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【Twitter5000日記念】もう二度と学生時代の話はしない(その4・完)

 その3のつづきです。

■死を待つ少女のオムライス(2012年6月〜7月)

 この期間はまったくpostがないためなんとも言いようがないし、自分でもどうだったかよく思い出せないのですが、すべての局の打ち上げに委員長と一緒に出て回っていた時期(端でおとなしく座り、執行代が寄せ書きなどをもらう様子を記念写真におさめ、傾斜つきの飲み代を払って帰る)だった、ということは記憶に残っています。
 あと、当日が終わると全委員がその期の総括文書を書き、冊子として編集してゲスプリで刷り(全4巻くらいになっていた気がします)、それを資料として丸一日くらいかけて(2日間くらいやってたか?)ひたすら反省会をするという恒例のイベントがあったのですが、前夜まで編集をして夜中に印刷製本をしようとしたら(こんなのばっかりですね)委員会室のゲスプリのインクがほぼないことが発覚し、例によって僕が謝罪をしてみんなにパソコンなりタブレットなりを持参してもらい、PDFで見てもらうという事件があったのはよく覚えています。ペーパーレスのはしりみたいなもんですね。

 改めて考えてみると、ゲスプリのインクを手配・補充するのは僕の仕事ではなかったよな、とも思うんですけど、委員会に起こったよからぬことは基本的にだいたい僕の責任ということにして(天気が悪いのだけは委員長の責任)伏して謝罪をすることで、とりあえず物事が前に進むみたいな感じがあったような気がします。じゃないと誰も謝らんからね、しゃあないね。
 反省会が終わり、もう印刷する必要なくね? と思って黙っていたんですけど、どこからか「資料は紙で保存すべきだ」みたいな怒られが発生して、保存分の部数を僕がひとりでチマチマ印刷して製本した(製本は誰かに手伝ってもらったか?)みたいなこともありました。最後まで森羅万象泥すすり担当局長でした。

 このくらいの時期、僕は委員会の後輩のことがちょっと好きでした。「ちょっと好き」の内訳としては、もともとそんなに近しく感じていなかったけれど、異常なほどいい匂いのする子だなということをいつの間にか思うようになって、気がつけばめちゃくちゃ好きになっていて、でも僕は「委員会のなかで恋愛は絶対しない」ことを自分に課していたので、それを差し引いて、しかしそれでもちょっと好き、という感じでした。つまりはめちゃくちゃ好きだったということです。そういうことを、以前コロナのステイホーム期間で頭がおかしくなっていた時期に連続postしたのが上掲の『龍岡門をまわって』です。
 このまとめの前半で引いている、「誰も片付けようとしなかったビールの空き瓶を土曜日にひとりでぜんぶ洗って酒屋さんを呼んだ」というエピソードは、僕の各種の泥すすりエピソードのなかでも比較的コンパクトなのでいろんな人に話しているんですけど、この後輩についての思い出と結びついていて、そこまで悪からぬ思い出であるから話しやすい、という部分もあります。

 「委員会のなかで恋愛は絶対しない」というのは、本当にめっちゃつまらないことだったなと思うんだけど、当時から字面通りに心に決めて大真面目にやっていました。大学生の集団があればそういうことは必ず起こるのですが、色恋沙汰がどこかで起こると、困ったことに当該の人々の(場合によっては周囲も)パフォーマンスは必ず落ちます。だからやめろと思っていたわけでもなくて、冷やかしたり茶化したりする輪に入って楽しむこともなく、黙って雑用を続行することで信用を得ていたという自覚があったので(能力が低いので)、まさか当事者になるわけにはいかなかったというところがあります。ちなみにいちばん信用されるのは「委員会の外に長く付き合っている恋人がいる」でした。家庭を持たないと出世できない日本企業みたいな話ですね。

 そういうスタンスでいると、立場的なことや適度にナメられていたこととも相まって、いろんな人が情報を入れてくれるようになりました。その「ちょっと好きだった」後輩とも、彼女は東大男子にモテる(という地獄を生き抜いていた)タイプだったので、「できればここのシフトを配慮してほしい(あいつはアレだから離してほしい)」みたいなことを何度か言ってきてくれて、それがもとで距離が縮まったところがあったと記憶しています。
 その後輩とはその後もしばらく仲良くしていたのですが、僕が大学を卒業して半年後くらいに耐えきれなくなってしまい、お酒の勢いにまかせて告白めいたことをして、きちんとフラれておしまいになりました。高校時代と同じようなことをやっていて進歩がありません。彼女の地獄を形成した凡百の東大男子の一部になってしまったのが寂しいですが、まあ遅かれ早かれの感もあり、ありうべき結末だったようにも思います。

 バレンタインの夜にひとりで委員会室にいたら、「ご自由にお取りください」の手作りチョコレートをどかっと置きにきた彼女と出くわして(作っていたら夜になっちゃったんですって、かわいい話ですよね)、ひとりだけ手渡しでいただいたとかいうこともありました。内定をもらった電話がちょうど飲み会の途中で、店を抜け出して電話を受けて帰ってきたら、隣に座っていた彼女と「何かあったんですか?」「内定の電話だった」「えっ!?!??」みたいなやりとりがあったことも思い出しました(だから僕が最初に内定をもらった報告をしたのは彼女ということになります)。
 勝手に干物として生きていた僕に青春みたいな記憶をくれた、ありがたい存在でした。僕の母親と誕生日が同じなので、毎年秋ごろにいまでもついつい思い出してしまいます。

 話がそれたのですが、学園祭が終わったこの時期に、僕は最大の「そういうめんどくさいこと」に直面させられることになります。それをまとめたのが上掲の『許すことと許せないこと』です。これはどす黒い記憶になるので改めてもう書きたくないのですが、同期どうしが悪い恋愛(ともいえない何か)をしてしまって、僕は最初に相談を受けたこともあって(もともと近しかったし)女性のほうに見方をする形になり、向こう側の当事者(と、陣営ひとりくらい)と緊張感のある関係になってしまいました。
 結局その一件は日々黙ってひたすら話を聞いていたら気がついたら終わっていたのですが、「向こう側」の陣営の彼らとは、もともと微妙な関係だったこともあり、ぎくしゃくしたままになってしまいます。そのまま改善の機会がないまま、僕が年を追うごとに、委員会での経験全体に関して「なんであんなつらい思いさせられてたんや!」と(こんな文章を書くくらい)先鋭化していったので、勝手に最悪のまま終わりになっています。未だに当事者には「今度会ったら一発殴りたい」くらいの気持ちがあります。
 (ひらたくいうと向こうのほうが浮気で手を出してきていたので、こちらが道徳的優位に立っているという背景があります。たまたま得たそれをかさに着て、気に入らなかった奴を殴ろうとしている、現代のツイッター民みたいな底意地の悪さと危うさを自分に対して感じるエピソードでもあります。)

 ちなみに、僕はこれを「自分が受けた最初の恋愛相談」とみなしています。「基本的には傾聴して、相手の言っていることを言い換えておうむ返しをしてタイムアップを待ち、提案は最小限にする」というスタイルはその後もほぼ変わらなかったように思います。あとは「男性に対しては共感が薄め」というところも。
 加えて、委員会のあれこれがひと段落して、界隈の人々と日常的に話すことがなくなったので、積極的にサシ飲みをするようになったというところから、僕のサシ飲みへべれけ人生が始まります。
 もう10年くらい、(時期によって濃淡はありますが)この行動様式でやってきたんですか。絶望的ですね。

(※リンクは切れているのでこちらから。)

 なんか、いろいろな問題に対処していて元気みたいな文章のなりゆきになってしまっていますが、この時期はほぼゾンビのような暮らしをしていました。学園祭と就活から一気に解放されたので、燃え尽き症候群のようになっていたのだと思います。
 授業にはぜんぜん行っていなくて(4月にまったく気力がなかったので、せっかく入ったゼミからもフェードアウトしてしまっていました)、残務をしに委員会室に行くくらいでしか外出もしていなくて、うまく睡眠もとれなくて、食事をしても味がしなくて、なんだか危ない状態でした。2年前くらいに買って、学園祭の時期で触れなくなって投げてしまっていたポケモンハートゴールドをカーテンを閉め切った部屋でやっていた、という映像だけが妙にリアルに頭に残っています。

 その折に、たぶんうまく眠れなくて明るくなってから二度寝をしていたようなタイミングでみた夢を、そのまま小説にしたのが上掲の「窓の中の少女」でした。「デミソースとバターライスのオムライス」を、一度も食べたことがないのに強烈に夢にみて、その日のうちに根津の赤札堂に出かけて、卵とハインツのデミソースとバターを買ったんだったと思います。
 一度目はぜんぜんダメで、二度目は食べられる味になりました。このオムライスはその後も何度もつくるようになりました。「デミソースととバターライスのオムライス」の味がわかったので、それを小説に書きました。オムライスを試行錯誤した過程も含めて、何かが少し上向いた出来事だったと思います(下掲の写真はもうちょっと後のものです)。

 そして、7月に入ったあたりでTwitterにも復帰します。復帰してすぐ、もとのノリに戻ってpostしまくっていたようで、根っからTwitterのノリが染みついていたんだな、と思います。

 もうひとつ、僕がこの頃のエピソードとして強烈に記憶していて、繰り返しよく話にあげるのが、あまり脈絡なく中高大で同じTLにいる関係の友人に誘われ、神宮球場でベイスターズ戦を観戦したということです。野球観戦をしたのはこのときが初めてで、その後この年だけで何戦も現地観戦をして、以降5年間くらいは足繁く球場に通うようになります。
 久しぶりに「遊びに行った!」という感覚になった日でした。その友人とはいまもたまに飲みに行く関係ですが、「あのとき、どうしようもなかった僕を家から引っ張り出してくれてありがたかった」と、お酒が回ってくるといつも話してしまいます。

 この時期は、急に短歌を量産し始めたり、ため込んでいたインタビューズの質問を消化したり、なんだかちょっと元気になった(もしくは、なろうとしていた)ように見えます。期末試験をなんとか乗り切り、免許をとるべく実家に帰りました。なんとなくブログを始めたりもしていたようです(1か月で飽きて辞めました)。

 いつできたか忘れていたのですが、大学の友人の悪ノリにより「きしょうさんbot」が誕生したのもこの時期だったようです。そうした経緯でつくられたものの、その後僕が管理するようになって数次にわたってpostを追加し、数年にわたって稼働を続けたものの、twittbotの不具合で動きを止めて復活不可になっているというのが、全体的になんとも僕らしい感じがあります。

 なんやかんや、半年くらい続いた最悪の時期を脱することができた感じでした。この時期を改めて振り返ることは多くなかったのですが、いろいろなものが上向いていく感じがすごくて、ちょっとあてられてしまうくらいでした。ハチャメチャな就活があのタイミングでなんとかなっていなかったらぜんぜん違う展開だったと思うので、人生ってつくづく運だな、と思います。それを「たぐり寄せた」という感覚も、特にありません。

 (なんとなく聴いていた曲ですが、「突然のさようなら」が、その後しばらく僕のなかで何らかのテーマみたくなっていくことになります。ほら、アカウントが消えたらおしまいの世界で生活の半分をやっているので……)

■「優しいだけじゃダメですよ」(2012年8月〜11月)

 4週間くらい実家にいましたが、「超短コース」とかいう合宿免許みたいな詰め方のコースに通ったので、あまり地元で何をしたという感覚はありません。送迎のバンの車内で「高校どこ?」と地元の大学1年生に話しかけられるなどしながらなんとか免許をとりました。とってから公道に出たのは一度きりで(原付ならもう何度かある)、近々ゴールド免許の更新があります。もう返納しようかな。
 8月下旬に青春18きっぷを使って2泊3日で帰京しますが、名古屋ではサシオフを2件詰め込みます。その後しばらく、名古屋は「オフ会で行く場所」のようになりました。

 めちゃくちゃサイレントにやっていたのでpostを読み返していても自分で気づかないくらいだったのですが、東京に着いた翌日に、のちにお付き合いすることになる相手と会っていたようです。ちょっと調べてみたら6月下旬にはすでに連絡をしていて、7月に入って返信がきて、試験や帰省もあって予定を合わせようとしたらこのタイミングになったみたいです。

 採点バイトを続けつつ、この時期に編集プロダクションのバイトに応募して、8月末に面接を受けて採用されたみたいです。行ってみたら普通のマンションの一室でヤバい感じがしていたのですが、事実けっこうヤバいところでした。最後の学期の履修を組んで、週2.5勤(週2で10時出勤、週1で17時?出勤)としたのですが、いつしか退勤が恒常的に0時半のガチ終電ダッシュの時間になってしまいます。

 時給は900円でしたが、週で30時間くらい勤務していたのでけっこうあぶく銭が入りました。ただ、パワハラ社長兼編集長に詰められたり(お茶くみと灰皿の掃除から始めました)、編集担当が僕しかかんでいないページを若いライターさんと新人のデザイナーさんと一緒に作って入稿したり、雑誌1冊に出てくるお店の電話番号すべてに番号確認の電話をかけたり、だいぶ揉まれたという感覚がありストレスがすごく、クレーンゲームにつぎ込んでしまってぜんぜん残りませんでした。
 その後就職して編集者になったわけですが、ジャンルもずいぶん違うので、(それはそれでいろいろあったにせよ)あんなに泥臭い仕事には未だ出会っていない気がします。

 社長は60過ぎの女性で、女子大から大手出版社に入ってバリバリにやってきたという経歴だったらしく(時代的にかなりしんどかったでしょう)、そうとう強烈な人でした。「東大生ってだいたい使えないけど、期待はしてるからまあせいぜい頑張ってください」みたいなことを面接の日に言われ、世の中って厳しいな……と思いました(当時のコンプラ感覚でも普通にアウトですけどね)。内定先の社名を伝えると「つまらん仕事するんやなあ!」とさえ言われましたが、たぶん東大とかに対してずっと反骨精神をもってやってきてたんでしょうね(じゃあ東大のメーリングリストで求人を出すなよ)。

 同じタイミングでデザイン学校に通う同い年の女の子も採用されていたのですが、顔がかわいくてモジモジしていたので社長に僕の3倍くらいいびられ、1か月半くらいで脱走してしまいました(社長のあの感じだったらそうなることはわかっていたのに女の子を採るなよ)。「頭を使える雑用係」と「DTPをさせる係」という組み合わせで採用したつもりだったようですが、僕がなぜかDTPの基本操作はひと通りやれてしまったので、普通に2人分働き続けたような感じになりました。「卒業をかけた試験があるので、その直前で辞めます」と伝えていたので、前提がなかったら僕もすぐ飛んでいたかもしれません。

 出勤したくないのでギリギリまで駅のホームで電車を見送ったり、24時45分くらいから本郷三丁目のなか卯でカツ煮定食を食べたりしながら、(これは少し後の時期のことになりますが)結局社員さん全員に送別会をやってもらえるくらいにはちゃんとやり切りました。終盤には「後任を探してもらわないと困る」と最後のハラスメントを受けたので、留年が決まっていた学園祭の委員長を召喚して無事脱獄しました。引き継ぎがスムーズで助かりました(最終勤務日にも0時くらいまで働いていて引きますね……)。

 「140字創作」を主にやっていたのがこのくらいの時期です。このときは、リプライでお題となる単語を募集して、それを140字にふくらませて書く、という形でやっていました(上掲postのお題は「硝子」)。
 リプライクレクレをずっとやっていたので、ここぞとばかりにフォロー返しをしていない委員会関係者がいっぱいリプライを送ってきました。卒業の頃に委員会方面からもらった寄せ書きを見返すと、「お題創作本当にすごいです!」みたいなことがけっこう書いてあって、「他に書くことなかったんやろなあ……(仕事のことは触れづらいのでTwitterのことしか書けないが、ゴリゴリにいじるほどの関係性はない)」と申し訳なくなります。

 10月の半ばに、のちの恋人と東京ソラマチに行きました。体調不良か何かで1か月くらい延期になっていたと記憶します。「プラネタリウムに行こう」ということで予定をあわせていたのでソラマチになっただけで、スカイツリーに上ったりはしませんでした。「ポンデリングをいっしょに食べたかった」と、半年前の去り際にTwitterで言われていたのでポン・デ・ライオンパークにも行きましたが、それを目がけて行ったのではなかった気がします。
 すみだ水族館に行って、ソラマチを出て少し歩いたところにあるイタリアンのお店に入りました。微笑ましい話ですが、確かこのときはちょっと前に現地まで行ってあらかたぜんぶ下見をしていたので、迷ってしまうこともなく時間を持て余すこともなく、なんとなくうまく行ったような感じでした。

 この夜、イタリアンのお店で少しお酒を飲んでいたとき、不意に「優しいだけじゃダメですよ」と言われたことが僕の人生において強烈に記憶に残っています。「優しくする(寛容である)」ことで、ようやくまともに他人とかかわれるようになってきたという感覚があったので、けっこうショックで、「そっかあ……」と思った記憶があります。
 だからといってどうしたらいいのかはわからなくて、たぶん32歳になろうとしているいまでもわかっていません。フラットに接し続けるしかありませんでした(あと、上掲post、サシ飲みをデートに数えないなら1回、数えるなら3回で、いずれにせよ2回目のデートじゃないな、そういうとこやぞ)。
 翌日には「もう会わないようにしましょう」という連絡がきたので全力でなだめて、少し後に「今日会いたいです」とバイト中に連絡がきて、仮病で退勤して会いに行きました。横浜駅までの1時間くらいが永遠に思えて、少しお茶しただけで解散してしまいましたが、すべてがすごく楽しかったのを覚えています(サボりなんかやる人生じゃなかったですからね)。

 彼女はひとつ年下だったので、就職活動やゼミで忙しくしていてなかなか予定を会わせられず、連絡をとっていた割に会えなかったという覚えがあります。学園祭にも誘ったけど、来てくれませんでした。寂しさを紛らわせるために(腹いせともいう)、この年もヘルプに入ってけっこう働きました(大量の機材をリュックに背負って大量の写真を撮りました)。
 さすがに泊まり込みはしませんでしたが、最終日夜に記念撮影のカメラマンをしたあと帰ろうとしたら、「駒場の事務に顔が利くんだから徹夜撤収に参加して朝の施設明け渡しの学部チェックに参加してくれ」と後輩OBに頼まれて笑いました。僕は学園祭の委員としては駒場の事務に顔が利いていたことはないし、施設関係の仕事をしたことは一度もありません。おもしろかったので逆に残りたくなりましたが、卒業がかかっている授業の小テストがあったので帰りました。残っておけばよかったかな。

 この時期はほかにも写真をよく撮ったり(上掲postのブログをつくったのは後の時期になります、この時期は主にFacebookにアップしていました)、小説を書こうとしたりしていたと思います。夜になると相変わらずタイムラインで遊んでいました。「きしょうガールズのみんな〜〜〜!?!??」をいちばんやっていたのはこの時期だと思います。

 創作をして写真を撮り、酒を飲み働いて、タイムラインでふざけて、裏では女性に入れ込んでいるというのが、だいたいぜんぶ「きしょうさん」で笑ってしまいます。恋愛相談とかもインターネット外では受けていたんじゃなかったかな。この頃のすべてを引きずって、しかしだんだんとすり減って先細りになりながら、現在に至るまでずっとやってきているんでしょうね。

 (この時期、ゲーセンに通ったりPS Vitaを買ったりして、ボーカロイドの音ゲーをめちゃくちゃやっていました。)

■妖精が見守るクリスマスイブ(2012年12月)

 この頃にはこういうこともあったみたいです。「個別指導系のバイト」とは、ここまで書いていなかったと思いますが、インターネットを使って地方の生徒に現役東大生が教える! みたいな、いかにも教育熱心なご家庭からお金を引っ張る感じのやつでした。当時DNPが推していた謎の紙に謎のペンで字を書くと画面に映るシステムを活用し、回線の関係ですぐ止まるビデオ通話システムのフォローのために常時携帯電話で通話を繋げているような、少しまだインフラが追いついていなかった感じ(僕の大学1年のときですから2009年です、いまはiPad1台あればなんとかなりそうですよね)の先進的な試みでした。
 最初は中学1年生に数学を教えたり、野球部ばかりやってきた高校生に古典を教えたりしてまったり働いていたのですが、秋ごろに「東大模試C判定! 現代文がどうしても苦手! 最後のひと押しをぜひオンラインで!!」みたいな、親御さんが目を血走らせていそうな依頼が押し込まれて、「現代文がいちばん得意でしたわw」とか吹かしていた僕にあてがわれた(現代文が教えられる扱いになっていた登録講師が僕だけだったらしい)生徒でした。
 若かったのでそれを意気に感じてしまって、1コマ45分の何倍もかけて準備をして(よくある塾講のバイトをコマ給で考えちゃだめな実質ブラックのやつ)、思いを込めて教えました(入試で得意科目だったからといって、それだけで教えられるわけではないというのは言うまでもありません)。地方の子なので入試直前の授業を最後にもう関わりがなくなってしまう手はずでしたが、僕がたまたま入試当日腕章を付けて正門前を見回ったりする学生だったので、まさかの本人に直接対面することができ、「先生が3次元だ!!」と、初音ミクかきしょうさんか、みたいな名言をぶつけられました。一緒にいらしたお母様は苦笑していました。
 結局その年彼女は特に国語の点数が足りなくて合格を逃してしまうのですが(切腹)、1年しっかりとした予備校に通って浪人をし、翌年晴れて合格を勝ちとります。翌年も僕はたまたま新入生入学ガイダンスに現れて壇上でサークルオリエンテーションの説明をする学生だったので、それが終わったあとに彼女のほうから声をかけてくれたのでした。というわけで、僕は何をしたわけでもなく、教え子というのもおこがましいにもほどがあるという感じだったのですが、なんだかんだで関係ができて、このあとも2回くらい会って、いまもFacebookでお互いにいいねをする程度のつながりがあります。
 ちなみに彼女は最近ご結婚をされました。お相手は寮の同期だったということでしたが、そういえば「なかなか友達ができなくて……」みたいな話を聞いた気もしてきました。あれも広義の恋愛相談だったのでしょうか。

 話は少し逸れますが、Twitterをやっているとたまに妖精みたいなフォロワが現れることがあります(みなさんはどうですか?)。妖精とは、いまWikipediaを見てみたら「神話や伝説に登場する超自然的な存在、人間と神の中間的な存在の総称。」と書いてありましたが、「どこからか現れた、よくわからないけど人懐っこい子」くらいの意味でとらえてください。この「妖精」の概念はたぶんあと何度か出てくると思うので、ここで覚えておいてください。

 この時期の「きしょうさん」には、そのような「妖精」とも呼ぶべき存在が現れました。いつからフォロー関係にあったのかはよくわかりませんが、この頃にはTL上でたまにやりとりをするようになります。鍵アカどうしとかでももっと話していたのかな。よく思い出せませんが、僕のpostをよく見て、気にかけてくれる子でした。共通のフォロワなどはいません。どこからか現れた謎の存在で、まさに「妖精」でした。
 その子のことを仮に「はるちゃん」とします。はるちゃんは当時高校生で、松山よりは確実に田舎だなという町に住んでいて、男子と話すことはあまりなくて、数学を担当しているおじさん先生のことを「かわいい」とか言って友達と盛り上がっている、どのクラスにも数人いそうな感じの子でしたが(共学マウント)、おしゃれなアイコンと楽しげなリプライで、普段知り合わない人と話せるTwitterを楽しんでいるような感じだったと記憶します。

 そんな感じの子と謎に絡んだりしながら、なんで上掲のpostのようなことをいきなり言い出したかというと、直前にのちの恋人から「オペラシティでやっている篠山紀信の写真展に行きたい、だけど申し上げにくいのですが、就活のせいで会期最終日の12月24日にしか行けそうな日がない。もしきしょうさんが良いなら、一緒に……」みたいな連絡が突然きて、ひっくり返っていたからです。
 (のちに、12月24日は彼女の元恋人の誕生日であったことが判明しますが、偶然の一致に因果関係を見出すのは理性のある大人のやることではないため、特に何とも思っていません。)

 当時はるちゃんとどのようにやりとりしていたのか忘れてしまいましたが、あまりの事態にとりあえず話だけでも聞いてもらえる相手がはるちゃんしかいなくて、「やばい!!」みたいな感じですぐ話した気がします(そう考えると、インターネットでいつでも恋愛相談を無料かつ即レスで受け付けている謎のおじさんがいたら、とりあえず相談してみたくなる人も多いのかもしれません)。

 男の人と手をつないだこともない(でも僕も女の人と手をつないだことはなかったのでちょうど良かったんだと思います)はるちゃんと作戦会議をして、「きしょうさん絶対その日告白だよ、きしょうさんから言わなきゃダメだよ」と繰り返し言われました。僕も何もわからないながらに、まあそうなんだろうなと思っていたので、背中を押された形でした。
 あと2週間しかないのに、週に3回終電までバイトしていたので、ギリギリで合間を縫ってプレゼントを調べて買いに行き(プレゼントのはるちゃん案は女子高生っぽすぎるものか、逆に母の日感が出ているものかの両極端で、あまり参考にしなかった気がします)、イブの夜の新宿なのであらゆるレストランがもう予約がとれなかったので、せめて雰囲気のよさそうなダイニングバー(と称する小規模チェーンの居酒屋)を予約して、当日を迎えました。

(六本木のお店でおしゃれなペンを買いに行ったのでした)

 当日は渋谷で待ち合わせて、渋谷ヒカリエで何かの展示を見たあと、初台のオペラシティに移動して写真展を見ます。渋谷の時点でけっこう歩き回っていたので、乗り換えの道すがらにある喫茶店に入ってしばし休憩しました。やたら詳細に覚えているのは、このときもコースをぜんぶあらかじめ下見したからです。微笑ましいですね。

 コンタクトを入れるのに失敗していたらしく、オペラシティのトイレで外して眼鏡に戻した覚えがあります(僕は15年来の眼鏡ユーザーですが、就活のみなぜかコンタクトでやっていた関係で、彼女と会うときはコンタクトをする流れになっていましたが、このときを境にやめました。あれ以来コンタクトはほぼつけていないんじゃないかな)。

 そのあと新宿に移動するために電車を待っていた初台駅のホームで、「手が冷えちゃったからあっためてください」と言われて、初めて手をつなぐことになりました。いつも困り顔でうつむいているようなおとなしい子でしたが、ロールプレイに突然入り込むようなところがあって、たまにこういう大胆なことをする感じがありました。僕がずっとモジモジしていたのを見かねて、助け船を出してくれたのかもしれませんが。
 新宿西口のあたりを手をつないでブラブラしたあとお店に入って、どこの国のものかよくわからない食事をしながら、恋人になってほしい、と伝えました。また困り顔をされてしまったので、何かをがんばって話したことを覚えています。
 ややあって付き合うことになって、それからももう少しお店にいたのですが、「iPhoneの調子が悪いから見てほしい」と言われたことを妙な手触りで覚えています。あとは、いつも言われていた「時間ができたら小説を書いてほしい、文章が好き、書いたら読ませてほしい」という話もしたでしょうか。同じタイムラインにいただけの関係でしたから、それくらいしか共通の話題がなかったんだな、ということに気づいたのは、少し後になってのことです。

 新宿駅で解散して帰路につきました。翌日僕は例によってバイトで、彼女は大学か授業かのどちらかだったと思います。帰りしな、Facebookのpokeで反応が返ってこなかったやつは裏切り者、みたいなインターネット東大男子の邪悪なノリがタイムラインであったようなのですが、この時間だったので即座に対応しました。
 はっはっはざまあみろ、pokeが返ってきたからって非リア充とは限らんぞ。僕は人生をやるんだ。心の中で鬼マウントをとっていました。あのときは申し訳ありませんでした。

 タイムラインを遡っていたら、はるちゃんの「きしょうさんからの報告待ち」というpostが目に入りました。謹んで顛末をご報告させていただくと、「やったー!!」「りあじゅうだー!!」と言ってもらって、めちゃめちゃ喜ばれたという思い出があります。タイムラインで足の引っ張り合いをするんじゃなくて、近しい人のことは素直に応援して、良いことがあったら喜ぶという行動もあるんだなと思いました。そんなこともわからないような人生を送っていました。

 (僕が男性ボーカルの曲を聴いているときは8割方女性の影響です。わかりやすいですね。)

■学生時代をきれいにたたむ(2013年1月〜3月)

 年末年始の帰省から戻ってきたらいきなりウイルス性胃腸炎にかかってげろげろじゃばじゃばになり、幸先の良い2013年のスタートとなりました。就活が本格化していく恋人とは頻繁には会えなかったので、バイトと試験の準備をしながら写真を撮ったり小説を書いたりしていました。期待に応えようとしていたのだと思います。それ以外のコミュニケーションのしかたがわかりませんでした。

 そのときに書いたのが「明日に溶け残るのは」で、これが僕の書いた最後の小説ということになります(たぶん)。高校生のときに最終選考に残った文学賞に応募してみましたが、一次選考で落ちました。
 次の代が動き出したので、学園祭実行委員会の冬合宿にアドバイザーとして呼ばれていたみたいです。議論にアドバイスできることはなかったと思うので、どうせ写真を撮って誰かの愚痴を聞いていたのだと思います。

 いろいろと時間ができてきたので、こちらができるだけ都合をあわせる形で恋人と何度か遊びに行っていたような気がします。横浜美術館のロバート・キャパ展に行ったり、バルト9でエヴァQを見て「???」になったりしていました。

 調子に乗ってきしょうガールズを解散しますが、この1か月後には急に別れを切り出されてそのまま顔も合わせることなく別れてしまうので、すぐにまた招集をかけることになります。
 askなどで「付き合っていた期間は数か月でした」という表現を用いることがあったと思いますが、見栄を張ってせめて7か月くらいの感じを出したくてそのように称していただけであり、実際は3か月弱でした。嘘ではありませんが、不誠実でした。お詫び申し上げます。

 この時期にはちょっとしたヒット作がありました。3桁RTは初めてだったんじゃないでしょうか。当時のバズの目安は「favstar集計(オープンアカウントのみ)で4桁RT程度」だったと思うので(僕の感覚のみで当時を思い出して書いているので適当ですが)、プチバズというにも抵抗があるくらいですが。

 旅程を終えた翌日にフラれることになるとはつゆ知らず、ひとり卒業旅行として仙台に行き、帰省を挟んで種子島に行きました。宮城峽でウイスキー工場の見学をし、仙台を回って牛タンを食べて日本酒を飲み、母校で就職の報告をし、福岡でWBCを観戦して、鹿児島で焼酎が飲めるようになって、何年も恋い焦がれた地であった種子島に上陸しました。

 ロボティクスノーツというアニメの聖地となっていた頃だったのでそういう盛り上がり方を少ししていましたが、僕はもちろん秒速5センチメートルの聖地として訪問しました。おじいちゃんが自転車屋さんの片手間でひとりでやっているレンタバイク店で原付を借りて種子島を縦断し、綺麗な2食つきの宿に3泊しました。まともに観光するだけなら2泊でも余るくらいだった気がしますが、空が広く海が青い島は、走っても走っても飽きることはありませんでした(真っ黒に日焼けをしました)。

 種子島にいる間に大学で卒業者の発表があり、友人に掲示板を見に行ってもらって、無事に卒業できたことを確認しました。博多で2泊して、うち1泊は九大祭のときにもお世話になった高校の後輩の家に、たまたま博多にいた(!)同期と一緒に泊めてもらい、時間を間違えて帰りの飛行機に乗り損ねました。果たせたこともやらかしたことも何もかも僕らしい感じがして、こうやって学生生活が終わっていくんだなあと思いました。

(むき出しの死亡フラグを立てていたようです)

 先述のように、旅程を終えて帰京した翌日に恋人から連絡があって別れることになりました。種子島南部では当時SoftBankの電波が飛んでいなくて、なかなか連絡がとれていなかったので、思えば帰ってきて落ち着くのを待たれていたのかもしれません。

 お別れした直後のpostがこれです。サービス開始したばかりだったGREEのアイマス(アイドルマスターミリオンライブ)を人生初ソシャゲとして始めていたので、現実の女にうつつを抜かしていないで(?)そちらに専念するぞという思いをbioにしたためていました。福田のり子さんを中心にプロデュースしていましたが、のちにSRを引いたので所恵美さんを軸にやっていくことになりました。サービス終了したのはいつでしたっけ。懐かしいですね。あれ以来ソシャゲの類はやっていません。

 2月に飲む機会があったことから、そこで恋人ができたことを初めて明かしたリアル知り合いとなった委員会の後輩を再度呼びつけて、「別れた!!」と言って泥酔する、というやつがありました。完全に現在の僕と変わらない味わいがあります。

 その後、委員会同期と長崎→佐賀→福岡の旅程で正式な卒業旅行に行きました。僕は行くか行かないか態度を保留していた時期があったと記憶しますが、先に書いた「向こう側」の陣営の方々が行かないと言い出したので「じゃあいっか!」と思って行きました。10人以上くらいで行ったのでドタバタ珍道中という感じで、10日くらい前に来たばかりだった僕が地元出身のやつを差し置いて博多の観光案内をするという謎の流れもありましたが、楽しかったです。

 この年は桜の開花が早かったこともあり、そういうのも含めて写真を撮り歩いたり、学園祭実行委員会の追いコンに普通に出たりしていました。新歓のほうの委員会でも最後に集まりたいねとなって、卒業式のあとに記念写真を撮りました。駒場の委員会だったので本郷には特にゆかりの場所はなく、こじつけで合格発表の掲示板の前で撮りました。委員長としての最後の仕事だ、と気合いを入れてメールを送りまくったことを覚えています。
 3月末のムードに乗せられて、まるで楽しいだけの日々だったかのように大学生活をたたんでいきました(それで終われればよかったのに、釈然としない思いがまたムラムラきてしまって、しばらくしてキレてしまうわけなんですが)。恋人も就職前にいなくなって、すっきりしたものでした。


第1章 おわり。


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 やったぞ!! これでもう酔っぱらうたびに10年前と同じ熱量で委員会の愚痴を言わなくて済むんだ! 僕は正気に戻ったんだ!!! やっと人間になれたんだ!!!!!!!

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