取り返しのつかないこと

また一日遅れ。昨日は木曜日。歯医者の日だった。

これまでの経過を振り返る。人生を変えようと思って18年ぶりに歯医者に行った。18年の間に上下左右の奥歯4箇所の詰め物が取れていたけど放置。奥歯全撤去くらいの覚悟で行ったが、歯磨きはちゃんとしていたおかげか案外無事だった。死ぬほど優しい先生のもと、順調に治療が進む。懸念していた4箇所の陥没も致命傷には至っておらず、虫歯が神経に到達していなかったので少し削って詰めなおして終了。いよいよ親知らずの抜歯に進むのかと思われた。

というわけで先週の木曜日、その日は陥没箇所と別の小さい虫歯の治療をしていた。18年放置してたんだからそんなのもあるだろう。無事終わり、帰ろうとしたところで先生がこう言った。「右上も歯の間に虫歯あるようなので、次回はそこやりましょう」。まだあるのか、とは思わない。18年もほったらかしにした人間が思っていいことではない。

そして昨日、前回指摘された箇所の治療を行った。以前も書いたが、先生は死ぬほど優しい。優しさに応えようとしたあまり、むだに追加の麻酔を受けてしまったこともあったが、それでも先生への信頼は変わらない。18年目の担当医、腕の良し悪しは全然わからないけど、僕は先生へ全権委任している。

いつもは執拗に「痛くないですか?」「大丈夫ですか」「痛かったら無理しないですぐ手を挙げてくださいね」とbotのように繰り返す先生なのだが、今日は様子が違かった。僕に聞こえるギリギリの声で「うーん」とうなる。削る時間もいつもより長い。「うーん」「うーん」、三度ほどうなる。もしかしたら先生には自分で口にしてしまっている自覚がないのかもしれない。続けてごく小さい声でこう言った「深いな」。深い……?

今までの治療で聞いたことがない言葉だった。先生は今まで僕を不安にさせるようなことは一切口にしてこなかった。その先生が言うのだ。もしかしたら、もしかしたら病状は深刻なのか。脂汗が滲む。シャツの裾を握る。

ドリルが止まり、先生は僕に鏡を使って患部を見せた。歯が根本に向かって縦に削られ、ピンク色の地肌が見えていた。今まで見たことが無かった光景。そしてこう言った。「虫歯が神経まできていました」。とうとう来た。いや、むしろこれまで順調に治療が来ていたのがおかしかったのだ。18年間、嫌なことから目を逸らし続けてきた代償がここにあった。

なぜ歯医者に通い始めてから2ヶ月間、この問題が顕在化しなかったのか。もしかしたら先生はとっくに気がついていたのかもしれない。でも優しさゆえに、僕の歯医者通いのテンションが落ちないよう、後回しにしてきたのではないか。嘘は優しい。でも嘘なら罪です。癌の告知を躊躇する家族がいても、癌の告知をされたくない患者なんているのだろうか。事実は事実として受け止めたい。でも、それもこれも、自分が悪いのだから先生を責めるのはお門違いだ。

先生からは今後の治療法について説明があった。神経はなるべく残したほうが歯の維持にはいい。今回は仮の詰め物をして、痛みが出なければ来週詰めなおしましょう。ここで疑問がよぎるが、とりあえずそれを頭の隅に置いて、治療を続けてもらった。

終了後、今まで思っていたことを含め、先生に疑問をぶつけた。「先生、僕、痛みがよくわからないです」。今まで先生は執拗に「痛くないですか?」と聞いてきた。あまりに聞いてくるので、痛くなくちゃいけないのではないかと思って手を挙げてしまったこともある。追加の麻酔を打たれた。だから、痛みが出たというのがどのレベルなのかがわからない。一般的には「痛い」なのに、僕がこの程度痛いうちに入らないと思って「大丈夫」と答えてしまうと、正しい治療が受けられないのではないか。追加の麻酔のことは触れなかったけど、こういう話をした。

先生からの答えはとてもわかりやすかった。

「大丈夫ですよ。絶対わかりますから」
「え?」
「内服の痛み止め、お持ちですか?」
「ええ?」
「痛みが出たらすぐ来院してください。それどころじゃなかったら痛み止め買って飲んでください」
「え? え?」
「夜寝られないレベルです」
「え……?」
「日常生活に支障が出るレベルです」
「えええ……」
「もんどり打ちます」

ニヤニヤしながら答える先生。そうだった。この人血まみれの治療写真を見せつけて、「この歯茎の上にネギ乗ってたんですよ~」って笑いながら話す先生だった。優しさに隠されてこの人の狂気を忘れてた。先生の言う痛みの基準はこれだったのかもしれない。「痛くないですか?」「大丈夫ですか」「痛かったら無理しないですぐ手を挙げてくださいね」という言葉が、すべて痛みを呼ぶ祈りに思えてきた。

とりあえず来週まで1週間、痛みに怯えながら過ごすことになった。麻酔も切れて、丸一日経ったが、特に痛みは出ていない。しかし、どこかでもんどり打つような痛みが起きないかと期待している自分がいる。その感情に気がつくたび、先生への信頼がさらに上がっていくのはなぜなのか。

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大熊信

上野から浅草通り無限遠

大熊信(だいくましん)。東東京在住の編集者、ライター。たまに写真。cakesやnoteをやってるピースオブケイクという会社にいます。最近聞いた一番面白い話は「"坊主憎けりゃ袈裟まで憎い"の対義語は"シスターのことが好きなので下着をください"」です。
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