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自分史とFIFAワールドカップ / 2002年 第17回韓国・日本大会

2009年11月28日に他のサイトへ掲載した原稿を加筆修正しました。==================================

2002年3月、息子は幼稚園を卒園し、4月に小学校へ入学する。

我が社の営業部には久しぶりに新卒採用の男子が配属され、仕事だけではなく、酒の飲み方も含めて、何故か私が教育係として “花の新卒” 君の面倒をみることになる。

そして私は、ある大手外食産業会社の広告を受注するため、手始めにその関連子会社が運営する飲食店チェーンの広告制作などを新たに担当することになった。

そんな訳で、2002年の春は卒園式、入学式、新人君のお世話、業務の引継ぎ等で本当にバタバタしていた。

さて、私が担当することになった飲食店チェーンの広告制作などの業務だが、これが実に難儀だった。

先方の窓口は代表取締役専務のS営業部長だったが、超独裁的な方で、スケジュールの変更、土壇場の発注などは日常茶飯事。毎日毎日意見が変わる。

ある時は伊丹空港まで出向き、乗り継ぎ待ちのS営業部長と空港の待合室で広告原稿を最終確認し、その後に印刷会社の校正室へ直行し、訂正部分を指示し、なんとか納品を間に合わせた。

GW開けの5月上旬から進めていた広告物の納品時期が、S営業部長の半ば我儘で、土壇場で数日繰り上がり、納品場所も急に変更となった。そしてそれらの一部を6月18日の夕刻までに埼玉県・春日部市へ、私が大阪から直接届ける羽目に陥った。

あまりにも急な予定変更なので、S営業部長にスケジュールがかなり厳しい事を伝え、宅配便を手配しても、制作物の納品は最速でも6月19日・午前中になる旨を報告する。

あまりにも理不尽なスケジュール変更にもかかわらず、横暴な態度をとり、厳しい言葉を私に浴びせ続けるるS営業部長に対して、

「わかりました! 私が6月18日の夕刻までにお届けいたします!」

売り言葉に買い言葉だった。

その時は6月18日が何を意味しているかは、頭にはなかった。

その後で、ふと思い出し、実に困った事になった・・・ アカン、もう啖呵を切ってしまった後や・・・。

その日は韓国・日本大会の決勝トーナメント第1回戦、日本対トルコ戦の日だ。大阪から春日部まで日帰りなら、絶対に試合を見逃してしまう・・・。

楽しみにしていた決勝トーナメント第1回戦、日本対トルコ戦の当日、重たい印刷物を担ぎ、“人間宅配便” と化した私は大阪から春日部へと向かった。

何とか無事に納品を終えてヘトヘトに疲れ、春日部から上野駅まで戻ったところで、駅内に設置されていた大型ビジョンで日本対トルコ戦の結果を知ってしまった。

前半に取られた1点を取り返せず、日本はトルコに0 - 1で敗れ、日本代表のワールドカップは終った。そして私のワールドカップも最悪に近い形で部分的に終わった。

フィリップ・トルシエが指揮した日本代表はなかなか善戦したと思う。

自国開催で予選が免除されたり、ホームアドバンテージがあったとしても、対ベルギー戦に引き分け、対ロシア戦、対チュニジア戦に勝ち、グループリーグを一位突破したことは快挙と言えるだろう。

個人的には激しいマークでカードギリギリのタックルやディフェンスを連発した、真っ赤なモヒカン男 “レッドルースター” 削り屋・戸田和幸を日本代表のMVPに推したい。

初戦の対ベルギー戦と次の対ロシア戦で1点づつゴールを決めた稲本潤一や開催直前の練習試合で鼻骨骨折し、本戦ではフェイスガードを付けながらプレーした “バットマン” 宮本恒靖の活躍は見事だったが次点としておこう。

しかし我がご贔屓のフランスとポルトガルは揃ってグループリーグで姿を消す大波乱。そしてオランダは欧州予選で敗退し、大会には参加していなかった。

前回のフランス大会で優勝を決めたフランスは1分2負でグループリーグ最下位という眼も当てられない惨憺たる結果に終わる。暑さに対応できなかった調整ミスもあると思うが、大黒柱のジネディーヌ・ジダンが大会直前の韓国代表との親善試合で負傷し、なんとか出場出来たのが最後の対デンマーク戦だけというのが痛かった。

ポルトガルは対韓国戦でのカード多発により、後半はわずか9人で戦う羽目に陥り、結果勝ちきれず、グループリーグ3位で姿を消す。これは実に後味の悪い試合だった。ルイス・フィーゴ、マヌエル・ルイ・コスタやジョアン・ピントという “黄金世代” を揃えたポルトガルも調整ミスが響いたようだ。

この大会では、ポルトガルに対するカード多発も含み、韓国に有利な判定(誤審?)が連発され、大きな問題になった。

フランチェスコ・トッティのシミュレーション判定による退場(ラウンド16:韓国対イタリア戦の延長前半)、フェルナンド・モリエンテスのゴールをファールとした判定(準々決勝:韓国対スペイン戦の後半)、ホアキン・サンチェスのセンタリングがラインを割ったという判定(同じく準々決勝:韓国対スペイン戦の延長前半)。

決勝に勝ち進んだのは徐々にチームのコンディションを上げていったドイツとブラジルだった。

そして優勝したのは前回のフランス大会で準優勝に終わったブラジル。

ブラジルの絶対的エース、ロナウドは前回のフランス大会では決勝戦前日に原因不明の発作に襲われ、出場が危ぶまれた。しかし何とか出場する事は出来たが満足なプレーからは程遠く、結局ブラジルはフランスに3 - 0で敗れた。

4年前の借りを返さんばかりに韓国・日本大会の決勝戦でロナウドは後半に大暴れ。2ゴールを決めてブラジルに勝利をもたらす。ドイツの名GKオリバー・カーンでも波に乗った時のロナウドからゴールを守りきることは出来なかった。

ブラジルとロナウドのリベンジで韓国・日本大会は幕を閉じた。

第17回韓国・日本大会
2002年5月31日~6月30日

初めてアジアにで開催されたワールドカップ。そして開催国は日本と韓国による2国共同開催という形が初めて採用された。

また日本と韓国の気候、梅雨、が考慮されて従来の開催日より約10日~2週間程度早く開催された。このような日程のためか、ヨーロッパの長い過酷なシーズンを終えた選手たちは十分な休息が取れず、調整ミスで優勝候補と目されていた強豪国が次々と姿を消していった。

特にフランスは1ゴールも奪えず、1勝も出来ずに大会を去っていった。ティエリ・アンリ(プレミアリーグ)、ダビド・トレゼゲ(セリエA)、ジブリル・シセ(リーグ・アン)と3ヶ国の得点王をFWに揃えながら無得点に終わった。

我がご贔屓のオランダは大の飛行機嫌いで知られるエースのデニス・ベルカンプが代表から引退したためか、まさかの予選落ちで大会に出場せず。残念。もう一度オランダ対ブラジル戦が見たかった。

また直情的熱血漢、アイルランド代表のロイ・キーンがアイルランド・サッカー協会とのトラプルで、キャンプ地のサイパンからワールドカップに参加しないまま帰国を命じられたのも残念。

初出場の若造(失礼!)、ミロスラフ・クローゼ(ドイツ)は初戦の対サウジアラビア戦でハットトリック、続く対アイルランド戦、対カメルーン戦でも1ゴールを決めて、グループリーグの3試合だけで5ゴールを荒稼ぎ。クローゼが得点王に輝くだろうと誰もが思っていたが、決勝トーナメントに突入してからは失速し、無得点に終わる。

得点王には8ゴールを決めた貫禄のロナウド(ブラジル)が輝く。

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