作画崩壊の形式的な分析にむけたノート

0 はじめに
インターネット・コミュニティで作画崩壊にかんする論争がおこなわれているのを耳目にしたことがある読者はすくなくないだろう(註1)。ところが、その論争はつねに(すくなくとも筆者が観測するかぎりでは)、なんらかの合意を達成することなく雲散霧消する。どうしてか。それは具体的な個別的作画が作画崩壊であるかどうかという議論はおこなわれているにもかかわらず、「作画崩壊」という分類概念の定義がそもそもあきらかではないからだ。それどころか、「作画崩壊」が分類概念として定式化可能であるかどうかの議論すらおこなわれていないのが現況といえよう。本稿の目的は、ある作画が作画崩壊であるかどうかをあきらかにすることではない。本稿がめざすのは、「作画崩壊」概念の実相を描きだすことである。そのためにまずは、作画崩壊をめぐる言説を簡単に整理する(第1節)。その結果、作画崩壊を分類概念として定式化することは困難であることがあきらかになる。次いで、第1節の議論をふまえて分類概念のかわりに、ヴァルター・ベンヤミン の「理念」として作画崩壊をとらえなおしてゆく(第2節、第3節)。

1 作画崩壊をめぐる言説の整理
まずは作画崩壊ということばが、どのような意味で運用されているのかを大雑把に整理しよう。作画崩壊をめぐる論争はおもに、以下のような構図をとる。ある視聴者が作画Aを作画崩壊であると主張し、違う視聴者が作画崩壊ではないと反論する。そこで争点となるのはおおむね、以下の二点だ。

①「崩れ」が意図的か/無意図的か
②「崩れ」が部分の集合としての作品=「物語」に貢献しているか/貢献していないか(註2)

アニメーションではしばしば、キャラクターの感情やスピード感などを強調するために、意図的に作画を「崩す」表現が導入される。そこで①では、作画Aの「崩れ」が意図的に計画されたものなのか、そうではなく制作工程上の失敗によって意図せず引きおこされた事態なのかが争点となる。したがって、①を命題化すると以下のようになる。「作画Aは作画崩壊である」は、無意図的であれば真/意図的であれば偽となる。

アニメーションでは「崩した」作画表現が、意図して導入されることがある。どうしてか。それはキャラクターの感情やスピード感などを強調するうえで、「崩した」作画が効果的な事例があるからだ。ひるがえって、そのような事例では「物語」の水準から、感情やスピード感の強調が要請されているということになる。よって②では、「物語」に貢献しているかどうかで、「作画崩壊」の外延かどうかの判断がおこなわれる。したがって、②を命題化すると以下のようになる。「作画Aが作画崩壊である」は、「物語」に貢献していなければ真/貢献していれば偽となる。

もっとも、①と②を完全に切りわけて考えることは困難であろう。それというのも、視聴者からは「崩れ」が意図的に計画されたものかどうか、実証的に検討することは困難だからだ(註1)。したがって、作画Aの「崩れ」が、「物語」に貢献していれば意図的に計画されたものと推測されるし、反対に貢献していなければ無意図的と推測される。また、作画Aが技術的に高度な試みをしている場合、技術的に高度な作画が無意図的におこなわれたとは考えづらいため、作画Aの「崩れ」は意図的に計画されたものと推測されるし、意図的に計画されたものであれば「物語」になんらか貢献(することを目的と)していると推測される。したがって、作画Aは技術的に高度であることのみを根拠に、自動的に「作画崩壊」あつかいをまぬがれることはないが、作画Aが技術的に高度であることを意識する視聴者にとっては事実上、作画Aは「作画崩壊」の外側に配置される。他方で、作画Aは「作画崩壊」の外延と措定する立場では、意図的/無意図的を問わず、作画Aは「物語」に貢献していないという実感のもとに判断がくだされる。「崩れ」が意図的に計画されたものであったとしても、それは制作者の自己満足であって「物語」に貢献していないと判断されるわけだ。そもそも、いずれの立場においても「物語」に貢献している/貢献していないという判断は、各自の主観のもとにくだされており、反対の立場にたいして実証的に主張されてはいない。

以上のように作画崩壊をめぐる議論では、複数の基準が混交していたり、そもそも定義があいまいだったりする。それゆえに、なかなか合意形成にいたれない。しかし、いずれの立場においても議論の前提として(自覚的/無自覚的を問わず)合意されている事柄もある。それは以下の三点だ。

①作画Aは「崩れて」いる
②「作画崩壊」の外延かどうかは「物語」への貢献いかんによって判断される
③「作画崩壊」は稚拙な作画を内包する

作画崩壊にかんする論争では、基調デザインから大なり小なり逸脱しているという意味で作画Aは「崩れて」いる、という視点を措定している(①)。また、その「崩れ」が「物語」に貢献しているか否かによって、作画Aが「作画崩壊」の外延かどうか判断される(②)。したがって、「作画崩壊」に包含される作画は、「物語」に貢献していない作画ということになり、作画Aは作画崩壊=作画Aは「物語」に貢献していない=作画Aは稚拙な作画という換喩が合意されている(③)。したがって、「作画Aは作画崩壊である」という主張は事実上、「作画Aは部分の集合としての作品=「物語」の魅力を損なっている」という主張ひいては、「作画Aは稚拙な作画である」という価値判断と理解できる。ゆえに、作画Aをすぐれた作画と考える者は「作画Aは作画崩壊ではない」というしかたで反論をおこなうし、その根拠として、作画Aが「物語」の魅力に貢献していることを主張する。これらがしめすのは「作画崩壊」ということばの運用にかんして、分類化と価値判断という違った水準の議論が混同されているということだ。その原因はおそらく、「作画崩壊」ということばの出自が、特定の作画を揶揄する目的で運用されたことすなわち、分類すると同時に価値判断をくだすためにあったことにもとめられるだろう。

しかし、「作画崩壊」に含まれるか否かを識別する基準が主観的であいまいとなれば、「作画崩壊」は分類概念とはもはやいえまい。なぜならば、分類概念が境界線を引くことでその内包と外延をあきらかにするものである以上、そもそも境界線が引けないとなれば、分類概念として成立しないからである。では、「作画崩壊」は偽りの概念としてもはや消滅を待つばかりなのか。そうではない。たしかに、「作画崩壊」を確定記述の集合という意味での分類概念として定式化することは困難だ。しかし、違ったしかたで「作画崩壊」の実相を素描することはできる。それはベンヤミン が「星座」の比喩で語った「理念」としてである。以下に引用するのはベンヤミン が「悲哀劇」について記述した文章だ。本稿のアプローチとは、引用文中の「悲哀劇」を「作画崩壊」に置き換えて考えてみようというものだ。

もし悲哀劇が概念であれば、一連の美学上の分類概念に問題なく組み入れられるだろう。しかし理念は、分類の領域に対しこれとは異なった関係にある。理念は、分類部門を規定することはないし、また、分類の体系のなかでそれぞれの概念段階の基礎をなしている一般性、つまり平均という一般性を含むことはない。(註3)

議論を先どりすると、作画崩壊とはある特異な視聴経験の布置と考えられる。

2 作画崩壊の「理念」にむけて
「理念」として作画崩壊を検討するためにまずは、ベンヤミン のいう「理念」がどのような性格のものか簡単に確認しておくべきだろう。ベンヤミン は「理念」について以下のように説明する。

むしろ理念は、現象の客観的な潜在的配置であり、現象の客観的解釈なのである。理念は、現象を併合して自分のなかに含むことはないし、機能のなかへ消えうせることもなければ、現象の法則のなかへも、また「仮説」のなかへも消えうせることはない。(註4)

以上の引用文からも、ベンヤミン が語る「理念」が、確定記述の集合としての分類概念とは異なることがわかる。「理念」は諸現象を共通の属性によって分別するわけではないのだ。だとすると「理念」と「現象」はいったい、どのような関係をとりむすぶのか。そこで召喚されるのが「星座」の比喩である。

理念の意味は、一つの比喩で描き出すことができるかもしれない。理念と現象の関係は、星座と星の関係に等しい。この比喩は第一に、理念とは、事象の概念でもなければ事象の法則でもない、ということを意味している。〔…〕理念とは永遠の星座なのである。そして現象は、各要素がそのような星座のなかの点である星として捉えられることによって、分割されると同時に救出される。しかも、概念の任務によって現象から解離された要素は、極端なものがもっとも精確に明確な姿を現している。理念とは、一回かぎりの極端なもの同士が織りなす関連の形成体だと言い換えてよい。(註5)

ベンヤミン は理念と現象、普遍と個別との関係を、星座と星の関係にたとえているのだ。星座は星々が集まってかたちづくられているわけだが、そこでは星々の配置こそが問題であって、個別の星同士に共通した属性が認められるかどうかは問題にならない。また、星座は星の単なる集合にはとどまらず、それ独自の様相をみせる。その様相は、みるひとによってさまざまに形象化され、人間はそのかたちに応じて、ある星座をかに座と呼んだり、別の星座をオリオン座と呼んだりする。ただし、ベンヤミンは「理念」について、人間の認識の対象ではないと述べいることに注意されたい(註6)。それもそのはずである。星座は命名されることによって、そのようなかたちをとるわけではない。かに座はかに座と命名される以前から、「かに座のかたち」をしてそこにあった。むしろ因果関係としては、星々がはじめから「かに座のかたち」を形成していたからこそ、かに座と命名されたわけである。つまり「理念」とは、命名=概念化されることによって成立する概念ではなくむしろ、命名という所作の契機となる「現象の客観的な潜在的配置」なのだ。とはいえ、星座がなんらかの認識可能な形象をとるように「作画崩壊」にかんしても、その特異な視聴経験の布置を認識する契機となる形象が、観測できるのではないだろうか。その形象を本稿ではさしあたって、「崩壊の外傷」と呼ぶことにしよう。

3 崩壊の外傷
作画崩壊についてともすると、なにが描かれているのか=意味内容がわからない作画と理解するむきもあるかもしれない。しかし、それは誤りである。むしろ作画崩壊においては、図像が指示する意味内容を、視聴者がはっきりとイメージできる必要がある。「崩壊」とは崩壊以前から崩壊以後への状態の変化を指す。そうである以上、「崩壊」のためには崩壊以前の状態があらかじめ条件づけられている。作画崩壊においては、視聴者が図像からイメージする形象こそが、崩壊以前の状態に該当するわけである。そのイメージとじっさいの画像のあいだに落差=亀裂が生じる。その亀裂こそ、本稿で「崩壊の外傷」と呼ぶものだ。

たとえば、抽象アニメーション/モーション・グラフィックスは「作画崩壊」あつかいされない。それはどうしてか。抽象アニメーション/モーション・グラフィックスはそもそも、意味内容を読みとることが困難である。だから視聴者は、そこになにが描かれているのか、はっきりとはイメージすることができない。それゆえに、イメージと画像のあいだに落差=亀裂が生じないわけである。また、似たようなことは水や炎などのエフェクト・アニメーションにも指摘できよう。

現実の自然現象を描いているという意味では、エフェクト・アニメーションの指示する意味内容は明確だ。ところが、水や炎などの不定形な物質の形象をはっきりとイメージするとなると、途端に五里霧中になる。形象をはっきりとイメージできないのだから、イメージと画像のあいだに落差=亀裂は生じない。だから、エフェクト・アニメーションは「作画崩壊」あつかいをまぬがれるのである。じっさい、エフェクト・アニメーションの巧拙が議論されることはあっても、それが「作画崩壊」かどうか議論されることは稀だ。

さて、「崩壊」が状態の変化を指す概念である以上、崩壊以前の状態が条件づけられていることは、すでに確認したとおりだ。しかし、ここで注意をうながしたいのは、作画崩壊にかんしては崩壊以前の状態が実在しないということだ。むしろ、視聴者から「作画崩壊」と名指しされることによって、パッケージ版で修正が施され事後的に崩壊以前が用意される逆転すらおこっている。作画崩壊においては、その契機となる「崩壊の外傷」によって傷つけられる対象ーー欠如していない状態ーーというのは、視聴者の想像上のものにすぎない。この「あるはずのものがない」という経験は、ある精神分析用語をおもいださせる。それは「フェティシズム」だ。

「フェティシズム」の原理は、男子が母親にペニスが存在しないことを知覚したにもかかわらず、その知覚の事実を否認(「[母親にペニスがないことは]わかってるよ、でも……」)して、ペニスの代替物を欲望するというものだ。したがって作画崩壊は、「フェティシズム」の特殊な局面と考えられる。「フェティシズム」においては、男子が母親のペニスの不在を否認しなければならないのは、去勢不安にたいする防衛措置と説明される。では、作画崩壊において抑圧される不安の正体はなにか。それはアニメーションの世界が「つくりもの」であるという事実だ(註7)。もちろん、視聴者の多くは、アニメーションの世界が「つくりもの」であることを十分に理解しているだろう。しかし同時に、生命を宿した存在としても知覚している。この知覚の二重性こそが、アニメーション(とりわけキャラクター・アニメーション)の基本原理にほかならない。しかし「崩壊の外傷」は、そうした知覚の二重性を退け、アニメーションの世界が「つくりもの」にすぎないことを身も蓋もなく意識化させる(註8)。そうした外傷的な経験の布置こそが、<作画崩壊>の実相なのである(註9)。

4 まとめ/補遺
ここまでの議論をまとめよう。第1節では、<作画崩壊>を分類概念として定式化することが困難であることをあきらかにした。それをふまえて第2節と第3節では、ベンヤミン の「理念」として作画崩壊を検討した。その結果、<作画崩壊>とはイメージと画像のあいだに落差が生じる外傷的な経験(「崩壊の外傷」)、その布置であることがわかった。ある種の視聴者はどうして、作画崩壊に強烈な拒否反応をしめすのか。それは作画崩壊が、アニメーションの「つくりもの」としての属性を身も蓋もなく意識化させるからだ。

ここまでの議論をふまえると、過去の「作画崩壊」にかんする論争について、いままでとは違った整理が可能になる。過去の論争はじつのところ、<作画崩壊>であることを前提としたうえで、その巧拙が議論されているという整理だ。<作画崩壊>は「現象の客観的な潜在的配置」であるが、「作画崩壊」という命名行為は主体的におこなわれている。かに座と命名した人物にたいして、「カニではなくイヌにみえる」と主張したところで、その人物にとってはカニのかたちにみえているという事実を変更することはできない。もっとも<作画崩壊>は、そのなかに巧拙の境界線をあらかじめ含んではいない。したがって、作画崩壊であることがすなわち、稚拙な作画であるというのは自明ではない。作画の巧拙にかんしては、<作画崩壊>であるかどうかとは別の議論を設ける必要がある。

ところで、ここでもうひとつの疑問が生じる。稚拙な作画崩壊ーー制作工程上の失敗によって「崩れ」が生じた、「物語」になんら積極的な貢献をしない作画ーーには、なんら芸術的な達成を認めることができないのだろうか。そうではないだろう。じっさい、そうした作画崩壊のなかには、インターネット・ミームとして広く共有されている事例が確認できる。それにたいしてはもちろん、「ネタ」として消費されているにすぎないという反論が想定される。そのような反論にたいしては、以下の問いで応答したい。「しかり、ネタとして消費されているにすぎない。では、そのネタはどうして、ひとびとをこれほどまでに惹きつけるのか」と。

フロイトは自己破壊的行為の原因のひとつに、人間が根源的にもつ生命発生以前の原初へ回帰しようとする欲動をあげている(註10)。それは人間的な意味での「死」とは異なり、むしろ非生物へむかう志向なのだが、それは人間には達成不可能な欲動であるがゆえに、「死」のメタファーのもとに理解されるわけである。このことから推測できるのは、アニメーションのキャラクター(それは十分に生命のかわりとして機能している)が「つくりもの」にすぎないと身も蓋もなく露顕する外傷的な瞬間を、人間はじつのところ本能的に欲動しているのではないかということだ。もっとも、フロイトの「死の欲動」の妥当性にかんしては、あらためて議論する必要があろう。しかしいずれにせよ、作画崩壊によって歓迎にせよ拒絶にせよ、視聴者の強烈な情動が喚起されていることは疑いようがない。そうした打撃力の源泉について考えることは、個別的な技巧の巧拙にたいする評価に偏重しがちな既存の作画評価軸とは違った評価軸を形成することでもある。ひいては、作画という表現形式の実相をあきらかにするための端緒となるのではないだろうか。

(註1)本稿では以降、一般的な総称としては作画崩壊と表記する。分類概念であることを強調するときは「作画崩壊」と表記する。「理念」であることを強調するときは<作画崩壊>と表記する。
(註2)正確性を期するために本文のような記述を選んだが、「なんらかの演出意図にもとづいている(と推測できる)」という理解でも、本稿の議論ではおおむね支障ない。
(註3)ベンヤミン 、ヴァルター『ドイツ悲哀劇の根源』岡部仁訳、講談社、二〇〇一年、三二頁。
(註4)同書、二四頁。
(註5)同書、二五頁。
(註6)同書、二七頁。
(註7)ここでいう「つくりもの」とは、もちろん「フィクションである」ということも含意するが、より即物的な「人工物」「無機物」を意味する。
(註8)こうした外傷的な経験を自覚的に利用した典型的な事例として、初期アニメーテッド・カートゥーンがあげられるだろう。むしろ、アニメーション史の黎明期においては、こうした外傷的な経験こそが、アニメーションに固有の属性と考えられていた。そのあたりの議論は土居伸彰『個人的なハーモニーーーノルシュテインと現代アニメーション論』(フィルムアート社、二〇一六年)一一一-一二三頁に詳しい。
(註9)このことは作画崩壊についての議論がしばしば、「作画マニア」とそれ以外の視聴者の対立構図をとることとも無関係ではないだろう。「作画マニア」は制作者の技巧的達成を重視する傾向にあり、すなわちアニメーションの「人工物」としての側面に意識を偏重していると考えられる。したがって、「作画マニア」的な視聴経験においては、アニメーションが「つくりもの」であることがあらわになる事態は、不安の源泉にはそもそもならないないため、否認する必要がないと考えられる。
(註10)フロイト『フロイト著作集 第六巻』「快感原則の彼岸」小此木啓吾訳、人文書院、一九七〇年、一七二-一七五頁。

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