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中学時代の思い出⑤

夏合宿が終わり、夏休みも明けて二学期になった。
クラスメイトのOさんから、「佐藤君、皆勤だったのに塾の合宿で休んだのは勿体ないね」と言われる。返答が難しかったが、「どうせ体調不良になったかもしれないから」と返した。

秋になると、生徒会の任期が切れた。
そして学級委員にもならなかった。
常に校内のリーダー的役割を果たしてきていたが、ついにそれが終わった。思い返せば、弟の入学式で祝辞を読んだ。弟としてはやりにくかったろうが、自分の人生を思い返してもなかなかそんな経験をした人はいないだろう。意義があったと思う。あとは自分の智辯和歌山入試に邁進するだけ、と気持ちを入れなおした。

もう定期考査の順位などは覚えていない。正直どうでもいいことだからだ。秋の能開の智辯模試が天王山。そこしか見据えていなかった。

英語の授業でS先生と面談があった。
「佐藤、夏の模試では智辯は厳しいかもしれない。近附ではどうだ?」と言われた。私は智辯を目指すことに当時は命がけだったので、「近附は遠いので難しいです。どうしても智辯に行きたいです」と答えた。
「それなら桐蔭の数理科学科や向陽の環境科学科も考えないといけないかもしれないな」と言われ、プライドに火をつけられた。

秋になり、修学旅行があった。ディズニーランドと上野のアメ横、国会も行っただろうか。私は自由行動で東大の赤門に行きたい、と言ったが却下された。アメ横なら断然東大に行ったほうが意味があると当時の私は思ったが、理解されなかった。智辯和歌山受験を決めた時から志望校は東大法学部と決めていたので残念だった。
そして今でも覚えているのだが、東京ドームシテイあたりの宿泊で、今は研究者をしているH君と同部屋だった。H君には、「本当に申し訳ないが、能開の宿題をしないといけない。講師からも修学旅行でも勉強しろと言われていて。本当に申し訳ない」と言って、英数の勉強をした。
その時の自分にとっては智辯和歌山入試というのは人生をかけたもの。
男はよく考えるらしいが、修学旅行で女子の部屋に遊びに行ってどうこうという不埒なことは本当にどうでも良かった。智辯に受かるか人生終るか、という悲壮感で勉強をしていた。
そういえば、修学旅行ではアマデウスを観劇した。
後に音楽の授業で私の感想文がI先生に読み上げられた。
I先生は今でも印象に残る恩師だ。嬉しいことだった。

修学旅行から帰ると智辯模試があった。
ここは本当に天王山。
順位を上げることしか考えていなかった。
英数ともに手ごたえは夏よりは悪くなかった。
返却されると、英語、国語は校舎内1位、数学は校舎内10位で総合17位、校舎内3位の成績を取った。
少し安心したが、まだここから緩めるわけには行かないと思った。
それはそうと、模試返却のあとの数学の授業で、F先生がこんな話をした。
「私に探りを入れられたのだが、二日目の数学の箕島校の平均点が適塾21より高い、という事態になり、調査を受けた。何のことはない、私が塾高の過去問を授業で扱ったのだが、模試出題者が同じく塾高の過去問を2日目の問題に転用しただけだ。模試はオリジナル問題を出題すべきだ。本当に無礼だ」と言ったものだった。当時の智辯和歌山の数学は初日は基礎的な出題、二日目は早慶附属校レベルの難問を出題していた。智辯和歌山の当時のレベルの高さを感じさせられるできことであった。

ここからは少し安心して講義を受けられた。英語の単語テストはいつも1番。記憶力は抜群であった。最後まで数学はわからないが、国語も1番。英国で圧倒して智辯和歌山に合格するんだ、という意識があった。ただ、数学が苦手で落ちるのではないか、という不安には常時付き纏われたが。

最後の冬の模試、近附模試では県内9番。近附の校内で模試を受けた。同じ中学のS君がトップだった。言いにくい話だが、S君は性格に癖があり、クラスで浮いていた。私の9番の際は「おおー、佐藤、すごいな」という声があがったが、S君の際は静まり返っていた。人徳というのはあるものだと思う。
そして第四回実力テストを受けた。こちらは標準的な模試で総合順位は忘れたが、校舎内1位。
そして最後の集大成の全国模試、これは能開生の集大成と言える模試だが、全国30位、県内3位、校舎内1位の成績を取ることができた。成績優秀者欄の1ページ目の左列に掲載されることができた。名誉なことだった。英語のS先生にも、「佐藤、お前すごいな」と言われた。
模試の判定は智辯和歌山はAの最上位層で大阪星光学院でもB判定だった。
そして、英語の演習では、大阪星光学院の英語の過去問演習で9割取れた。
108/120であった。大阪星光学院の難易度は当時、ラ・サール、塾高と同程度。能開の大阪の校舎ではターゲット校である。
箕島校でここまで行けたのは異例であろう。
それでも当時の私はひょっとしたら落ちるのではないか、という不安に常に苛まれていた。脅迫的な思いもあったのかもしれない。
今思えば、実力テストも全国模試も校舎内1位なら落ちるわけはないのだが。
そしていよいよ智辯和歌山入試が近づいていた。

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