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愛をあるだけ、すべて

2018年10月29日、子どもが産まれた。

振り返ると、とても充実した1年だった。何年後かに振り返った時に、いつの時代に戻りたいかと聞かれても、多分2018年は選ばない。軽くハイになっていたかもしれない。こんなに一年を長く感じたこともなかった。

僕は40歳くらいで死ぬと思っていた。希死念慮があるとかじゃなくて、漠然と、僕の人生がそこから先に存在していると想像できなかった。父親が四十代で突然死んだことも影響しているかもしれない。30歳の時に東日本大震災が起きて、それが確信に変わった。

三十代半ばを過ぎたころから、あれ、意外と自分て死にそうにないなと思い始めた。もともと根拠なんてなかったから当たり前だ。37歳になって、cakesの編集長なんて肩書がついて、責任が増えた。初めて受けた人間ドックもオールAで、こりゃいよいよ生きなきゃならないと思い始めたころに、ひょんなことからマンションの隣人と付き合うことになった。あれよあれよという間に結婚。隣人には6歳の子どもがいて、いきなり一児の父になった。あれからまだ1年も経っていないのか。

自分が誰かの親になんかなれんのかな、なんて悩みは、妻の妊娠で吹っ飛んだ。そんなぬるい事言ってる場合じゃなくなった。十月十日、親子三人必死にもがいていたら、子どもが産まれた。3665g。人より少し大きい彼はとにかく元気で、おっぱいをよく飲む。最近はぷくぷくに太ってきた。

初めて新生児に触れて知ったのだけど、生き物としてこれでいいのかというくらい無能だ。一人で寝返りもうてない。うつ伏せにするとそのまま死んでしまうらしい。野生に置かれたら餌にしかならない。肉食獣に足先から食べられても、ただ泣き叫んでいるだけだろう。しかし、その無能さを補って余りある圧倒的かわいさ。

この、かわいさだけを盾に、周囲の人間にすべての世話をさせるという機能が、アウストラロピテクスから数百万年にも渡って行われてきたと思えば、この子のかわいさにも歴史の重さを感じてしまう。いや、ただたんにうちの子が特別かわいいだけかもしれない。退院の日の病院で、産まれたばかりの子たちの写真が並んでいる中、次男の写真を指さして「うちの子が圧倒的にかわいいねえ」なんて、よそに聞こえる声で言っていたら、妻に怒られた。でも、かわいい。

そんな次男が先日、難聴という診断を受けた。新生児スクリーニング検査で引っかかり、大学病院で脳波を使った精密検査を受けてわかった。右耳が中等度難聴、左が高度難聴。「今後改善される可能性はありますか?」と医師に尋ねると、「まず考えられない」と答えた。眼の前が急に暗くなった。今まで、のらりくらり付き合ってきた社会という大きな塊が、急に僕たちの前に立ちふさがる。どうしたら、社会はこの子を受け入れてくれるのか?

その問いは、すぐに自分に跳ね返ってくる。「お前が今まで聾者にしてきたことが、この子がこれから立ち向かう社会だ」。自分の人生を振り返る。そういえば、街で聴覚障害の人を見た記憶がない。視覚障害者や、車椅子の人は見かけるのに。あ、見た目では分かりづらいのか。そんな言い訳にほっとした自分に愕然とする。つまり、ほとんど意識していなかった。

たかが親が、子どもを、人間をどうにかできるなんておこがましい。それをこの1年の間に長男が教えてくれた。僕ができるのは、道を誤らないための大まかな補助線を引くこと。自分が38年の人生で見てきたすべてを伝えること。

医師からの説明では、補聴器をつければちゃんと喋れるようにはなるとのことだった。でも、あとで調べれば調べるほど、難聴の人が音を聞き取ることの難しさがわかってくる。おそらく、「Let's Get It On」のイントロのきらめきも、「あなたと握手」の美しいアンサンブルも、談志や志ん朝の落語も、深夜ラジオも、彼には伝えられないのだろう。

それでも前向きになれたのは、妻のおかげだった。最初は、夜、寝ている次男の横で泣いていたそうだ。「私のせいかもしれない」と僕に言ってきたこともあった。僕はその時、「そんなバカな話あるかよ」と強く言ってしまったのだけど、たくさんの難聴の子どもを持った親たちの体験談を読んだ今、彼女のその後の振る舞いは立派だったと思う。

多くの親がショックを受け、泣きぬれて、立ち直るまでに何ヶ月もかかったと書いていた。でも妻は、一週間ほどでさっと切り替え、聴覚障害者教育について調べだし、今は手話をどうやって勉強しようか考えている。サラリーマンとしてバリバリ働きながら、ひとりで子どもを小学生まで育てただけのことはある。また一つ妻を尊敬した。この人となら、最初に考えていたのと変わらず、楽しく子育てができるかもしれない。

僕は運命論が嫌いだ。彼が僕たちを選んで産まれてきた、とか、神様は超えられない試練は与えない、とか、因果応報とか。心の中で唾を吐く。そもそも世界は理不尽なものであることは、38年あれば僕でも気がつく。難聴になるのは1000人に1人だという。誰かはその1にならなければいけない。

じゃあこの理不尽な世界で、彼をどう育てていけばいいのか。幸い僕は、音楽家でもなければラジオDJでもない、編集者だ。口や音にしなくても、伝えられる言葉はいくらでもある。彼が将来、この人たちのところに産まれてラッキーだった、くらいには思わせたい。

僕は40歳くらいで死ぬだろうと思っていた。でも、僕が編集者になった意味を、ここに置いてもいいのかもしれない。そう考えたら、40歳より先の人生がぼんやり見えてきた。僕が見てきたすべてを伝えなきゃいけない。今度は、時間が足らない。ちくしょう。

長くなったけど、もっと大事な話がある。それは、長男のことだ。戻りたくないくらい大変だったこの一年、けど、やたら楽しかった。週末になると、身重の妻に変わって、長男とふたりいろんなところに行った。僕はその過程で、さぐりさぐり、少しずつ父親になっていった気がする。でも長男は、僕よりもよっぽど早く息子になってくれた。長男の素直さに、何度も助けられた。

次男が産まれる前、僕は妻に冗談交じりに「下の子が産まれたら、僕は長男をエコひいきするね」と言っていた。長男と僕に、血の繋がりはない。いつか、彼がそれを負い目に感じるかもしれない。それがささいなことであることを、僕は証明しなきゃいけない。

でも、おそらく次男に割かなきゃいけない時間が増えてしまうだろう。長男が寂しいなと思ったとき、「お兄ちゃんだから」「弟は大変なんだから」なんてこと、絶対に言いたくない。それよりも、愛を伝えたい。

これは、たぶん愛だろう。あまり実感したことがない感情だけど、そうだと確信してる。やっぱりこの社会が敵だったとしても、理不尽な世界に打ちのめされそうになっても、僕が長男と次男を、そして妻のことを愛していることだけは絶えず伝えていこう。それを忘れないよう、ここに日記として書き留めていこうと思う。

「愛してます」の手話だけは覚えた。右手で左手の甲を優しく撫でる仕草。次男の左手を僕の右手で撫でながら、静かに決意した。


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