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自分史とFIFAワールドカップ / 1990年 第14回イタリア大会

2002年7月28日に他のサイトへ掲載した原稿を加筆修正しました。==================================

1987年2月から、パリの或る日系企業で働くことが急に決まった。

ヨーロッパでの生活は1975年・秋からスペインのサラマンカで始まり、フランスはパリへ引っ越し、そこでの大学生活を終えて、エールフランスの子会社で働き、そこでリストラに見舞われた後、或る日系企業への再就職へと続いた。つまり私は日本を離れてから、少しづつ日本人と日本人社会に近づいていった / 戻っていったことになる。

しかし、そこで再会した日本人たちに妙な違和感を感じることになった。

バブル景気に突入し、“ジャパン・アズ・ナンバーワン” だと思い込んでいた日本人は金使いが荒く、妙に高慢な人間に豹変していた。

1989年11月10日にベルリンの壁が突然崩れたように、異様なバブル景気はやがてあっけなく崩れさるだろうと私は思っていたが、天狗になっていた人々はそれが永劫に続くものだと思っていたらしい。

そんな“金持ち日本”は今回もワールドカップに参加出来なかった。

あまり金持ちではないフランスも今回は残念ながら参加出来なかった。

ミッシェル・プラティニが監督として率いるフランスは名ストライカー、ジャン=ピエール・パパンやエリック・カントナを擁しながらも予選リーグで敗退してしまう。サッカーファンにとって自国代表が参加していないワールドカップは楽しみも半減、盛り上がらないものだろう。

そんな訳で1990年に開催された第14回イタリア大会、通称ノヴェンタ(90の意味)に対してフランス人はそれほど熱狂しなかった。

この大会の注目株はなんといってもオランダだった。2年前の欧州選手権を制したオランダは、マルコ・ファンバステン、ルート・フリット、フランク・ライカールトと、ACミラン所属のスーパートリオを擁していた。

だがオランダはフリットがケガ上がりなのに加えて、エース・ストライカーのファンバステンがピリッとせず、1次リーグではエジプト戦、イングランド戦に引き分け、何とかアイルランドを1 - 0で下した。ACミラン所属のスーパートリオが大暴れしてくれる日は何時だろうか・・・。 私は大いに楽しみにしていた。

一方、ローター・マテウスを中心に構成された西ドイツは新鋭FWユルゲン・クリンスマンとベテランのルディ・フェラーが活躍し、安定した実力を発揮していた。それにオジサン面のアンドレアス・ブレーメという曲者まで揃っていた。

さて、オランダと西ドイツがどこまで勝ち進むか・・・。

しかしそんな私の気持ちをまったく理解していないサッカーの神様は両チームを決勝トーナメント1回戦で戦わせることに決めた。

試合開始10分ほどで、この試合の方向を決定づける事件が起こった。

ドリブルで抜け出そうとしたフェラーにライカールトがスライディングタックルを放ち、これでライカールトにイエローカードが1枚。このプレー後にフェラーがライカールトに詰め寄りながら話しかけたところで、今度はフェラーにイエローカードが1枚。

このまま二人がおとなしくしていれば事件は起こらなかった。

しかしその直後、フェラーがオランダGKと絡み、倒れているところにライカールトが現れ、フェラーに何やら抗議する。フェラーもこれに応戦しながら立ちあがり、険悪な雰囲気になったところで審判が両者に示したのがレッドカードだった。そして二人が退場する時、ライカールトはフェラーに唾を吐きかけた。理由はフェラーがライカールトに人種差別的な発言をしたからとのことだ。スリナム出身の黒人選手はそんな差別的な連中とも戦わねばならないようだ。

結局オランダはライカールトという攻守の要を欠き、西ドイツの組織的な守備を突破することが出来ず、1 - 2で破れ去る。ライカールトがもう少し我慢強かったら優勝したのはオランダだったかもしれない。

決勝に勝ち残ったのはPK戦でイングランドを下した西ドイツと、同じくPK戦でイタリアを下したアルゼンチン。決勝では終了間際にブレーメがPKを決めて、西ドイツが3度目の栄冠を獲得する。

それから約3ヶ月後の10月3日午前零時、戦後45年間の東西分断を経て、ドイツは念願の統一を実現した。前年11月にベルリンの壁が崩れてから1年足らずでの統一だった。次回から西ドイツはワールドカップに参加しない。参加するのは “ドイツ” である。

時代は確かに急速に大きく変化していた。私もその時点では2年後にパリを去り、長期間留守にしていた日本に帰国することになるとは全く予想すらしていなかった。

第14回イタリア大会
1990年6月8日~7月8日

PK戦で決まる試合が多かった大会だけに一人のGKにスポットが当たった。

アルゼンチンのセルヒオ・ゴイコチェアは負傷した正GKに代わりに晴れの舞台に出場する機会を得た。決勝トーナメント1回戦のブラジル戦で決定的な守りを見せ、さらに準々決勝のユーゴスラビア戦、準決勝のイタリア戦と2試合連続のPK戦でもすばらしい守備を見せた。しかし決勝では西ドイツのブレーメのPKを防ぐことは出来なかった。

当時38歳の老雄ロジェ・ミラが率いるカメルーンはアフリカ勢初のベスト8進出。

金髪のアフロ・ヘアーというド派手な風貌の名MF、カルロス・バルデラマ(コロンビア)が初めてワールドカップに登場したのもこの大会だ。

“トト” の愛称持つサルバトーレ・スキラッチがまさかの6ゴールで得点王に輝く。

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