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「かわいそうな私」は最大の安全地帯

タイトルは、昨日佐渡島さんへのインタビューで聞いた言葉だ。子育てに関する内容のインタビューだったのだけれど、子育て以外の全てのことにも通ずるし、自身にも思い当たる節があり過ぎて胸が痛くなったので書き留めておきたい。

私は新卒で就職したときに、人間関係でのトラブルを経験し、以来新しい人間関係をつくることに臆病になっている。一見社交的だし、コミュニケーション能力が低いわけではないので、ライトな人間関係には苦労しない。中間子ということもあって、人や場の「空気」は機敏に察知するほうだ。

けれど、どうしても深い関係性を築くことをためらってしまう。新たな「かわいそうな私」をつくらないために、「かわいそうな私」の殻に閉じこもっているんじゃないかと、ハッとした。

傷つきたくないあまり、「遊ぼう」「話そう」などと自分から人を誘うこともほとんどしたことがない。誘われたら嬉しくて喜ぶのだけれど、断られたら凹むために、自分からは言えない。「人を誘って断られちゃったかわいそうな私」で物語る以前に、「かわいそうな私」を回避するために誘いもしない。なんたる閉じっぷりだ…。中二病とはまさにだ。

私が感じている思いを、打ち明けたら引いてしまうんじゃないか、立ち去ってしまうんじゃないかと思って本音を出しづらい。新しい人間関係では、いつも笑って相手の話を聞く、ときどき自虐ネタを言う、以上はなかなか踏み込めない。われながら軽薄な奴だと思うんだけれど、こうした前置きもすべて「かわいそうな私」ストーリーじゃないかと卒倒しそうな思いだ。33歳3児の母にまでなって、こじらせてしまっている…

けれども一方で、同じような思いを抱いている人も多いんじゃないかとも感じるのだ。「かわいそうな私、悪い社会」で語るストーリーは共感を呼びやすい。人は誰だって共感が欲しい。「大変だったね」と言ってもらいたい。「大変じゃないように工夫して楽しむんです!」と常々言ってのけられるほど、強くはない。

以前、「居場所」をテーマにしたイベントでの対談で、臨床心理士の東畑開人さんが、「他責にしてしまうのも人の本能としてある。佐渡島さんは強い。マッチョ型(笑)」と仰っていたのがすぐに頭に浮かんだ。

「健康な精神は健康な肉体に宿る」といわれるけれど、「かわいそうな私」から脱するためには心身ともに健康であることが大前提だ。心や身体が参っているときに、「かわいそうな私と思ってはいけない!」と思わないほうがいいと思う。「かわいそうな私」は痛みを和らげる手段でもあるのだから。

私はこじらせてしまってはいるけれど、幸いにも今は健康で、だからこそ「かわいそうな私に閉じこもってる場合じゃないっ(汗)」と苦笑いしながら思えるし、こうして書ける。

だけれど、もし今これをお読みになってくれた方の中で参っていて「かわいそうな私」に思いあたる節がある方がいたとしたら、人には誰しもそうした本能があるし、そんな時期があるし、今は「かわいそうな私という安全地帯」に閉じこもっていいんじゃないかと伝えたい。

「そこから脱せるのは心がマッチョな人だけ!」と分断してしまうつもりも毛頭ない。私だってそこから脱して物語れる人になりたいからこそ、自分に突き刺さったんだと思う。でも、いきなり脱しようとするのは荒療法かもしれない。

ではどうしたらいいのか? という問いへの私なりの答えは、「今、かわいそうな私が出てきちゃってるなぁ!」と気づくことではないかなと思っている。


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このnoteを書こうと思ったのは、佐渡島さんへのインタビューはもちろんのこと、敬愛するとっちーとのやりとりがきっかけです。彼女は私にライティングスキルを教えてくれた人でもあると同時に、心を開かせてくれる人でもあり、とっちーとのやりとりをすると俄然創作意欲が湧くのです。本当に不思議な力を持った素敵な人…。ライティングにイラスト、音声と様々な魅力溢れる発信をしているので、ぜひぜひチェックしてみてください!(好きのおすそ分け💗)


書けども書けども満足いく文章とは程遠く、凹みそうになりますが、お読みいただけたことが何よりも嬉しいです(;;)