見出し画像

中学時代の思い出⑥

冬休み、私は能開の課題と格闘していた。
英作文も数学も課題がてんこ盛りであった。
一方で国語は大した課題もなく平常運転だったが、国語くらいが良いのだろうなと思う。国語は手を抜く生徒が多かったが、講義を聞いてちゃんと演習をすれば結果が出る。智辯和歌山入試でも早稲田法入試でも国語に助けられた形になったので国語は真面目にやって損はない、といいたい。

そして、冬休みが明けて入試シーズンになった。
智辯和歌山入試は一月の中旬だったと記憶している。
当時は一月第三週の土日だったろうか。
入試前日、能開で最後の授業があった。
授業でキットカットが配られた。
数学のk先生が、「みんな、きっと勝つぞ」と気合を入れて入試に臨むことになった。

翌日、教師付き添いで地元の駅から智辯の最寄の黒江駅まで進んだ。
改札を出て進む。うちの学校から智辯和歌山編入(一般のコース、当時は私立文系専願で野球部と同じコースである国際科もあった)を受けたのは7名だった記憶がある。校門の前で数学のF先生がいる。「佐藤大先生、頑張ってくださいね」と皮肉を言われる。私はアスペルガータイプのASDということもあり、尊大に見えていたのだろう。
教室に入ると、緊迫感があった。
中には大阪府民だろうか、必勝ハチマキを巻いてきている生徒もいた。

当時の智辯和歌山入試は二日間。
初日は国語、英語、数学で各100点で300点。
二日目は英語、数学で各100点で200点と面接だった。
初日の英数は基礎的な問題。二日目の英数は発展的な問題であった。
いわば、初日の英数は共通テスト、二日目の英数は二次試験といったようなものだ。

監督官の方から説明があり、問題用紙が配られる。
最初の時間の空白の間、五角形の合格鉛筆を握りしめながら、私はこのように考えて瞑想していた。
(夢は天下を獲ること。そこから逆算して、そのための大蔵省入省、そのための東大法学部入学、そのための智辯和歌山合格。こんなところで落ちるわけにはいかない。落ちれば家の恥だ。)
今思えば妄想なのだが、当時は本気でその夢を達成しようと思っていた。
そして、国語の時間が始まる。
スラスラと解ける。
英数に比べれば国語は一般的な出題だ。文学史も古典文法問題もわかった。いくつか選択肢で迷った問題はあったが許容範囲。80点はあるだろう。
国語が終わって一安心。ここはいつも通りだ。
そして、二科目目の英語。
英語は得意科目。
普通にこなせた。ここも80点はあるだろう。
智辯和歌山の前年度の合格最低点は7割程度だった。しかも今年は近附に新ADという特設クラスができた影響で編入の倍率が落ちていた。
国英はリードという出来で一安心で数学に進んだ。
勝負の数学だが、ここでキツイ状況になった。
極度の緊張でミスを多発した上にそもそもわからない問題もある。
私は数学は極力公式を覚えて放り込んでいた。
暗記数学である。
方べきの定理とヘロンの定理で加点。
能開では扱わないが、教科書範囲の二進法でも得点できた。
しかし、出来が悪い。数学初日は60点程度だろうか。
疲れて家に帰る。

私は記憶力には自信があるほうだが、初日に何を考えていたのか、もうあまり覚えていない。
帰ってゆっくり休んだ。
初日は220点。二日目で120点なら受かる。いつも通りでいいんだ。
英語で稼いで決める。
と念じて二日目に進んだ。

二日目は英語から。
英語はそれなりに難しい。
和訳、英作、長文問題。京大を強く意識した出題だ。
まずまずできた。
80点くらいだろうか。
ここで300点。
昨年度のボーダーから言えば、数学は40点でも受かる。
そして勝負の数学。
二日目の数学は四題である。
主として東大を意識であろうか。
私は全然解けなかった。正確には0点ではない。
だが、あって25点という出来だった。

絶望感に打ちひしがれながら、昼休憩に入る。
「もう落ちたかも」友人たちにそんな泣き言を言った。
「そんなことないやろ」とみんな励ましてくれる。
模試は良かった。だが、本番落ちてしまうのだろうか。
そんなことが脳裏をよぎる。
M君が、「佐藤君、この単語の意味わかる?」
と単語の意味を聞いてきた。
「これはこういう意味だよ」
と教えると、「語彙力凄いね」と褒められた。
英単語力は抜けていた。S先生の単語テストのおかげである。
そこで少し自信を取り戻して面接に入る。

後でわかったが、面接官は生物のM先生という高齢の非常勤の方だった。
「これから面接をはじめます」
という話から入った。覚えている質問はこのあたり
1.「実力テストの得点はだいたい何点くらいでしたか?」
「450点くらいです」
2.「塾には通っていましたか?」
「能開箕島校に通っていました」
「クラスはどちらでしたか?」
「921でした」
3.「部活はやっていましたか?」
「はい。卓球部でした」
「智辯和歌山の編入に入ると、高1の間は部活禁止。高2からは部活動に入れますが、運動部には入れません。卓球は続けられませんが、大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」
と言ったものだった。
面接は得点化はしていないのだろう。後で智辯の先輩に聞いたが、嘘をついていないかは見られているのではないか、ということだった。あとは部活ができないことの意思確認はあるのだろう。

そんなこんなで試験を終えた。

翌日、能開に行き、解答速報を聞いて自己採点をする。
自己採点では国80英初日80数初日60英二日目80数二日目25計325点
だった。去年のボーダーを下回っている。
数学の解答速報の時間に後に京大理学部を出て研究者になるO君が、「よっしゃ、数学満点!」と叫んだ。
合格は確実である。O君は私と同じ中3から能開に入った隣の市の中学の生徒であった。数学のセンスが抜群なんだな、と感じさせられた。(箕島校からの智辯進学者のうち、彼と私だけが上位クラスに進むことができた)
私は昨年のボーダーを下回る結果に寝込みそうになった。
U君という子が、「佐藤君、数学の二日目何問解けた?」と聞いてきた。
「1問も解けていない」というと、「やった。佐藤君に勝った。僕は2題解けたよ」と言っていた。ちょっとびっくりしたというか、今、考えれば、彼からすると、私は合格確実だから聞きに来ているのだろうが、私としてはダメージが大きかった。
そして傷心のまま合格発表日となる。

当時は携帯もなく、即日にはわからないのかなと思っていた。
父が智辯和歌山に落ちていたら願書をそのまま近附に出すというので合格発表を見に行くと聞いていた。
当日は授業も落ち着いて聞いていられない。
放課後、マラソン大会の準備運動をしていた時だった。
担任の先生の声が聞こえる。
「佐藤、智辯受かってたよ。おめでとう!」
と言われた。私は嬉しいというより安堵した。
ほっとしたというものである。
そこから伝言ゲームのように広がっていった。
「佐藤が智辯に受かったらしいぞ」
「すげえ」
などとざわついていた。
当時の智辯和歌山は和歌山ではダントツの進学校。
注目度も高い。
結局、編入には私の他、S君とKさんが合格していた。
仲の良いF君、数学二完のU君、Dさん、Yさんは不合格だった。
能開箕島校からは12名が合格した。
定員90名のうち12名だから紀中の校舎としては快挙だろう。
家に帰ると、能開に電話をした。
K先生が出る。「合格しました」「自信はあったんじゃないか?」「二日目の数学ができなかったので落ちたかと思いました」というやりとりがあった。そして祖父母にも電話をしようと思ったが、葬儀でいないらしい。後日聞いたところによると、私の合格の報を聞き、祖父は葬儀で嬉し涙を流したとのこと。
可愛がってくれた祖父に恩返しができたと思い、嬉しくなった。
しかし、私が思ったのは、(智辯和歌山の東大合格者は20名。生徒数が300名で、東大法学部は東大でも難しいだろうから、15番には入らないと合格できないだろう。15/300、ここからまた競争だな)と早くも次を見据えていた。
ただ、この日はゆっくりできた。
残り2カ月の中学生生活を楽しもうと思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?