学校創っちゃった物語③-気骨ある漢学者の学舎の二松学舎大学

 明治時代というのは、西洋の文物をいかに吸収し咀嚼していくかの時代であった。そのために、様々な学校も設立された。外国語系の私塾など後に大学になったところも多い。

だが、そんな時代に、西洋文化のよさは認めつつも、やはり日本人は国漢の学問を学ぶべきだ、と声高に叫んだ気骨ある学者がいた。今回取り上げた二松学舎を創設した三島中州である。

あの高名な山田方谷に学んだ彼は、その後に江戸に出て、西郷隆盛も著作を愛読したという陽明学者の佐藤一斎にも師事。漢学者としては最高峰の教育を受けた。その後、政府からの要請を受け出仕し地方裁判所の判事を務めた。だが、その政府の財政問題もあり解職となった。

このあたり、何か当時の明治政府の身勝手さを感じる。多分、発足当初こそ高い教養を持つ人材が不足していたために旧体制に居た人材も雇ったが。最先端の西洋学問を学んだ者たちが育つと、財政難をいいことにいっせいに解雇したのだ。夏目漱石の義父などもそうで。おかげで、頼られた漱石は金の苦労が重なりストレスがたまった。後に彼の死因となった胃潰瘍になったのも、そのストレスが原因ではなかったか。

話は戻る。だが、この解職がきっかけとなり、冒頭書いたような自身の日頃の信念を体現すべく1877年に設立したのが二松学舎である。二松とは、不変の節操と堅貞を表す二本の松が庭にあったからだ。なんか、由来が気骨の漢学者らしく素晴らしい。

設立後は順調に発展した。あの慶應義塾と肩を並べるほど学生も集めた。そのなかには、夏目漱石もいた。また、漢学塾は他にもあったが、西洋化のなかで次々なくなるなかで二松学舎は残った。やはり、三島が行う教育の質の高さだろう。

あと、時代が進むと残存者利益もあったのではないか。というのは、当時の海軍兵学校や司法省学校といった武官、文官のエリート養成校に入るには、漢文が必須の試験科目となったからで。それを学べる数少ない学校ということで、予備校的な形で活用する需要も多くあったと思われる。

いずれにしても、二松学舎は創立者の三島中州はじめ、渋沢栄一、犬養毅、金子堅太郎、福田赳夫など、そうそうたる顔触れが関わってきた。今では、やはり創立以来の国文科は有名で、国語科教師養成には定評がある。

だが、これほどの歴史や人材さらには、九段下の靖国神社近くという立地に恵まれているのに、なんか今の評価はどうだろうか。物足りない。本来なら、それこそ慶應義塾と肩を並べてもいいはずだ。残念だ。

思うに、やはり明治からの国際化という波が西洋陣営中心に波及し、現在に至る中でいまひとつ存在感を発揮できなかったのだろう。同校も近年では国際関係の学部も設けて頑張ってはいるが。。

そこで、ここからは勝手な提案だ。国際関係の学部もいいが、改めて得意分野に特化し伸ばすのは、どうだろうか。さらに、これからシニアが増えるという人口動態の状況をにらんでみる。ズバリ、年齢問わずに入校生を募集する陽明学の専門学校の開校だ。学祖の三島師は佐藤一斎大先生に学んだ陽明学者だ。改めて原点に返るのである。

現在は一定の価値観などすぐに崩壊する時代だ。そんな不安定な中でも、いやだからこそ人は確固たる指針のようなものを持ちたい。陽明学などは、ぴったりではないか。

少なくとも、そんな学校ができたら私は必ず入る。体系的な講座でもいい。期待したい。

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