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911 アメリカ同時多発テロを振り返る (2001年当時の日記から) ー その 3

2週間前の2019年 911 に note に新規登録し、2001年 911 に関連する文章 2本、パレスチナ・イスラエル問題に絡む「ボブ・ディランの不都合な真実」についての文章 2本を投稿してきました。

今回、タイトルの上に載せた写真は、今から遡ること36年前、1983年 9月21日にヨルダンの首都アンマンにあるパレスチナ難民キャンプを訪ね、あるパレスチナ人一家と一緒に撮った写真です。以下に転載する 18年前の日記の内容に直接関連するものではありませんが、しかし大きなテーマとしては繫がっているものでもある、と考えています。

中央左が当時 23歳の私、その右の方は、ヨルダンに入国する前に旅したシリア(1983年 4月26日に日本を発ってから半年近く経っていました)の首都ダマスカスで会った日本人写真家。大変いい方で、パレスチナのエルサレムまで旅を共にし、私が最後の国、韓国までの 約 10カ月の旅を終えて帰国した後に 5年ほど付き合いがありましたが、残念ながらその後、互いに音信不通になってしまいました。暁星高校に通っていた時にバンドをやっていて、そのバンドには何と後に世界的なギタリストとなる渡辺香津美氏がいたということでしたから、1960年 911 生まれの私よりも少なくとも 5歳は歳上の方だろうと思います。

さて、911 に関しても「ボブ・ディランの不都合な真実」に関しても、どちらも続編を予定していて、今日は後者にしようかと当初考えていましたが、あと 1週間足らずで 9月が終わろうとしている今、過去 2回続けたボブ・ディランの件はいったん休み、再び 911 アメリカ同時多発テロに関わる文章(もっとも今回もとりあえず当時の自分の日記からの転載が中心ですが)を投稿しようと思い直しました。

どんなテーマにしろ、いずれ出来るだけ近いうちに 2019年の今の自分の文章を中心にしていこうと思いますが、今日はまた、例によって(笑)当時、2001年夏に html を独学して開設して以降「仕様」をそのままにしている旧態依然の自前のホームページ上に残している、同年 9月の日記からやや短めの 4本を以下に転載することにします。

まずは 2001年 9月23日の日記ですが、以下に転載する文章の中で、私は、「ワイクレフ・ジーンという(私は知らない)ミュージシャン」と書いています。大の音楽ファンを自称し当時既に Lauryn Hill のファンにもなっていながら、当時の私は彼のことを知りませんでした。ワイクレフ・ジーンとはすなわち、彼女が在籍したグループ Fugees のメンバーだった Wyclef Jean, ワイクリフ・ジョンのことです。

なお、チャリティと聞いて一律に否定的な感想を語る人も世の中にはいますが、私自身、「偽善」の匂いがプンプンするような例は論外であり嫌いですが、私はもともとチャリティ一般を一概に否定する者ではありません。

2001年 9月23日(日)   アメリカ同時多発テロ、犠牲者追悼チャリティ番組を見て

アメリカ同時多発テロの犠牲者への追悼と(遺族や被災者と被災地復興のための)寄付を目的に、アメリカの ABC、CBS、NBC、FOX の 4大テレビネットワークが共同で制作した番組が、日本時間では昨日の朝10時から 2時間余にわたって生中継された。私は生では最後の一部以外見逃してしまい、日本時間の夜放送された再放送を録画して観たのだが、以下に簡単に感想を記しておきたい。

ミュージシャンではブルース・スプリングスティーン、スティービー・ワンダー、U2、トム・ペティ、ニール・ヤング、ビリー・ジョエル、ボン・ジョヴィ、シェリル・クロウ、スティング、ポール・サイモン、などなど・・・。俳優ではトム・ハンクス、トム・クルーズ、ジャック・ニコルスン、アンディ・ガルシア、アル・パチーノ、ウーピー・ゴールドバーグ、キャメロン・ディアス、ジュリア・ロバーツ、ロバート・デ・ニーロ、などなど・・・。これだけの短期のうちに 4大ネットが協力し、しかもあれだけ多くの大物スターを集めたのは驚きだ。アメリカが惨劇の犠牲者を追悼し、今も救援活動を続ける人々と共にありたいという一つの意思にまとまっている証であり、協力するスターの側にも確かな志しがあってのことだろう。途中、モスレムの学校での子供たちのインタヴューがあり、「元のノーマルな世界、一緒に笑いながら過ごせる平和な世界に戻ってほしい」という少女の声などが紹介され、モスレムである元ボクシング・世界ヘビー級チャンピオンのムハマド・アリのスピーチもあったのは、良い企画だったと思う。

まともなリハの余裕など無かったはずにも関わらず、ミュージシャンのパフォーマンスはことごとく見事なもので、「妙に」センチメンタルに過ぎる表情も見せず、完璧な演奏をしてみせたのは反って感動的だった。印象に残るパフォーマンスばかりだったが、とりわけスティービー・ワンダーの LOVE'S IN NEED OF LOVE TODAY と、ポール・サイモンの BRIDGE OVER TROUBLED WATER は、もともとの楽曲の素晴らしさと共に、これらの歌の詩の意味を知りながら、そのパフォーマンスがあの悲劇の被災者と復興のために捧げられたことを考えれば、心を大きく動かさずにはいられない。

ここでもう一つ特筆しておきたいのは、ニール・ヤングの IMAGINE だ。言わずと知れた、20年前に凶弾に倒れたジョン・レノンの作。今、少なくともブッシュ政権下で報復の武力行使に向かって戦意高揚ムードが高まりつつある中で、同時多発テロの後、一時は放送で流すことが控えられた代表的な曲である IMAGINE をニール・ヤングが敢えて、明らかに「敢えて」選曲したことには、彼の明白なメッセージがある。 IMAGINE のメッセージ を知らずに彼が選曲したことなど、有り得ないことだ。

最後にやや蛇足とも思えるが、その他に感じたことのうちの一点だけを記したい。ワイクレフ・ジーンという(私は知らない ... note転載に当たっての注:これはワイクリフ・ジョンのこと。筆者は当時、既にファンだったローリン・ヒルがかつてフージーズというグループにいたことは知っていたが、そのリーダーであったワイクリフ・ジョンについては全く知らなかった)ミュージシャンが、ボブ・マーレイの REDEMPTION SONG を演ったのだが、そのパフォーマンスはかなり良かったにも関わらず、このミュージシャンに星条旗を身にまとったかに見えるジャケットを着て歌われてしまったこの曲は、ここでは何か場違いな印象が残った。本来ボブ・マーレイは全ての人民の解放のために作ったかもしれない(?) REDEMPTION SONG だが、この曲が星条旗にまとわれて、最後には「アメリカ、アメリカ」と叫びつつ歌われてしまうと、いや、 REDEMPTION SONG は、アメリカを中心とする世界から見放され続けているパレスチナの民のためにこそ歌われるべきだと言いたくなってしまう・・・。歌を奪い合うなんて悲しいことだけど。

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以下では、翌 9月24日の日記 2本と、今日からちょうど 18年前に当たる 2001年 9月25日の日記を1本。

9月24日付の 1本目は、今年 2019年、今から 9日前の 9月16日に note に投稿した「911 アメリカ同時多発テロを振り返る (2001年当時の日記から) ー その 2」の中で転載した、2001年 9月23日の日記「アメリカ同時多発テロ、その後の雑感」の最後であらためて、「ギャラップが上述した調査でその調査対象に日本を入れなかったのは、偶然ではないだろう」として触れている、その調査に関しての日記です。

2001年 9月24日(月)   ギャラップの調査について

昨日付、「犠牲者追悼チャリティ番組を見て」の上の「アメリカ同時多発テロ、その後の雑感 」でギャラップの調査結果を取り上げた。昨日の朝日の朝刊の報道から引用したものだが、今日の NHK の夜 7時のニュースで、やはりギャラップの調査について報道しており、内容が若干異なっているので、念の為記録しておきたい。

それによれば、調査は、14日から17日にかけてギャラップ・インターナショナルが、世界35ヶ国で各国500人から1,000人規模を対象に行なったもの。犯人がいると思われる国を武力攻撃することに賛成したものが過半数を超えた国はアメリカ、イスラエル、インドの 3ヶ国。その他の32ヶ国では、まずは犯人もしくは容疑者を国外に退去させ、裁判にかけることを優先すべきと答えたものが過半数を超えたとのことである。なお、この NHK の報道でも、この35ヶ国には日本は含まれていないとしている。

新たな武力行使が憎しみの連鎖や増幅を結果し、新たなテロの土壌となる懸念は否定出来ない。というか、その可能性は大きいのではないか。テロの土壌となる憎しみを解消していく努力が必要不可欠であり、これがなければこの問題は解決の方向に向かわないことは明らかだが、しかし、同時にテロとの力での対決姿勢を示さないわけにはいかない段階に来ているのも確かだろう。何といっても、生物化学兵器の類によるテロの可能性が現実の問題になってきてしまっている今日では・・・。ただし、それでも、憎しみの原因を解消していくような解決策なしでは、問題が永久に解決しないことは間違いない。

2001年 9月24日(月)   アフガン報道

この数日間で急に、アフガンの現状についての報道が多く見られるようになってきた。テレビでは、映像を交えて、民衆の生活の実態やタリバーンの統治について詳しく報道し始めている。

内戦やとりわけ干ばつによって飢餓の問題が深刻になっており、テロ後の緊迫した状況の為に国際的な援助も受けにくくなって、医療も満足に受けられない。主としてイラン側に多くの難民が流出している。こんな状況の国に武力行使が行なわれていいのか・・・。

一方で、タリバーン政権下では公開処刑が行なわれたり、女性の就職が禁止されたり、女性が外出する時は顔を含めてほとんど全身を隠さなければならず、しかも必ず男性を伴わなければならない、学校にも行ってはいけない、といった極端な政策が実施されている。タリバーンが反論の為に取材陣に紹介した女学校では、一番最初に教える言葉が「ジハード(聖戦)」だった。部族や宗派の違いも差別・抑圧の理由になってしまっている。オサマ・ビン・ラディンをかくまっているということ以前に、こんな前近代的抑圧を行なっている政権をこのままにしていいのか・・・。

報道はさまざまなことを考えさせる。こんなに問題だらけのアフガンが、これまで大して報道されなかったのは何故だろう? 世界はアフガニスタンという国にほとんど注目して来なかった。今回のアメリカ同時多発テロ、その後の、アメリカや同盟国によるアフガニスタンへの武力行使の問題によって、ここまで世界から注視され、詳しく報道されるようになったのは何とも皮肉だ。アフガニスタンの深刻な状況は、近年どころか、ずっと以前から続いていることなのだろうから。

2001年 9月25日(火)   アフガン難民(24日付日記一部修正)

24日付日記(「アフガン報道」)に「主としてイラン側に多くの難民が」なんて書いたけど、この表現はおそらく誤り。もちろんパキスタン側にも大勢の難民が流出しており(とりわけ国境の町ペシャワール)、たぶん歴史的にも長く、人口としてもこっちの方が大きい。ただし現在は両国とも国境警備を厳しく若しくは国境封鎖しており、難民としていずれかに逃れるのは困難になっているのではないかと思う。

私が18年前に旅したパキスタンには既にアフガン難民が存在したし、結局(当時の)ソ連の侵攻以来、20年以上にわたって、アフガンの歴史は戦争と内戦と難民の歴史でもある。それも大国や諸外国の思惑に揺さぶられながら・・・。

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冒頭でも書いた通り、いずれ近いうちに 2019年の今の自分の文章を中心にしていこうと思っているところですが、今日のところはまたまた 18年前の日記転載を終えたところで終わります。

次回の投稿はまた数日後、「ボブ・ディランの不都合な真実」に戻ってその続編、あるいは場合によっては一度ガラッと趣向を変えて、ポール・サイモンの歌の歌詞の和訳を投稿しようかなとも考えています。

なお、以下は、上に載せたホームページ上の日記 4本の URL です。

http://dailyrock.konjiki.jp/nikki2.html#tsuitou

http://dailyrock.konjiki.jp/nikki2.html#seron

http://dailyrock.konjiki.jp/nikki2.html#afgan

http://dailyrock.konjiki.jp/nikki2.html#refugee

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