経ってこんな文章を書いている)なのですが、その唯一の内定をもらった会社に現在も勤めていることを思うと、ある意味ですべて一本道だったのかもしれない、と思う部分もあります。


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 次はその4。完結編です。

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