やや日刊カルト新聞について

 note始めたと妻に言ったら「なに、イケハヤの真似すんの? 『まだカルトで消耗してるの?』とか書くの?」とからかわれました。面白いですが、カルト信者はホント消耗するからシャレになりません。やや日刊カルト新聞をのことを書きます。なんでこんなふざけたやり方をするのか、というお話です。

 その辺は確か『「カルト宗教」取材したらこうだった (宝島SUGOI文庫) 』で書いたような気がしますが、「差別だ」「ヘイトスピーチだ」という物言いがブームな昨今の状況を踏まえたバージョンで、改めて書きたいと思います。

 やや日刊カルト新聞の創刊は2009年です。最初から面白おかしくやるつもりで、あからさまにふざけた名称をつけキャッチコピーに「いじる」という言葉を入れました。糸井重里さんに対しては何ら恨みも悪意も抱いていません。面識もありません。ノリで勝手にパクっただけです。

 きっかけは、日刊ゲンダイやオーマイニュースでフリーランス記者をしている中で、カルト問題についても時事報道を行なうニュースサイトがあったらいいのになあと考えたことでした。カルト問題にかんする勉強会等で知り合った仲間に声をかけ、記者として加わってもらいました。現在9名の記者がいます。プロのライターは、当初はぼくだけ。後に鈴木エイト主筆が雑誌等でも記事を書くジャーナリストになりましたが、ほかは全員「素人」であるブロガーやカルト脱会者等です。

 規模は違いますが、プロではないいち市民が記事を書くという点では、オーマイニュースに似ています。しかしオーマイニュースでは、自己顕示欲ばかり強くて能力が低い「市民記者」の記事が炎上しては目立ってしまい、真面目な「市民記者」が埋もれてしまって失敗しました。オープンに素人記者を募集するのはやはり無理があります。「カルト」なんていう訴訟リスク満載なテーマを扱う場合は、なおのことです。

 そこで、やや日刊カルト新聞では、カルト問題について一定の関心と活動実績があり、情報発信の誠実さにおいて信頼できる知人だけをスカウトするという方法をとっています。「クローズドな市民メディア」とでも言えばいいでしょうか。

 誠実さというのは本当に重要です。事実を確認した上で記事を書き、間違ったときには素直に改める。記事を修正等する前に編集部内で指摘されたり議論がなされたりした際にも、話をややこしくしたりしないで真摯に対応する。

 そういう誠実さがあれば、素人でも、文章が多少下手くそでも、有意義な報道はできます。逆にこうした誠実さがなければ、いくら文章が面白くても煽りが上手くても情熱があっても意味がありません。

 そんなわけで、やや日刊カルト新聞には、実はとても真面目な人達が集まっています。ぼく以外はだいたい真面目です。ぼくですら、真面目な記事も多数出しています。

 それでも、「たまに真面目な記事も出すけど基本ふざけた下品なメディアだろ」という感覚で捉えられている気もします。それはそれで本望です。

 カルト問題に関する情報は、ネット上には腐るほどあります。各団体の被害者や信者家族の団体のサイトもあれば、そういった人々や脱会者が自ら文章を公表しているブログ等もたくさんあります。ぼく自身、まだ大学生だった90年代から自己啓発セミナーの問題を長らく取材していて、1998年から自己啓発セミナー対策ガイドというサイトを運営していました。こちらはかなりクソ真面目なスタンスと文章でやっていました。

 こうして発信される情報はとても重要なものですが、カルト問題に巻き込まれているわけでもなく関心も特にないという人には、なかなか読んでもらえません。そういう人にも目を向けてもらえるのは面白おかしい記事や炎上含みなネタなので、そういうものをやや日刊カルト新聞で流して、よりディープな情報への窓口になれたらいいなと思って、いまのやり方をしています。

 また、カルト脱会者が集まるような場所(カルト問題の研究会やオフ会のような類)では、それぞれが自分たちがかつて所属したカルト集団のトンデモさを語って冗談めかして笑ったりする場面がときおりあります。ぼくはこういう側面も大事にしたいと思っています。

 笑えるくらいおかしなものなんだということを確認するのも、カルトをやめて日常生活を取り戻していく上ではそれなりに有益なのではないかと思うわけです。

 もっともこの辺は微妙さもあります。笑って話せるようになり、それが日常的な感覚を取り戻す上で役に立つという人は、カルトのダメージからすでに一定程度回復している人なのではないかと思います。そうでなければ、カルト体験というのは本当にシャレにならないので、そうそう笑えないでしょう。たとえ一定程度回復している人ですら、かつて自分が本気で信仰した宗教をおちょくられるのは気分が悪いという人もいると思います。カルト脱会者は、カルト脱会者である前にそれぞれが普通に個性を持った人間ですから、単純に好き嫌いもあります。

 カルトを笑い飛ばすことが、どの脱会者にとっても常に有益とは限らないし、全ての脱会者に受け入れられるものというわけでもありません。その点で、やや日刊カルト新聞のやり口はオールマイティにはなれません。それでも、公の場でカルトを笑い飛ばすという行為に限定的とは言え役割はあると思っています。

 創刊後1~2年くらいの間に、ただ皮肉ったり面白おかしく書いたりするだけではなくカルトに対して直接おちょくるような形で接触し、それによってカルトの行動のおかしさを浮き彫りにして見せるというスタイルが確立されました。宗教社会学の専門用語で「参与観察」と呼ばれる手法です(ウソ)。

 その代表例であり、その後の大きなきっかけになったのが、2011年に断食デモ中の統一教会信者の前で行なった「暴飲暴食デモ」でした。「いじるジャーナリズム」の原点です。

 明らかにケンカを売ってると感じるかもしれませんが(まあそうなんですけどね)、リンク先の映像を見ていただければわかる通り「信者の健康を気遣う」という趣旨でにこやかに楽しく行われ、最後には信者たちからお礼を言われ友情が芽生えました。後に、暴飲暴食デモを週刊文春の差金だと勘違いした統一教会が、週刊文春関係者に対してマジギレしてたそうですが。

 アメリカのドキュメンタリー映画には、取材対象と馴れ合わないどころかむしろおちょくり気味にいじって見せるスタイルがときおり見られます。宗教に対してですら、そういうものがあります。雰囲気としては映画監督のマイケル・ムーア氏などを挙げるとわかりやすいかもしれません。彼は、その点について言えば初期のテレビ番組時代がノリノリでした。

 日本でもむかしのテレビ番組「電波少年」や民放の一部報道番組に、ときおり似た手法が見られますが、アメリカのようにドキュメンタリー映画になってしまうほどの分野ではないように見えます。そして日本では、宗教をネタにするケースはまずありません。

 日本でも、マイナーでいいからこういう分野があってほしいという思いがあります。暴飲暴食デモ以降も、大量の「藤倉」を引き連れて幸福の科学の講演会に突入したり、海にEM団子を投げ込む人々の前でEM団子をキャッチするスポーツ大会を開催したり、幸福の科学の大悟館(教祖殿)にメディアを引き連れて行ったり、手口がどんどんエスカレートしていますが、一応こういう目的意識があってのことです。

 ぼくのやり口をご存知の皆さんはおそらく、「もっともらしいことを言ってるけど、本心ではお前、カルトおちょくるの好きなんだろ?」と感じると思います。それもまあ当たってはいます。「いじるジャーナリズム」という手法は、やっていて本当に楽しいです。みなさんも、見てて楽しいでしょ?

 真面目な目的意識もあるし、おもろいからやるという面もあります。両方あるから「ギリギリ」でいられると思っています。人によっては「ギリギリでアウトだろ」と思うかもしれませんが、ギリギリアウトなものは審判の判断次第でたまにギリギリセーフです。

 近年は「ヘイトスピーチ」なんてものが社会問題になり、ぼくが週刊誌で書いた記事が、幸福の科学からヘイトスピーチ呼ばわりされたりもします。

 でもぼくは「暴飲暴食デモ」のときにも、参加者には事前に「罵ったりするの禁止」「憎悪表現ダメ」「飽くまでも断食中の信者の健康を気遣うデモなので明るく楽しく友好的に暴飲暴食しましょう」と念を押しました。拡声器等も使わないし、言葉の内容だけではなく語調や音量や雰囲気で威圧するようなこともしません。そもそも「批判」自体、その場ではしません。

 ぼくがやらかすほかの騒ぎの写真や映像を見ていただければ、ものすごく友好的に楽しそうにやっていることがわかると思います。カルトの人にしてみたら、むしろヘイトスピーチをされるよりムカつくと思いますけど。

 憎悪表現がなくても宗教の活動現場に敢えておちょくりに行くこと自体が、宗教に対する差別なんじゃないの?と考える人もいるかもしれません。でもぼくらは、何も問題になっていない場面に乗り込んでいっておちょくるということはありません。カルトがおかしなことをしている公共の場所や一般公開の場所に行って、こちらは悪いことをせずに彼らのおかしさを面白おかしく示しているだけです。公開の場でやっていることを評論すること自体は自由です。ましてや社会に対して害をなす宗教について「お前らおかしいだろ」と評論することは差別でも何でもありません。

 おちょくっていることは確かなので、カルトと関係ない人が見ても不快に感じることはあるでしょう。それは理解できます。理解できますが、それは好みの問題であったり「カルト問題を提起する手段として適当か」という運動論的な問題です。差別やヘイトスピーチといったたぐいのものではありません。

 おそらく「信教の自由」というお題目も、カルトをおちょくることへの抵抗感の要因ではないかと思います。本来自由であるはずなのに、なんでおちょくるんだと。

 しかし信教の自由と同様に表現の自由もあるので、宗教にしろカルトにしろ他者がどう捉えて表現しようが自由です。そして、憎悪も威圧も妨害もせずにおちょくるだけなら、彼らの自由を何一つ侵害しません。

 ただ、やや日刊カルト新聞の関心は「カルト問題」です。カルト的な要素を見出したものだけをいじります。そうでない宗教について、おもろいからというだけの理由でちょっかいを出すことはしていません。

 ただ、教義や内部での儀式の様式などが変わっているというレベルではなく、公共の場で異様な行動を見せてしまうレベルで変わっているという意味で「おもろい」宗教というのは、ぼくの経験上、だいたいやばい集団です。あのオウム真理教だって、1990年の衆院選に出た時、歌って踊って変なかぶりものして変な名前のポスター街中に貼りまくって、とても笑えましたよね。当時中学生でしたが、学校の前にポスターが張られていたミラレパとマハー・カッサパ、学校で大人気でした。

 そして、その時点でオウムはすでに坂本堤弁護士一家を皆殺しにして山の中に埋めていて、94年・95年には一連のサリン事件を起こしたわけです。

 幸福の科学も、教祖が離婚騒動の際に妻の例を呼び出しでディスったり、芸能人の霊を呼び出して喋らせたり、ブルース・リーの霊を呼び出して「アチョー!」と叫んだり、おもしろいですよね。大川隆法さん、宇宙人の霊まで呼び出しますからね。

 一方で、人類や日本が滅亡するかのような予言や北朝鮮で戦争が始まるといった類の予言を出して信者を煽ったりするし、教団の教えに逆らうと地獄に落ちるかのような教義や経文もあります。信者であっても都合の悪いことがあれば「魔がついた」などと言って追放しますし、信者だったことはないですが「敵」であり「悪魔」であるぼくに対しては取り囲んで暴力をふるったりもします。週刊誌で批判的な記事を書いた大学教授の所属大学に無断で侵入してわめきちらしたりもしてました。自分たちの敷地でもない公道を占拠してメディアの取材を妨害したりもします。

 サリンを作ったり人を殺したりしていないだけで、幸福の科学という集団の性格や発想はオウムと大差はありません。

 清水富美加騒動のとき、テレビ局に「幸福の科学ってひとことで言うとどんな宗教ですか?」と聞かれて「戦闘力のないオウム真理教」と答えたくらいです(放送されませんでしたが)。ちなみにいまは「戦闘力と知恵のないオウム真理教」と言うようにしています。

 「おもろいものはカルト」というわけではないんですが、カルトを「おもろい」と感じてしまう直感というのはけっこう大事です。それが、カルトのやばさを認識する第一歩です。笑っちゃうくらいぶっ飛んだことを人前でやってしまうカルト集団のメンタリティは、笑えないようなぶっ飛んだことをする方向にだって走っていけるメンタリティです。

 ってなことを常々感じるので、ぼくはこれからも下卑た笑いを交えながらカルト問題を世に訴えていきたいと思っています。

 でも、ちょっと興味が湧いたりヒマだったりしたときでいいので、真面目な記事の方も読んでいただければ幸いです。

 ここまで「カルト」「カルト」と連呼しているので、カルトの定義をめぐる諸々も書かなければと思っていますが、次回は、ぼくが先日、建造物侵入の容疑で東京地検に書類送検された件について書こと思います。

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