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黒いドレスを着た女・浅川マキ

浅川マキ(1942.1.27~2010.1.17)

【アングラの女王】

私が好きな女性ミュージシャンの中でも、一際異彩を放っているのが、浅川マキである。

今、これを読んでいる方の中で、どれくらいの人が、彼女の存在を知っているのか疑問だが、私は、彼女の個性と言うか独特の世界観と共に、彼女の持つその時々の時代を超越して来た姿が、何とも堪らなく好きなのである。

私が、浅川マキの存在を知ったのは、小学生だったか中学生だったか、ちょうどその中間あたりの頃だったと思う。

初めて聴いた彼女の歌は『赤い橋』というタイトルの、何とも子供には理解し難い歌詞の歌だった。子供心にも、それは何となく薄気味の悪い怖さを感じたことを憶えている。

そんな浅川マキは、東日本大震災が発生したその前後に、ライブ公演先の名古屋で心不全のため急死したと、私は記憶していたが、この記事を書くために調べてみたところ、正確にはその前の年の2010年1月17日のことだった。

67歳であったと知り、まだまだ若かったなぁと思った。このまま彼女が、10年20年と生き長らえていたら、どんな音楽を紡ぎ出していたのかと思うと、酷く残念でならないが、 いくらそんなことを思ってみても、この時以上に年を取った浅川マキは、私の中では想像がつかない。

話を戻すと、彼女の音楽の誕生は1960年代の学生運動の流れと共にあったと、直接当時を知らない私は思ってしまうのだが、ちょうど、劇作家の寺山修司と活動を共にし始めた時期であり、そんな彼女についた肩書きは『アングラの女王』だった。

彼女のポピュラーな楽曲は『夜が明けたら』や『かもめ』『ガソリン・アレイ』、伝説の歌手となったちあきなおみもカバーした『朝日楼』といった、ベストアルバムに収録されている楽曲がその代表格だが、 それより私が今回、彼女を書きたいと思ったことは別のところにある。

【ロング・グッド・バイ】

以前、私は彼女が自ら記した自伝的な本を読んだことを思い出した。

その中であったか、彼女は自ら自身のトレードマークである、黒いドレスについて言及した箇所があった。うろ覚えだが私の言葉で記そうと思う。

「私は、自分が普通の女の子のような格好をしたいと思っても、それはできない。なぜなら浅川マキという歌手が、それを許さないからだ。」

というような内容だったと思う。

映像でも記録されている、1970年に開催された『全日本フォークジャンボリー』の時の歌唱も、彼女はこのスタイルで登場し『かもめ』を歌っていることが確認出来る。

【五木寛之の回想】

そしてもう一つ、何で読んだのか忘れてしまったが、作家の五木寛之が書いたものだと思うが、石川県の彼の自宅にある日、大きな西瓜をぶら下げた浅川マキが、突然訪ねて来たことがあったという。それは1960年代後半の頃のことだった。

浅川マキが、東京へ出て歌手に成り立ての時のことだった。歌手にはなれたものの、中々、自分の思ったとおりの活動が出来ないことに、些か行き詰まったらしく、彼女は五木の元へ何やら身の上話をしに来たという。

この時、五木は精神病院の近くに住んでいたことと、その時の、彼女の表情から浅川マキを彼女だと認識出来ず、そこに入院している患者が病院から抜け出して、自宅へ訪ねて来たとばかり思ったらしい。

彼女は、手ぶらで五木の元を訪ねては失礼だと思ったのだろうか。何を思ったのか、大きな西瓜を手土産にぶら下げて来たという。

ひと通り、その時話したことがそこには書かれてあったが、最終的に彼女は

「話を聞いてくれてありがとう」

と、言って帰って行ったという。

五木に「正直(西瓜)重かった」と言い残して。

この時、浅川マキと五木寛之が初対面であったのかどうかまで、私は知らないが、この二人の人生が或る時期交わった瞬間があったのだと知って、正直驚いた。

やはり、この時も彼女はドレスであったかまでは書かれていなかったが、自身のトレードマークであった、黒い服を着ていたという。

【素顔を垣間見たラジオ】

またある時、ラジオで自身のCDアルバムのプロモーションのために、彼女がゲスト出演した時の音源を、私はYouTubeで聴いたことがある。

彼女は、自分で楽曲の選曲やチェックのために、自身の楽曲を聴き返す作業をしていたが、それらの楽曲を長時間聴くには、当の本人でもヘビーな作業だったから、 これを聴くファンはもっとヘビーだから、全部聴かなくていいみたいなことを笑って話していた。

私はこの時、本人もそう思っていたのかと思って、妙な親しみを覚えたのだが、私が彼女に親しみを覚えた時には、もう彼女は鬼籍の人になってしまった後だった。

【Long Good-bye】

その頃『Long Good-bye』という、彼女の2枚組のアルバムを私は買って、何度も聴いた。

晩秋の頃だっただろうか。

それでも、まだ夏の名残りで、生ぬるい風が吹いていた。そのアルバムは『夜が明けたら』から始まり2枚目の『INTERLUDE』で終わる、長い再生時間のアルバムだった。

私はエアコンもつけず、扇風機だけをつけ横になって、微睡みの中にいても首筋が汗ばみ、その汗が滴り落ちて来た時目が覚めて、もう日が落ちて部屋も薄暗くなり始めていたことを、今でもはっきりと思い出す。

浅川マキの代表作『赤い橋』は、赤い橋を渡ったら二度と戻っては来られない、という内容の歌だが、赤い橋を渡った先には一体何があるのか?

それは、渡った人にしか分からないことだが、いつだか知らないが私もそれを渡るだろう。

歌の歌詞にもあった『赤い花』とは彼岸花のことであるが、彼岸花を見ると、私はこの歌と共に彼岸へと旅立った、赤い橋を渡って逝った人々と共に、この歌を歌った黒いドレスを着た浅川マキを思い出す。

彼女の最期の様子を私は知らないが、やはり赤い橋を渡る時も、あのトレードマークだった黒いロングドレスを着ていたのだろうか。

【今も恋しいマキの歌声】

長時間聴くには体力がいるが、私は無性に浅川マキの歌声が恋しくなる時がある。かといって『赤い橋』を聴く訳ではない。

彼女の溌剌とした歌唱を存分に楽しめる、ロッド・スチュアートのカバー『ガソリン・アレイ』や、歌手の孤独を歌った『あれはスポットライトではない』や、子供の頃のことを歌ったような『にぎわい』や『ちっちゃな時から』を聴く。

他にも、刺激的な歌はたくさんあるのだが、私には今のところ、このアルバムとレコード『マキ・LIVE』だけで満足している。

また今年も彼岸がやって来た。

久し振りに、彼女のベストアルバム『Long Good-bye』を聴こうと、CDを探したのだが何故か2枚目のディスクだけが、どこを探しても見つからなかった。

彼女がラジオで『 全部、聴かなくてもいい』と、笑いながら言っていたことを思い出し、私は探す手を止めて、全部聴かなくてもいいかと思い直したのだった。

2022年9月20日・書き下ろし。
イラスト・daisukensta


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