ヤフンの王墓

長野県の南部、伊那谷に 老松場古墳という古墳がある。

昔から古墳があるということはひっそりと伝えられていた 小さな古墳で、 すっかり森の中に 溶け込み 存在を忘れられていた。

私は中学生の頃、その 森の中の獣道を歩き 偶然にも古墳の上を歩いて、あれ? これは前方公演墳ではないのかと 思っていたのだ。

最近になり この古墳は5世紀の前方公演墳であるということが 大きな話題になった。

前方後円墳というのは 古墳の中では 位が高く 大和朝廷との繋がりがなければ 作ることもできず 貴重なそうだ。

そしてこの近くにその他には前方後円公墳がないことから その古墳が特別なものである 可能性が高い。

5世紀に近畿から遠く離れた地にたったひとつ作られた古墳、そこにこんなものがたりがあったのではないか?

日本の国が まだない頃 、ヤマトという 一族が 力をつけ始めていた。ヤマトの 国は 馬を育て、馬で交易することで国力をつけていた。

当時の馬は 誰もが欲しがる 今で言う 高級車のような存在であり。 馬を持つことが ステータスであり その馬を育てるということができれば それは金を産み出せるということである。

大王の8番目の王子ハルヨシは 宮廷の生活が窮屈でならなかった。ハルヨシは他の誰よりも馬が好きだった。

馬で好きなときどこまでも自由に走りたい。

成人になった日の朝、ハルヨシが大事に育てた馬 アイライ ともに 旅に出た。大王には秘密だった。きっと許されぬだろう。

向かう先は日の昇る東の国、 東山道を進み数十日旅をすると 開かれた谷間があった。

旅の途中、 谷の天龍川という川が暴れた。天竜川と三峰川の土地は特にひどい水害であった。

途方にくれるハルヨシを水害にあった村人は暖かくもてなした。

伊那の谷の人々も困っていた しかし 村の人たちは 自分たちの生活もままならぬのに 馬を連れたハルヨシを 丁寧にもてなした。

ここで暮らそう。

ハルヨシはいつしか伊那谷の人々と馬を育てるようになった。伊那谷の馬は有名になりハルヨシの馬アイライの子どもたちはヤマトの国が栄える大きな原動力となった。

信長にとっての鉄砲と同じである。

アイライの子孫が現在の木曽馬である。

かくしてハルヨシは 大和政権の 最大の功労者となり、大王にも許され 前方後円墳を築く事を認められた。

ヤマトから技術者が来て、 谷の人たちの力で 丘の上に作られたのが老松場古墳である。

その後伊那谷は馬の一大産業となり伊那谷の南の飯田が中心地となり多くの古墳が作られたが、始まりの地である伊那には老松場古墳より大きな古墳を作ることは無かった。

ハルヨシは一度も国に帰ることなくその地に眠り、ハルヨシの子孫は今でもその地に暮らしている。