上祐氏を招聘するAI美芸研の有害さ

人工知能美学芸術研究会という団体が1月27日に都内で開催する第23回AI美芸研「宗教と数理脳」というイベントで、亀戸で炭疽菌テロを実行(殺傷能力のある菌ができていなかったため死傷者なしで立件されず)した当時のオウム真理教幹部で現・ひかりの輪代表の上祐史浩氏を招聘する件が、炎上中です。

初期段階でのネット上での反応は、こちらにまとめられています。

AI美芸研 (@aibigeiken) の「宗教と数理脳」上祐史浩×甘利俊一講演に関する反応

その後、Twitterの@aibigeiken及び、美芸研で司会を努めていると称するトモサカアキノリ(@ACINOLI)氏が、批判者たちを慇懃な態度で侮辱する発言を繰り返してなおも批判を浴び、一連の発言を削除して逃亡、という事態に発展しています。

@ACINOLIの発言は個人的なものではなく、「当会は」としてAI美芸研の主張として書かれていました。たとば、以下のような発言がありました(原文通り)

「当会としてはあくまでAIと芸術に関わる議論を促進したいのです。」

「また企画についてですが、芸術もAI研究にみるような学問も本来、一定の反社会性がございます。 当会では、そもそもAI研究そのものが社会的に穏当ではないとの認識でおります。」

後者の言動は、後ほど詳しく書きますが、かつて麻原彰晃やオウム真理教を持ち上げた中沢新一氏が、雑誌SPA!における麻原との対談の中で語ったセリフと全く同じ論法です。

オウム事件に関連して考えるべき問題のひとつに、教団が地下鉄サリン事件を起こすまで教団を好意的に評価し、メディアで教団の自己正当化に積極的に加担した知識人の存在があります。宗教研究者の島田裕巳氏や中沢新一氏がその代表格です。

カルト問題とは、そもそもカルトが違法行為や人権侵害を行うということが原点にあります。ところが特にオウム問題においては、外部の知識人がメディアを通じてオウムを擁護し正当化に加担することで、カルトの問題に対する社会の警戒感を削いでしまったという問題も重なりました。AI美芸研の行為は、その歴史の再現です。

カルト問題を取材する立場であり、ひかりの輪の脱会者の交流を目的とした「インコの会」の事務局長という立場にある者として、長文になりますが本腰入れてこの問題についてまとめておきたいと思います。

上祐氏・ひかりの輪の何が問題なのか

オウムの主要残党組織としては、アレフとひかりの輪の2つがあります。

アレフについては、麻原信仰を維持し、マスコミの取材もほとんど受けず、オウム真理教犯罪被害者支援機構への賠償支払いを拒み、大学等で正体を隠して学生を勧誘するなど、比較的「依然としてオウム」であることがわかりやすい立場と活動実態が確認されています。

一方で上祐氏が代表を務めるひかりの輪は、表向きは麻原信仰を捨てているようにも見える体裁をとり、オウム事件についての長大な総括文等を公表し、少額とは言え毎月賠償金支払いを行い、上祐氏などがメディアの取材に応えてオウム事件について証言をするなどしています。一見、オウムと決別し社会融和路線をとっているように見えます。

このことから、一般の人々の間に「アレフは危険だがひかりの輪は真摯に反省している人々なのだ」という印象が生まれていますが、これは誤解です。

ひかりの輪の問題点については、前述のインコの会のウェブサイトで「ひかりの輪の現状」としてまとめてありますので、ぜひこちらもご覧ください。また、同サイトの「体験談 中山尚「2.分裂騒動からアレフ脱会へ」」に書かれている、オウム真理教の後継団体「アレフ」内から後にひかりの輪となる上祐派が形成されていった過程も、ひかりの輪の性格を知る上で重要です。一部を引用します。

(上祐派と)主流派との信者の獲得合戦も続いており、どちらが「グルの意思」に叶っているのかとか、麻原がどれほど上祐氏を信任していたのかなどと理論付けしては上祐派の正当性を訴えていました。「もし私が日本でのヴァジラヤーナ(金剛乗)に失敗した時には、お前は日本に戻ってマハーヤーナ(大乗)を広げろ。」といって麻原は上祐を守るために送ったのだと説明していました。結局は、麻原の権威を引き継ぐのはどっちなのかという問いで信者を獲得していったのです。

そもそも上祐派は、オウム事件を反省してアレフから分裂したのではありません。麻原が目指したヴァジラヤーナ(要はテロによる日本支配)という「救済計画」の予備計画として、マハーヤーナ(大雑把に意訳すれば社会融和路線)を上祐に託したのだという設定。この設定に基づき麻原の権威のもとに集った信者たちによって成立したのが、上祐派であり、後のひかりの輪です。

社会融和路線なのだから、表向き麻原信仰を捨てたように見せたり、賠償をしたり、事件を反省し総括して見せるのは当然です。ジャーナリストの青沼陽一郎氏は、ブログ「是々非々にて候。」でこう指摘しています。

まして、上祐という人は偽証罪すなわち〝嘘つき〟で罪に問われた人です。
 肝心のことを追及せずに、どこまで本当のことを語っているといえるでしょうか。

上祐氏は地下鉄サリン事件後、偽証罪や有印私文書偽造・行使の罪で起訴され、懲役3年の実刑判決を受け服役しています。青沼氏が指摘しているのは、「ウソツキの罪で服役までした人間の言うことを鵜呑みにするとかバカじゃねえの」ということです。

懲役を済ませたということは法的に罪を償い終えたということです。しかし、罪を償い終えたかどうかとウソツキが治ったかどうかとは別の問題です。全く反省していない犯罪者だって、刑期を終えれば出所できます。

上祐氏は地下鉄サリン事件前からロシアに行っており事件に関与しなかった。だから上祐氏はテロの実行犯ではない。そう捉えている人も多いようですが、これも厳密に言えば誤解です。

上祐氏は、上九一色村にあった第7サティアンのサリンプラント建造にも関与。この件で起訴されなかったものの、テロの準備にしっかり関わっていました。

そして、テロの実行にも関わっています。1993年に2度にわたって起こった亀戸異臭事件です。当時亀戸にあったオウムの施設の屋上から生物兵器である炭疽菌を噴霧するというもので、この実行の責任者が上祐氏でした。実際には炭疽菌ができておらず、ただの「異臭事件」となり死傷者はなし。そのため事件として立件されませんでした。

このとき死者が出なかったのは単なる結果論で、上祐氏には人を殺す意思がありました。亀戸異臭事件よりも前に、オウム施設内で炭疽菌培養の装置から液体がこぼれてしまったのを見た上祐氏が、あわてて火炎放射器で「殺菌」したというエピソードを、当時を知る元信者が語ってます。上祐氏は、殺傷能力のある炭疽菌が完成しているとの認識を持った上で、亀戸の上空に炭疽菌を散布する計画のリーダーを務め実行したわけです。

人を殺そうとしたが実行前や途中で殺すのをやめた、というたぐいの殺人未遂ではありません。殺せると信じて最後まで実行しきったが、たまたま殺せなかったという未遂事件です。

上祐氏は「テロに失敗したテロリスト」であり、「殺そうとしたのに殺せなかったから殺人者にならなかっただけ」の人物です。

上祐氏の問題は過去の経歴だけではない

これまで書いてきたことは全て過去の話です。過去に嘘をついたから、過去にテロ準備の責任者だったから、過去にテロを実行したから。それだけで現在の上祐氏を危険だと断じるのは、さすがに無理があります。もちろん、そうではないから多くの人が未だに上祐氏を警戒し批判をしています。

上祐氏がいまもウソツキでありオウムを継承しているという事実を示すエピソードは様々ありますが、ここでは敢えて、ぼく自身が取材等で直接確認した部分だけを紹介します。それだけでもこんなに根拠がある、ということがわかっていただけるかと思います。

2013年に東京・新宿のロフトプラスワンというライブハウスで上祐氏の出版記念イベントがありました。経緯は忘れましたが、上祐氏に批判的なぼくがなぜか共演させてもらえることになりました。壇上で、いまだに宗教団体を続けている上祐氏に対して、ぼくはこういう発言をしました。

「ひかりの輪は解散した方がいい。あれだけの事件を起こした団体の幹部が残党を率いて新しい宗教だとか思想だとか言ってるのって、失礼かもしれないですが“どの面下げて”という感覚の人は多いと思う。上祐さんが残党を率いて団体を続けていると、そこに所属している人たちにとって、オウム事件は永久に終わらないのではないか。宗教や思想というものを基準に考える集団から離れて日常を送る努力に導く責任が、上祐さんにはある。なのに、その努力の跡があまり見えない」

「賠償が団体存続の理由にされてはいけないと思います。本当に償う気があるなら、賠償は宗教団体でなくてもできる。集団でなくてもできるだろうし、仮に集団であるにしても、宗教や思想を掲げる団体ではなく賠償するための団体でいい」

これに対する上祐氏の答えに興味がある方は、やや日刊カルト新聞「本紙主筆ら、元オウム・上祐史浩氏をいじる」をお読みください。

このとき上祐氏は「全ての人が師という考え方が好きで、このトークショーの中では私に批判的な藤倉さんが私の教師だと思います。全ての人が帰依の対象で教師」などと殊勝な発言もしていました。ところ後日Twitter上で、帰依の対象であり師であるはずのぼくのアカウントをブロックするという(笑)。

2015年には、師として上祐氏の誕生日を祝おうと、世田谷区にあるひかりの輪本部での上祐氏の誕生会に行きました。プレゼントを持参した人だけ、別室で上祐氏とサシでお話させていただける特典がもらえます。このプレゼントを巡る顛末はやや日刊カルト新聞「上祐さん、ファンからの誕生日プレゼントをヤフオクに出品」をご覧いただくとして、このとき、ぼくはひかりの輪本部内で面白いものを見つけました。

これは広隆寺の弥勒菩薩のポスターです。ひかりの輪が設立された比較的初期の頃、ひかりの輪は信者たちを動員して広隆寺の売店で1枚400円でこれを買いまくり、「10万円のお布施をした人へのプレゼント」という体裁で信者に手渡していました。要は400円で買って10万円で転売していたということです。

広隆寺側が異変を感じ取ってポスター販売をやめたことで、この転売ビジネスは終了したようですが、現在もこれがひかりの輪内で飾られている点には、また別の意味合いを見いだすことができます。

弥勒菩薩とはサンスクリット語でマイトレーヤ。上祐氏がかつて麻原から授かったホーリーネームです。

また「ひかりの輪」という団体名とマークは虹をモチーフにしており、上祐氏は「聖地巡り」と称して信者やシンパたちと旅行に行っては、そこで虹が見えると「吉兆」などと言ってブログやSNSに投稿するなど、「虹」の神聖さを強調します。もともとチベット仏教において特別視されることがある虹は、オウムでも、オウム時代の上祐氏自身も神聖視していました。

あまり深く考えずに、こういう要素をオウムと結びつけるのを見るだけだと「こじつけではないか」と感じる人も少なくないかもしれません。しかし考えてみてください。前述の通り、上祐氏率いるひかりの輪とは、上祐氏を麻原彰晃からの支持を受けて動いている正統後継者と捉えて集まってきたオウム真理教上祐派です。

弥勒菩薩だの虹だのというだけで我々がオウムを連想するだけならこじつけかもしれませんが、そうではありません。それらを神聖視し、そこに麻原の権威を感じながら活動してきたオウム信者たちに、オウム時代と共通する宗教的要素をアピールしているのが、ひかりの輪の構図です。ひかりの輪の実態が「脱麻原」ではなく「麻原隠し」とされるゆえんです。

麻原の名を出さずに麻原の時代からの要素を継承して麻原の時代からの信者をつなぎとめている団体が、「麻原信仰を捨てました」と言っている。しかもそのトップはウソツキの罪で服役した人間であり、人を殺す意図を持ってテロを実行した(けど結果的に殺せなかった)人間であり、いま現在もウソツキである。その点を踏まえてもなお、本当に彼らがオウムと決別した安全な団体だと言えるでしょうか。

前述の上祐氏の誕生会では、集まった信者やシンパが順番に自己紹介をする場面がありました。そこで挨拶に立った1人の男性信者は、「上祐さんからシャクティパットを受けることができてよかったです」と自己紹介していました。どうも旧教団時代(オウムあるいはアレフ)の話ではあるようですが、シャクティパットとはかつて麻原も行っていたオウム真理教におけるエネルギー注入の儀式です。上祐氏はひかりの輪設立後も信者にシャクティパットを行っていた時期がありました。そして誕生会におけるこの男性の発言は、ひかりの輪がいまだに、かつての教団でのシャクティパットを「良かった」ものと捉えることがよしとされる団体であることを示しています。

このように、ひかりの輪はオウム真理教の要素を、「麻原」の名を出さない形で確実に引き継いでいます。少なくとも、信者にそう思わせることで集団を維持しています。

昨年7月、麻原と12人の弟子たちの死刑が執行されました。これはぼくが直接取材したものではありませんが、死刑執行直後、週刊新潮が、事件として発覚していなかった殺人事件が90年代はじめに教団内であり、信者が殺害された現場に上祐氏が立ち会っていた事実をスクープしました。

死刑が執行される前に獄中から新実智光・元死刑囚が語った内容が発端となったもので、週刊新潮は死刑執行前から上祐氏に対して事実確認のため取材を試みていました。しかし上祐氏はこれに答えず、13人の死刑が執行され「死人に口なし」の状態になってから、事件に立ち会っていた事実を認め、自分は見ていただけだとする説明をし始めました。

言うまでもなく、この上祐氏の言い分を鵜呑みにするのは危険です。しかしこれがウソかどうか確かめるまでもなく、事件を反省し総括したかのような態度をとってきた上祐氏が、信者殺害という重大な事件についていままで隠していたことに違いはありません。

上祐氏は、ウソツキの罪で服役したことがあるというだけではなく、いま現在もウソツキです。

上祐氏はさして事件を反省してなどいない

ひかりの輪はオウム事件の被害者やその家族に対して謝罪を表明し賠償も行ってはいます。しかしそれがさして真剣なものではないことを示すのが、「ひかりの輪、サリン被害者追悼の日に旅行へ=温泉付き」という一件。霞ヶ関駅で追悼式典が行われる地下鉄サリン発生日の当日に集団で温泉旅行に行くという態度のどこに、被害者への謝罪や事件への反省があるのでしょうか。しかも3月20日に旅行に出かけるのは、これが初めてではありません。

このときの温泉旅行の行き先は福井方面。ぼくは東京から車で尾行して、旅行の様子を取材しました。実際には温泉には入らなかったようですが、地下鉄サリン事件発生日だった3月20日、福井県の永平寺で上祐氏御一行は参道で餅を歩き食いし、楽しいそうに記念撮影などをしていました。

2枚めの写真が白っぽく濁っているのは、この写真を撮影している最中の僕に対して、ひかりの輪のスタッフがカメラのレンズを手で遮って取材妨害をしてきたからです。その手が望遠レンズに写り込んだ結果、こういう写り具合になっています。

長くなるので省略しますが、ひかりの輪を取材していると、こうして取材妨害をされたり、「訴えるぞ」と脅されたり、取材手法について「ひかりの輪とは別の誰々が警察に申立を行った」などというウソを用いてひかりの輪が抗議してきたりといったことが、繰り返されています。こうした地道な努力によって批判的な報道や言論を萎縮させ、それと並行して、権威付けになりそうな取材やイベントの出演依頼は積極的に受ける。社会一般での上祐氏のイメージは、教団のこうしたアイドルか何かのようなイメージ戦略によって形作られています。地下鉄サリン事件を起こすまでのオウム真理教と全く同じです。

この温泉旅行は、ひかりの輪がしばしば実施している「聖地巡り」という団体旅行のひとつです。交通費・宿泊費を別として1人数万円の金を取るというもので、ひかりの輪の重要な資金源です。しかしひかりの輪が被害者に賠償している金額は、まいつきほぼ固定の20数万円。聖地巡りを開催するなどして収入が多かったはずの月でも、そうでない月でも一律です。

お金がからむ部分への批判については常々「被害者への賠償のため」という論理で自己弁護するのがひかりの輪の常套句ですが、実際の賠償はこの有様。被害者への賠償を団体存続や資金集めの口実にしているだけで、賠償のためのお金集めをしているわけではないことは明白です。

上祐氏はテロに関わっていない。麻原信仰を否定している。事件を反省している。賠償をしている。上祐氏やひかりの輪の宣伝活動によって形作られたこうした一般的メージは、全て間違いです。

少額とは言え賠償をし、口先だけとは言え反省して見せている分、アレフよりはマシに見えるかもしれません。でもよく考えてみてください。「アレフよりマシ」などという比較に、いったいどれほどポジティブな要素があるのでしょうか。

みなさん、「安倍首相は無差別テロをしていないからオウムよりマシだ。だから支持しよう」とか「共産党は人を殺したことがあるがサリンは撒いてないから安全だ、支持しよう」とか、そういう基準で物事を判断しますか? ひかりの輪はひかりの輪の実態に即して評価すべきであって、アレフよりマシかどうかという基準で捉えるべきではありません。

ひかりの輪の観察処分外し計画

公安調査庁は、アレフやひかりの輪を同じ「オウム真理教」と捉えるという方針を取り、ひかりの輪を依然として「上祐派」と位置づけています。こうした論理のもとで、ひかりの輪は現在、団体規制法に基づく観察処分の対象となっており、適宜、公安調査庁が立入検査を行っています。

ひかりの輪はこれを不当として民事訴訟を提起し、東京地裁がひかりの輪の主張を認め観察処分を取り消す判決を言い渡しましたが、国側が控訴しています。そのため判決は確定しておらず、いまだ係争中です。

「観察処分外し」は、「オウムと決別したかのように装う」ことと並んで、長らくひかりの輪にとっての大きな課題となってきました。

一時は、ひかりの輪は公安調査庁に自ら資料を提供するなどして、公安調査庁に対して融和路線を取ることで観察処分を外してもらえるのではないかと期待していたフシがあります。公安調査庁への協力をひかりの輪の副代表である広末晃敏氏が教団内で信者に通達したことから、ある脱会者はこれを「広末プロジェクト」と呼んでいます。

その脱会者自身、教団関係者から公安調査庁の協力者にならないかと誘われたこともあったそうです。実際に協力者になっていた信者もいたようで、公安調査庁からは人によってかなりの金額の謝礼が支払われていたといいます。そしてそのカネがお布施等の形で教団に還流されるという仕組み。ひかりの輪は、公安調査庁が監視対象であるテロ集団に間接的な資金援助をするという本末転倒な構図を作り上げてしまったのです。

ところが、この方法でも観察処分外しができるわけではないと悟ったのか、ひかりの輪は公安調査庁を批判し対立するようになります。観察処分を不当とする民事訴訟もその一環です。それまでは信者に公安調査庁への協力を指示していたひかりの輪は一転して、公安調査庁がカネや食事で信者を釣って情報を引き出そうとしていたとして非難し始め、協力した信者をスパイのように扱いはじめました。

ひかりの輪が公安調査庁の立入検査に備えて、教団内の資料を信者に預からせ自宅に保管させるという行為をしていたという証言も、脱会者から聞かれます。資料の内容等にもよるでしょうが、場合によっては「検査忌避」行為としてその信者が逮捕されかねません。

こうした信者たちがやっていることは悪いことであったり社会を欺く行為だったりしますが、教団の指示や方針に従ってやらされ、いざとなれば教団からハシゴを外されます。まさにカルトの問題そのものと言える構図で、教祖の指示に従って罪を犯し死刑にされた12人の死刑囚たちも、いまなお獄中で生きる無期懲役囚も、その犠牲者です。

またひかりの輪は観察処分外しの一環として、2011年に「外部監査委員会」を設置しました。実際には、シンパや事実上の信者によって構成される委員会でありながら、第三者による客観的判断であるかのように装って、ひかりの輪には観察処分にするほどの問題はないとする報告書を発表し公安審査委員会に提出するなどしています。

これに、あろうことか松本サリン事件の被害者である河野義行氏が協力。一時期、委員長を務め、観察処分の対象には当たらないとする報告書を作成しています。しかも河野氏自身がひかりの輪の聖地巡りに参加し、教団のウェブサイトで「あの著名な河野義行氏が参加されます」と宣伝に利用されました。

この聖地巡りに参加した河野氏のファンの女性は、それをきっかけにひかりの輪に入信。その後の聖地巡りで無免許のまま運転手を務めるなどして、2016年に道交法違反容疑で警察の摘発を受ける羽目になりました(やや日刊カルト新聞:ひかりの輪・聖地巡りで常習的に無免許運転か=警視庁が家宅捜索)。

現在のひかりの輪は、アレフに比べて遥かに弱小団体で、信者の高齢化も進み、大それた悪事をできる団体には見えません。しかしそれは、観察処分によって監視され、事実上、手足を縛られた状態にあることに加えて、社会融和路線という基本方針があるからです。外面をよくしておかなければならないという縛りがある上に、裏で露骨に麻原を信奉するなどしていたら、立入検査によってバレて、社会融和路線の欺瞞も見破られます。

事件をさして反省しておらずオウムや麻原とも完全に決別できていないウソツキの団体から観察処分という足かせが外れたらどうなるか。内情を国家から監視されずに済むのだから、いま以上に大胆に裏と表を使い分ける集団になることは目に見えています。

ひかりの輪とは、こうした危険をはらんだ団体であることを、私達は常に忘れないようにする必要があります。

上祐氏・ひかりの輪に加担してきた人々

かなり長くなりましたが、まだ続きます。

上祐氏やひかりの輪について詳しく知れば、たとえオウム事件を知らない世代であっても、その危うさは理解できるのではないかと思います。しかし、オウム事件を知るはずの世代の人々すら、上祐氏に騙されているのか商売に使えるとでも思っているのか、かなり安易に上祐氏やひかりの輪の宣伝に加担してきました。

たとえば、かつてはオウム問題を取材しその問題を追求していたはずのジャーナリストの有田芳生氏(現・参議院議員)は、2012年に上祐氏との共著で『オウム事件 17年目の告白』を発刊。前述の2013年ロフトプラスワンでのイベントは、この書籍の出版イベントでした。

このイベントには共著者である有田氏も出演していました。ぼくは有田氏と入れ違いで登壇し上祐氏に「どの面下げて」などと言い放ったわけですが、有田氏はオウムと北朝鮮の関係なぞなかったのではないかといった歴史談義に花を咲かせるだけ。現時点での上祐氏やひかりの輪について批判的な発言をすることはありませんでした。ことさらに擁護もしていませんでしたが、共著者として上祐氏の出版記念イベントの賑やかしとして利用された形です。

そのほか、テレビタレントの田原総一朗氏や元右翼活動家の鈴木邦男氏なども、ロフト系列のライブハウスやネットメディア、書籍などで上祐氏と対談し、宣伝に加担しています。

鈴木邦男氏は、2010年にネイキッドロフトで上祐氏と対談した際には「上祐くんは国の宝だ!」と言い放ち、田原総一朗氏は2013年にニコ生で上祐氏と対談し「オウム・麻原を全面的に批判するひかりの輪は宗教じゃないんですよ」と語っています。

この頃からひかりの輪は、設立時からの「宗教団体」という看板を表向き捨てて、逆に「宗教団体ではない」「思想哲学を学ぶ教室」などと自称し始めます。テレビ朝日までこれに乗っかって、ひかりの輪を宗教ではないかのように取り上げたこともありました。

実際のひかりの輪は、思想や文化を客観的に学ぶ教室ではなく、瞑想等々を実践するビリーバーの集団です。実際、前述の通り本部には弥勒菩薩の絵が飾られ、チベット仏教の仏画もあります。宗教団体ではないというふれこみは虚偽としか言いようがないのですが。

ロフトプラスワンの罪

上祐氏がこうして文化人的な装いで露出する流れに大きく貢献したのは、ここで繰り返し言及しているロフトプラスワンというライブハウスと系列店を経営する平野悠氏という人物です。

ロフトプラスワンと言えば、90年代以降のサブカルチャーの発信基地のような役割を持ってきた店で、ときに法律もモラルも知ったこっちゃねえ的なイベントや事件も繰り広げられてきた、素敵な場所です。ぼく自身、ロフトプラスワンにも系列店にもよく出演させてもらっています。

オウム真理教事件の背景として、面白ければ何でもありであるかのようなノリで宗教すらもコンテンツとして面白がる90年代サブカルの罪が語られることがあります。ぼく自身がそういう時代にサブカルに触れ、いまやっているやや日刊カルト新聞もそういう文化を受け継いでいる側面があります。

しかしロフトプラスワンと上祐氏の関係の根深さは、「コンテンツとして面白がる」などというレベルを遥かに超えています。

前述の鈴木邦男氏が「上祐くんは国の宝だ!」と言い放ったネイキッドロフトでのイベントは、〈平野悠の好奇心・何でも聞いてやろう「オウムって何?」〉です。平野氏自身が上祐氏を引っ張り出し、鈴木氏も含めた様々な人々と語り合わせたものでした。以降、上祐氏は鈴木氏とたびたびロフト系列店イベントを開催するようになり、鈴木氏を通じて人脈を広げていきました。

平野氏は決して、「面白ければ何でもあり」のような態度で上祐氏をコンテンツとして面白がっているわけではありません。彼は本気です。事実上のひかりの輪信者あるいはシンパと呼んでも差し支えないほど、真面目に上祐氏にぞっこんです。

ぼくは平野氏によくしてもらいお世話になっていて、直接話をすることもときどきあります。ぼくがロフトでのトークイベント中に上祐氏を批判しているところに平野氏が直々に乗り込んできて「そんなに悪口言うなよ!」と笑顔で論争をふっかけてきたこともあります。

でもそれは決して「ネタ」ではなく、平野氏は至って本気。イベントではなく2人で直接話していたとき、こんなやりとりもありました。

「藤倉は上祐のこと批判するけどさ、上祐はほんとにオーラがすごいんだよ!」

「でも上祐はウソツキですよ。オーラがすごいというなら、すごいオーラのウソツキですよ」

平野氏はひかりの輪の「聖地巡り」にも参加し、それをロフトの機関誌「ルーフトップ」でリポートしたりもしています。その文章は、こう締めくくられています。

この孤立無援の新しい目的を持った集団はどこに行くのか、長い目で見守ってゆこうと思った。

マイノリティであることは決して「正しさ」ではないのですが、多くの人から批判される存在を応援したくなってしまうという心理もあるのかもしれません。

こうしてロフト系列店ではしばしば上祐氏のイベントが開催されています。しかし上祐氏は話があまり上手ではありません。口が上手いとかディベートの達人などというイメージが先行している上祐氏ですが、実際の喋りは極めてつまらない。

そのせいか、上祐氏を中心とした単独イベントではなく、有名人や、日頃からロフト系列店でイベントを開催しているニポポ氏のような一定の集客を見込める人物とのコラボイベントが中心です。こうして多くの来場者を集め、イベント後に上祐氏と会話しようと近づいてくる人や、懇親会に参加する人などにひかりの輪のスタッフが声をかけ、緩やかに上祐氏の講話会などの教団イベントに勧誘するということが行われています。

いわば、上祐氏の「文化人ヅラ」の足場を作ったのが平野氏であり、ひかりの輪の草刈場になっているのがロフトプラスワン。それを支える出演者陣、という構図です。

ぼくは平野氏のことは好きですし、決して仲が悪いわけではありません。だからときおり個人的に会話することもあります。そんなとき、平野氏は「オレが上祐を文化人にしちまったのかもしれない。オレはもう上祐のイベントはやらない」などと言うこともあります。でも、もう遅い。平野氏が自分で上祐イベントを組まなくても、店の現場のスタッフが不定期に上祐イベントを組むようになってしまっています。

平野氏は本気で反省し責任を自覚しているなら、経営者としてロフト全店に上祐イベント禁止命令を出すべきです。あるいは、上祐氏に批判的な人間と上祐氏を壇上で戦わせるイベント以外はやらない、という方法でも構いません。案外その方が「コンテンツとして面白い」かもしれません。

AI美芸研の悪質さ

ロフトプラスワンのおかげで、上祐氏を文化人か知識人のように扱ったり、「こんなやばい人を敢えて呼んでみました」的なスリルや「社会から批判されている人が実はいいこと言う!」かのような逆張りコンテンツとして利用する風潮がすっかりできあがってしまいました。

AI美芸研も、その手合いにしか見えないのですが、悪質なことに、積極的にレスポンスを行って上祐氏を引っ張り出すことが正しいことであるかのようにアピールしています。その論法が、95年の地下鉄サリン事件以前にオウム真理教や教祖・麻原彰晃を持ち上げた知識人の論法と全く同じものだったりします。

それが、冒頭に紹介したAI美芸研の司会者・トモサカアキノリ(@ACINOLI)氏のこの発言。

「また企画についてですが、芸術もAI研究にみるような学問も本来、一定の反社会性がございます。 当会では、そもそもAI研究そのものが社会的に穏当ではないとの認識でおります。」

1989年、当時すでに批判を浴びていたオウム真理教に関して、宗教研究者の中沢新一氏が麻原と対談する記事が週刊SPA!(1989年12月06日号)に掲載されました。

「〝狂気〟がなければ宗教じゃない」

そう題された対談の中で、麻原と中沢氏が、こんなやりとりをしています。

麻原 「反社会性」をもった宗教とも言われています。でも反社会性と言われれば、たしかにそのとおりだと思いますね。オウム真理教は、もともと反社会的な宗教なのです。
中沢 あらゆる社会的なスタンダードを乗り越えていく生き方を追求することが宗教の生命ならば、たしかにあらゆる宗教は本来「反社会性」を内に秘めているのだ、とぼくも思います。むしろ、教団化した宗教の多くが、そのダイナミックな性格を失いつつあることのほうが危機的なのではないでしょうか。

すでに、サンデー毎日がオウム問題を追求するキャンペーンを行い、坂本堤弁護士や信者の家族たちが「オウム真理教被害者の会」を結成し、その坂本弁護士が「失踪」(後にオウムにより殺害、遺棄されていたことが確認された)した後に発行された雑誌に、これが掲載されています。

宗教上の理念としての反社会的要素と、社会に害をなす具体的行為の問題とは全く別です。当時、オウムの問題に警鐘を鳴らしていた人々が指摘していたのは、未成年者まで出家させ親にすら会わせない、科学的根拠がないものをあるかのように謳って高額で販売する等の、オウムによる具体的な反社会的行為です。

思想や理念として反社会性があっても、それだけであれば思想信条や信教の自由の範疇でしょう。しかし具体的な違法行為や人権侵害は、信教の自由の名のもとに正当化できるものではないし、ましてや思想の面に価値があれば不問にしてよいことになるなどというものでもありません。

「人を不幸にする自由はない」

上祐氏らが坂本弁護士の事務所に押しかけ「我々には信教の自由がある」と言い放った際に、坂本弁護士が言い返した言葉として伝えられている一言です。

しかし麻原はオウムの「反社会性」を理念上のものにすり替えて正当化し、中沢氏がそれに同調して見せることで、むしろオウムは反社会的だからこそ価値があるかのようなメッセージにしてしまっています。

前述のサブカルの罪の本当に恐ろしい部分は、この点にあります。サブカル的なおもしろコンテンツとして消費するなどというのはまだかわいいもので、本気でそこに価値や正義を見出し、思想上のものではなく具体的な行為としての反社会性に目を向けなくなったり正当化したりしてしまう。サブカルチャーというより、ガチンコカウンターカルチャー気取りの勘違い、と言ったほうがいいかもしれません。

中沢新一氏は飽くまでも一例で、当時は島田裕巳氏、山折哲雄氏などの宗教研究者たちがオウムを持ち上げました。この辺りの事実関係や問題点、地下鉄サリン事件以降にこれらの人々がどのような態度をとったのかについて、宗教社会学者の平野直子・塚田穂高両氏が『〈オウム真理教〉を検証する──そのウチとソトの境界線』(宗教情報リサーチセンター、井上順孝・編)の中で整理しています。今回のAI美芸研の問題を考える上でも必読書ではないかと思います。

@ACINOLIの「芸術もAI研究にみるような学問も本来、一定の反社会性がございます」「そもそもAI研究そのものが社会的に穏当ではないとの認識でおります」という論法は、かつてのオウムヨイショ知識人の論法そのものです。上祐氏やひかりの輪の実態や問題性、上祐氏をイベントに出演させることの社会的リスク。そういった具体的な行為や害悪を、理念上の反社会性についての議論にすり替えて開き直っています。しかもそれを、@ACINOLIの個人的意見ではなく「当会は」という主語で主張している点も見逃せません。

これがAI美芸研という集団の方針として垂れ流されているわけです。

AI美芸研の欺瞞

ロフトプラスワンの問題からも明らかなように、上祐氏を招いて人を集めるということは、集まった人々を、公安調査庁が観察処分の対象としているテロ組織に勧誘されるリスクにさらします。この点は、今回の件でAI美芸研を批判する人たちがまず挙げている問題点です。

一方で、今回のイベントは甘利俊一氏(理化学研究所栄誉研究員、東京大学名誉教授)という重鎮との対談でもあります。これが行われたという事実自体が、イベントに参加しない人たちに対しても上祐氏への権威付けになってしまうという問題があります。

上祐氏はテロリストなんかではない、ちゃんとした研究者も対談しているようなしっかりした人物なのだ、と。

AI美芸研 (@aibigeiken)はTwitter上で、この権威付けの問題を指摘した人に対して、こんな回答をしています。

AI美芸研(人工知能美学芸術研究会)‏@AIbigeiken1月3日
初めまして、AI美芸研の中ザワ、草刈です。ご発言の「カルト宗教であるところの上祐ら「ひかりの輪」」の箇所について、ふたつ申し上げます。
ひとつめ、これは全く研究会の話とは違うため残念ですが、「上祐氏はオウム時代と同質」との考えを持つ人が一定程度いらっしゃることは承知しつつも、

AI美芸研(人工知能美学芸術研究会) @AIbigeiken 1月3日
自明ではないと思います。たとえば東京地裁は昨年、ひかりの輪に対する公安調査庁の観察処分を取り消す判決をしています。勿論後者を絶対視しませんが、前者を自明とした論には乗れません。
ふたつめ、たとえば「殺人犯の絵画を見て感動してはいけない」とお考えでしょうか。

前述の通り、東京地裁の判決は出ましたが、現在は控訴審が行われている最中であり、判決は確定していません。その点を誤解させる書き方をしている点も問題がありますし、ここで散々書いてきたとおり、上祐氏やひかりの輪の問題は、観察処分という国の判断だけがよりどころではありません。人物や団体の実態に問題があります。AI美芸研はその点について無知であるばかりか、批判されてもなお知ろうという意思すら示さずにいます。

「殺人犯の絵画」のたとえ話については、もはや開いた口がふさがりません。今回のAI美芸研の企画は、上祐氏を展示してみんなで愛でたり評論したりしよう、というものなのでしょうか。上祐氏は何も語らず、額縁にでも入れられて壁から吊るされるのでしょうか。それはそれで見てみたい気もしますが。

AI美芸研は、Twitter上で批判に対してこんな回答もしています。

AI美芸研(人工知能美学芸術研究会)@AIbigeiken 1月3日
このたとえによって上祐氏をカラヴァッジオと同様に権威付けようとしているわけではまったくありませんし、同様に、甘利先生の御登壇によって、上祐氏を権威付けようとしているわけでもありません。そもそもすでに上祐氏は、ひかりの輪とはあまり関係ない会にも昨今は多数呼ばれて登壇されています。

ふつうであれば、「よそでもやってるから何だっての?」という話です。しかし、ひかりの輪に限って言えば、もう少し面倒な説明が必要です。

2015年にひかりの輪は、ある大学の宗教関連研究者に宛てて、「大学や研究者の皆様の御研究への御協力について」と題する案内を送っています。そこには、上祐氏やひかりの輪がそれまで研究に協力したと称する研究者の個人名や大学名などが、当事者に無断で掲載されていました。

外国人の宗教研究者3名の個人名のほか、日本国内の7つの大学の実名を列挙。研究者個人については教団行事視察時の記念写真まで掲載し、友好的な関係にあるかのようにアピール。その上で、こう締めくくり、連絡先を記載しています。

以上、御協力の実績を記させていただきました。
宗教関連学の先生方ならびに学生の皆さまの研究のために、少しでもお役に立てれば幸いに存じます。
※この資料についてのお問い合わせ、研究協力のお申し込み等は、以下までご連絡ください。

多くの大学や研究者の実名を利用して、さらなる研究協力の要請を受け付けるための宣伝をしています。ということは、これに引っかかってひかりの輪と接触した研究者や大学は、次の新たな協力要請につなげるための宣伝に使われる可能性が高いということになります。

AI美芸研のような「よそでもやっている」的な浅はかな人物や団体は、ひかりの輪にとっては格好のカモでしょう。「よそでもやっている」というノリで呼んでもらった実績を、「よそでもやっている」新たな実例として次の宣伝に利用する。そうなることは目に見えています。

ましてや、今回のようにアカデミズム風な装いのイベントであれば、ひかりの輪にとっての利用価値はなおのこと高いものになります。信者やシンパに向けた宣伝としても、新規信者獲得のための宣伝としても、権威付けの効果が大きいからです。

すでに書いてきたとおり、地下鉄サリン事件前のオウム真理教においても、アカデミズムを標榜するうかつな知識人たちが、オウムの宣伝や正当化アピールに利用されました。ひかりの輪においても、その手口は同様か、あるいはより巧妙になっています。

AI美芸研は、自らがそういう分野に足を踏み入れてしまったことへの危機感を全く抱いていないようです。AI美芸研はTwitter上で、批判に答える形でいくつかの対策を講じる姿勢を見せています。それがこれです。

AI美芸研(人工知能美学芸術研究会) @AIbigeiken 1月3日
さほど本意ではありませんが1/27に限り、18歳以下の方かどうかを会の開始前にチェックさせて頂き、いらした場合は個別にフォローするという対応を取ることを、主催側で検討します。
AI美芸研(人工知能美学芸術研究会) @AIbigeiken 1月3日
例えばオウム真理教事件と上祐氏の犯罪歴を含め観察する側の意見があることを明記した紙を配布し参加者に読む時間を与える、或いはご存知の通り研究会冒頭での主催者代表から小講演の中で、そこに言及する箇所を設ける、或いはその両方をする、等(具体的な詳細はこれから詰めますが)。
AI美芸研(人工知能美学芸術研究会) @AIbigeiken 1月3日
こうした手続きを経ることで、会の本題、すなわち、宗教と科学とAIの話を上祐氏から、甘利先生からは美を感じるのも数理をおこなっているところの脳であるというような話にきちんと入っていきたく存じます。

この程度では、イベントや懇親会で勧誘あるいは勧誘につながる下地作りを防ぐことはできません。また、上祐氏やひかりの輪への権威付けを避けることへの対応はゼロです。

批判の存在や内容をアナウンスするというのは、一見、公正な両論併記と受け止める人もいるかも知れませんが、そうでもありません。このようなイベントを実行する時点で、主催者が不適切なイベントとは考えていないという事実上のメッセージになります。これだけ自己正当化と上祐氏擁護の発言を関係者が繰り返した上でのことである以上、なおのことです。

そのような前提のフィールドで形式的に「両論併記」がなされたところで、批判が擁護と同等以上の力を持つことはありえません。批判の存在に配慮しましたよという、単なるアリバイ作りです。

オウム事件については「記憶の風化」とか「事件の教訓が活かされていない」といった言葉を耳にしたことがある人は多いと思います。ぼく自身も、ぼくの身辺でカルト問題に取り組む人々の間から、それに類する声を耳にします。地下鉄サリン事件ほどの大規模な事件に至るかどうかはともかく、このままでは同じ歴史が繰り返されると感じている人は少なくありません。

しかしAI美芸研関係者が、かつての中沢新一氏の言動をなぞったかのように全く同じ論法で自己正当化に走ったのを見て、さすがに驚きました。いくらなんでも、ここまで忠実に歴史が繰り返されるとは思っていませんでした。

オウム事件の教訓は非常に多岐にわたります。アカデミズムを標榜するうかつな知識人の存在やそれを垂れ流したメディアという、社会の側の問題も突きつけられたのがオウム真理教事件です。

今回の問題はもはや、AI美芸研が上祐氏を招聘したというだけの問題ではなくなりました。上祐氏ではなくAI美芸研自身が発信している主張も有害です。人々の問題意識や危機感を地下鉄サリン事件以前の状態に後退させかねないものです。

もともと、現在のひかりの輪を持ち上げる宗教学者の言動や行動が目に余るレベルになってきているタイミングでもありました。鎌田東二氏と大田俊寛氏です。AI美芸研の問題と直接関係なさそうなので詳細は省きますが、ぼくにとっては、ただでさえオウムの教訓が活かされず歴史が繰り返されようとしているという危惧をつのらせている中での、AI美芸研の登場でした。

AI美芸研という集団のやっていることが、芸術なのか学問なのか教育なのかはよくわかりません。いずれにせよ、それらの分野に関わる人々にこそ、この愚かな集団を放置しない意思表明と議論を期待したいところです。

もちろん、期待するだけではありません。ぼく自身、この先もこうして問題を指摘していこうと思います。


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