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911 アメリカ同時多発テロを振り返る (2001年当時の日記から) ー その 2

5日前の投稿に続き、2001年の 911 アメリカ同時多発テロを振り返ります。振り返る目的は追憶ではなく、問題の根源はいまだ何ら変わっておらず、いやその問題は悪化しているともいえ、かつ以降の世界情勢はあの出来事の延長上にあると考えるからです。

今回も、2001年の夏に本を買って数日間 html を独学した上で開設した、しかしその後は特に仕様を変えていない旧態依然とした自前のホームページに載せてある当時の日記(2001年9月16日付 および 9月23日付)を、ここに転載します。

なお、これもまた前回と同様ですが、ここに添えた写真は、以下の日記本文とは直接の関係はありません。ただ、この問題の根源を踏まえるならば、一定の関係性を持つものと言ってもよいだろうと考えています。

この写真は、1983年から1984年にかけてユーラシア大陸を中心に「貧乏旅行」した際、同年10月3日、エルサレムの旧市街、つまりイスラエルが1967年以来不当に占領している東エルサレムにおいて、イスラム教の聖地、岩のドーム(ただし祀られている岩自体はユダヤ教やキリスト教とも関わりを持つ)やユダヤ教における聖なる場所「嘆きの壁」の付近で撮ったもので、写真の右下で、占領地を我が物顔で闊歩するイスラエル兵たちを確認することができます。

同年4月26日に横浜港を発った私は、当時のソ連、ヨーロッパ諸国を旅し、ギリシアからトルコに移動して、同国に長居した後、シリアに陸路で入りました。そして、その後はヨルダンを経てパレスチナとイスラエルを旅し、パレスチナのガザ地区から陸路エジプトに入り、以降はトルコに戻り、さらに再びトルコ、続いてイラン、パキスタン、インド、タイ、韓国を旅して、1984年2月に帰国したのでした。

前回も書きましたが、もちろん、あのテロの実行犯にはパレスチナ人は一人として含まれていません。当時の私も、当初から、パレスチナ人が実行犯だとは考えていなかったように思います。ただ、パレスチナ問題を中心とする中東の歴史的な問題へのアメリカの関与に対する憎悪の念が、背景にあるのではないかと考えたものです。今も、その考え方の基本に変わりはありません。

2001年 9月16日(日)   再び、アメリカ同時多発テロについて

再び、アメリカ同時多発テロについて、やはり友人へのメールをそのまま掲載する。

アメリカによる報復は避けられないだろうが、相手が首謀者や支援国家に留まらないことも、アメリカは十分に認識しているはずだと思う。

しかし、こんな戦争は終結可能なのか。戦争によって問題を解決することは可能なのか。

21世紀の戦争という通り、20世紀の「近代の戦争」とは違う。国家間の戦争にはならないし、もともとアメリカを攻撃しているのは国家ではない。テロを正当化することは出来ないが、自爆テロという形態が出て来てしまっている以上、戦争でこれを抑えることは不可能ではないか。彼らは20世紀型の「近代の戦争」に勝利することなど、最初から目的にしていないのだ。

テロリストはテロリストとして生まれてくるわけではない(厳密に言えば、テロリストとして育てられるということは有り得る)。

テロを生む、継続的な憎悪の感情を生む、その背景となる絶望的な閉塞感のある彼らの世界を変えること、そのことに世界が手を差し延べること無しには、この「戦争」は終結しないのではないか。

彼らの世界が変わらないまま、憎悪の感情やテロの計画を察知し、外部の世界の倫理や物質的な力でテロを抑え込むことが不可能である以上、何か他に方法があるとは思えない。

日本は遠い。日本人は今も地理的な距離のままに「遠い」と思っている。しかし、実は、グローバリズムという言葉が世界に普及するずっと以前から、日本は世界の隅々にまで侵入している。99%経済の話だけどね。

しかし、経済が、ジャパン・マネーが一人歩きしているのではなくて、もちろん日本人が、そして日本製品が、世界中を駆け回っている。

俺みたいな仕事をしていて時々驚くのは、え?こんな国名知らなかったな、この国どこにあるんだっけ? え?こんな極小の島国にも日本企業の代理店があるわけ?・・・というようなことだ。

関心や経験、業務上の必要により、平均的な日本人よりは世界の地理や国名を知っているはずの俺も、未だ驚く時がある。つまり、そういう国々に、日本企業の子会社や合弁企業や代理店や得意先があり、日本人が商売している。

日本人駐在員が数多くいる例も少なくない。世界の隅々まで・・・。

結局、我々日本人の生活水準や経済の条件は、そうした企業活動に直接携わっていない多くの日本人が好むと好まざるに関わらず、世界の隅々まで侵入する「日本」を大前提として出来上がっている。

しかし、世界との結びつきがあまりに「経済」だけに限定されている為、我々は日本と世界との距離を測るのに必要な想像力を持てない。政治や文化には顔があるが、金には顔がない。少なくとも見えにくい。結局、世界の中に日本の顔は見えない。

日本から見ても世界は遠いが、世界から見ても日本は遠い。金や高品質の製品は身近に感じられるが、それ以外の世界に対する意識、意思が感じられない。悪意も見えないが、思想も感じられない。メッセージが感じられない。経済の力だけは圧倒的にある。おそらくこれは不気味だ。経済力もない「弱小国」であれば、不気味さなど全く感じられないと思うが。

日本は50年余り前に原爆を落とされた。10万人が死んだと言われる東京大空襲もあった。他の地方都市でも、民間人が無差別に殺戮される大空襲があった。

確かに先日のアメリカ同時多発テロは大惨事であり悲劇であって、本来は比較することに意義はないのだが、あれが大惨事だとすれば(に間違いないのだが)、一つの都市をほとんど壊滅させた(そこで一般市民が無差別に殺戮された)原爆や、逃げ惑う多くの市民を何時間もかけて殺戮し焼き殺した大空襲は、一体なんと形容したらいいのか。

しかし、日本人のほとんどに、アメリカに対する憎悪は残らなかった。少なくとも継続しなかった。

アラブ諸国もしくはイスラム圏とアメリカとの間にそんな関係がありうるか? それはやはり無いだろう。

日本には基本的に憎悪を継続させるような「大義」はなかった。逆に言えば、戦前「大義」とされていた「大東亜共栄圏」もその程度だった、ということだ。そもそも、そんなものは日本の伝統や歴史に根ざしたものではなく、明治維新後の日本が国家戦略として急造したものに過ぎない。

アラブ諸国もしくはイスラム圏には、本来はどこから見ても正当であるはずの「大義」と、彼らにとっての悠久の「大義」がある。前者は不当に占領されたパレスチナをパレスチナの民に取り戻すこと、後者は聖地エルサレムの奪回である。

しかし、もちろん彼らも今は、一部の原理主義者を除けば、50年前に欧米世界の支援によって突然建国された(それ以前からユダヤ人によるシオニズム運動はあったが、これに拍車をかけたのも欧米世界でのユダヤ人に対する偏見と迫害だろう)イスラエルを消し去るということを求めてはいない。既に、並存し、共存する道しかないと考えている。

エルサレムについて言えば、現在は全土をイスラエルが支配しているが、そこが3大世界宗教の聖地であることからすれば、現在の深刻な紛争を解決に導くには、特定の国に帰属させることをやめ、国連による管轄下に置くというような方策しかないのではないか。

しかし、いずれにしても、欧米を中心とする世界は、イスラエルに有効な圧力をかけようとしない。ヨーロッパには、アラブ側の声に耳を傾ける国々もあるが、とりわけアメリカはイスラエル寄りの姿勢を改めようとせず、ブッシュ政権になって反ってその姿勢を強めていた。

ただ、日本については、もう一つ思うことがある。戦後の日本というより、現代の日本といった方がいいだろうか。

今回のニューヨークの惨状を見て、原因は全く違うものとは言え、その悲惨さから、6年前の阪神大震災を想起することは、それほど突飛なことではないと思う。犠牲者数も大体同じ程度だ。しかし、それにしては、今回の大惨事に対して、政府レベルも含め、日本社会の感情の動きが感じられない。体温が感じられない。

一人一人の日本人は、おそらくは多くが、テレビで映像を見て、少なくとも短時間でも悲痛な心持ちになったのではないかと思う。しかし、日本社会には何かまとまった意思や悲嘆や体温が感じられない。

日本は遠い。少なくとも日本人の意識は世界に遠い。しかし、それ以上の何かがあるような気がする。国家にも、社会にも、何かはっきりしないが、決定的な何かが欠けてはいないか・・・

時間の軸に対しても、空間の軸に対しても、もしかしたら日本は、おそろしく狭い範囲の意識下で存在しているのではないか・・・

だから日本は「平和」でいられる・・・。いや、絶対にそれは違うんだ。

本当は日本は世界の隅々までリンクしている。しかし、経済以外は、全てアメリカを中心とする世界に委ねてきた。日本が「国際政治」や「外交」、「軍事」の要らない平和で紛争の無い世界を構築したのでは全く無く、ただ日本はそれらを世界に委ねてきただけだ。こんなことずっと続けられるのだろうか。いつまでも世界がそれを許容するだろうか。

もちろん、日本が近代的な「普通の国」になればそれでいい、などとは思わない。日本には、日本の、しかし今とは違う存在の仕方があっていい。しかし、戦後の日本は、経済以外の世界について、あまりに何も考えないで過ごしてきた。日本「人」は、経済以外の世界について、あまりに何も考えないで過ごしてきた、というべきかもしれない。

しかし何故だろう・・・。アメリカの庇護があったから? 

だとしても、そうすると日本人の多くは、庇護されたらもう何も考えなくなってしまうってこと?

しかし、いつまでも続くとは思えない。

いや、経済さえ回復すれば、世界は日本に、世界の金庫番として利用出来ることだけを期待するのかもしれない。

だけど世界の期待や思惑ではなく、日本もしくは日本人自身の意思はどこに向かうのか。 

というか、今の日本には、とにかく意思が感じられない。

「聖域なき構造改革」で日本は変わる?

いや、少なくとも今のところ、日本を変えるような改革には思えない。相変わらず、ほんの数年の過去における責任だって、我らが改革者はまともに振り返ろうとしていないように思える。

駄目だ・・・思考がますます散漫になってきた・・・

2001年 9月23日(日)   アメリカ同時多発テロ、その後の雑感

ブッシュのアメリカは、これは「戦争」だと言っている。自分は国際法に詳しいわけでは全くないが、市民に対する無差別攻撃は、戦時下においても決して許されるものではないだろう。国際法上もそうなのだろうと思うが、万一どこかに明記されていなくても、軍事力というものを国際紛争の解決手段として未だに保持し続ける近代国家の、少なくとも暗黙のルールでもあるだろう。その意味で、南京虐殺を始めとする、先の世界大戦での日本軍の数々の蛮行と共に、アメリカ軍の東京大空襲、広島・長崎への原爆投下は、最大級の無差別殺戮と言っていいと思う(ナチスのホロコーストは言わずもがな・・・但しあれが戦時下の行為としての範疇に入るのかは疑問だが)。

今回のアメリカ同時多発テロを「戦争」の行為とするなら、宣戦布告なき先制攻撃という点では(しかしテロは全てそうだ)、「パール・ハーバー」に共通点を見出すことも出来るだろう(但し後者についてはアメリカは実は事前に察知していたという説もあるが、日本側に奇襲の意図があったのは確かである)。

結局、あのテロは、テロであるがゆえに奇襲であり、なおかつ市民を狙った無差別テロでもあったということで、その規模に関わらず史上最大級の蛮行であったと言っていいのだろう。その残忍さで言えば、近年なら、他でもない日本で起きた、オウムのサリン事件が同列に並べられるものではないかと思う。

ただし、我々が忘れてはならないのは、市民に対する無差別な殺戮ならば、アメリカや日本もその近現代史において加害者の側に立ったことがあるということだ。

そして、それが過去のことだと言うなら、パレスチナでは、近年も、そして現在も、市民(民衆と言っても人民といってもいいが)が殺されつづけているということだ。

無差別テロがどんな理由でも正当化出来ない行為であり、徹底的に排除せねばならない行為であるのは当然だが、そのようなテロを生み出す土壌がどこにあるのかを考え、根源的な原因について正確な認識を持つことは意味のあることであり、それどころか絶対的に必要なことであるはずだと思う。

自爆テロをするのは極く一部の人間だが、自爆テロはしない、もしくは自爆テロに反対する一方で、しかし今回のアメリカ同時多発テロを全否定はしない、中には快哉を叫ぶ人間が、中東もしくはイスラム世界にいることは軽視出来ない事実だ。

あんな残虐な行為を全否定出来ないのは誤っている、ということは多くの人間が言えることだ。

だが、そんな絶望的な憎悪の感情が彼らにあるのは何故なのか、その理由を理解しようとし、そこから真の平和を作り出す方策を実行しなければ、結局は、この問題は解決の方向に向かわない。

それなしにただ軍事的な報復を行なうのでは、結果は憎しみの新たな連鎖を生み、憎悪の感情を増幅させるだけだろう。

アフガニスタンへの攻撃は、テロリストにもタリバーンにも属さない多くの民衆を殺戮することになるだろう。また、アメリカの言う容疑者がおそらく首謀者だろうと想像はするが、しかし、アメリカに協力を約束するどの国もが、アメリカに「証拠」の提示を求めないのは極めて象徴的だ。多くの国が既に報復ありきの思考回路に入っている。

新聞報道によれば、地雷除去の運動でノーベル平和賞を受賞したジョディ・ウィリアムズは、18日に、対人地雷全面禁止条約の締結国会議が開かれているニカラグアで、「(同時多発テロで)アメリカ市民が殺されたからといって他の国民を殺してもいいという考えは、テロリストと同じ水準だ」と発言した。

アメリカ国内でも、軍事報復に反対するデモが行なわれ始めた。アメリカの世論調査会社ギャラップが17日から19日の 3日間に世界31ヶ国で行なった調査の結果によれば、アメリカの武力行使の積極支持はイスラエルで77%、アメリカで54%、しかしヨーロッパや南米では 8割から 9割が慎重派であり、容疑者の身柄引き渡しと裁判を優先すべきとの考え方が大勢を占めたとのことである。

日本では、例えば社民党のおたかさんが、「ことが起きたからと言って、慌しく物事を決める(「変える」だったかな?)のは、いかがなものか」と発言したそうだ。しかし、これはこれで、はいそうですか、とは言えない。じゃぁ、この人達は、「ことが起き」ていない時に何か考えていたのか? 

はっきり言って何も考えていない。「ことが起き」ていない時に何か言い出せば大騒ぎになるが、しかしこの人達もそれだけで、特に平時に何か考えているわけではない。いつまでも無条件で平和が続くものと決めつけているかのようだ。というか、日本全体がそうなんだ。経済以外の全てを、アメリカを中心とする世界に委ねてきた為に、「ことが起きた」場合の用意など何も出来ていない。

ギャラップが上述した調査でその調査対象に日本を入れなかったのは、偶然ではないだろう。斯く言う自分も日本人・・・。もちろん他人事のようには語れないのだけれど。

http://dailyrock.konjiki.jp/nikki.html#tero2

http://dailyrock.konjiki.jp/nikki2.html#tero3

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