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尿路結石とクエン酸と背番号18と。巨人キャンプの思い出


激痛で声も出ない。

そんなご経験はあるだろうか。
僕はその日が初めてだった。

芝生に倒れ込み、うめく僕を見て、みんなが笑っていた。
無理もない。普段からそうやって、笑いを取っていたからだ。

「またやっているよ」
「リアクションがいつも大げさだ」

自分と周囲が入れ替わっても、きっと同じように感じたことだと思う。

一通り笑うと、みんな潮が引くようにその場を去っていった。
次の練習メニューがある。

「いつまでやってんだアイツ?」

去り際の声が聞こえてくる。
僕は立ち上がれもせず、ただただ痛みに悶えていた。


今年もプロ野球が開幕する。

各球団、ここに向けてキャンプやオープン戦を通して準備を重ねてくる。
そしてそれは、取材する側も一緒だ。

選手たちがどんな狙いや思いをもって、新しいシーズンに臨むのか。
自主トレやキャンプ、オープン戦の中で取材を重ね、開幕に備える。

特にキャンプは、とても貴重な取材機会だ。
ほぼ一日中、選手たちの動向を間近にみることができる。

2017年。西武の春季キャンプ取材は、自分にとっては集大成だった。
本当に濃密な取材をさせてもらった。自分の人生の誇りだと思っている。

スポーツ紙を退社することを決めていた、というのは大きかった。
最後の機会と思うと、1秒たりとも無駄にはできなかった。

そしてもうひとつ、僕を西武のキャンプ取材にのめり込ませるものがあった。
それは、入社直後の2004年巨人キャンプの思い出だ。

当時、僕はまだ記者ではなく、カメラマンだった。
初めての春季キャンプ取材だったが、いろいろな偶然も手伝い、自分でも驚くくらい選手と近しい関係になれた気がした。

そして、そういう関係がとてもはかない、幻のようなものである、という現実も突き付けられた。

懐かしく、切ない思い出。取材者としての原点でもある。
そんな2004年のキャンプのことを、今回は書かせていただきたい。

"魔球"お構いなしの正確な打撃 ~ 阿部慎之助捕手


その年、巨人は普段とは違う日程でキャンプを行った。

例年は全日程を宮崎で完結させていたが、1次キャンプはグアム、その後宮崎に移動して2次キャンプ、という形をとった。

そのため、キャンプ直前の自主トレもグアムで、という選手は多かった。
その中のひとり、阿部慎之助捕手に僕は密着することになった。

同じ部署に、巨人の選手たちととても親しくしている先輩がいた。
その方の紹介で、僕も阿部さんとは事前に連絡先を交換していた。

報道陣の中で一番年齢が近く、頼み事をしやすいということもあった。
自主トレの期間中、僕はずっと阿部さんと行動を共にすることになった。


「お前、野球やってたんだよな?」

そう言われて、僕は練習を手伝うことになった。
守備練習ではノッカーをする。ティーバッティングではトスを上げる。

これはさすがに緊張した。
いくらプライベートで打ち解けていたとしても、まったく関係ない。

とくに、ティーバッティングのトスを上げるのが難しかった。

高校時代まで野球をやっていたので、それこそ何万球も上げてきた。
だが「プロに迷惑をかけてしまったら」と思うと、硬くなった。どうトスを上げていいのか、急にわからなくなってしまった。


考えれば考えるほど、僕が上げるトスはむちゃくちゃになった。
打ちやすいコースに上げることができないだけではない。変な回転がかかる。チェンジアップのようにタイミングを狂わせる。

「ホントごめんなさい…!」

心のうちで詫びながら、僕はトスを上げ続けた。
だが、阿部さんはまったく気にした様子もなく、バットを振り続けていた。

グッと重心を沈めてみたり、あるいは身体を伸ばしたり。
細かいバットコントロールにとどまらない対応で、あらゆる球を芯でとらえていく。

「魔球だな。まあ、練習にちょうどいいよ」

そう言って、笑ってみせる。


それだけではなかった。

阿部さんの打球の先には、自主トレに同行していた木佐貫洋投手、林昌範投手、鴨志田貴司投手の3人がいた。

それぞれレフト、センター、ライトの定位置よりも少し深い位置に立っていた。
阿部さんは「あいつらを動かさずに捕らせる」と言って、順番に狙いをつけていった。

言葉通り、打球はまるでキャッチボールのように、70メートルほど先の3投手の胸元に飛んだ。

自分でトスを上げてのノックでも、ここまでのコントロールは難しいだろう。しかも、上がってくるトスは「魔球」なのだ。

期せずして、僕は「プロの凄み」というものに触れた。


ちなみに阿部慎之助という人は、ゴルフをさせてもすごかった。

自主トレのオフ日に回ったレオパレスリゾート・グアム内のゴルフコース。
1番ホールはパー4。打ち下ろしで330ヤードほどの表記だったと思う。

阿部さんはレンタルしたドライバーをフルスイングした。
シャフトがパワーに負けていた。異様なまでにしなっているのが、肉眼でもわかった。

ボールはキャッチャーフライのように、高く打ち出された。
手元を見た阿部さんが天を仰ぐ。「しまった、レディースシャフトだった!」

非力でも、シャフトのしなりを生かして飛ばせるように。
そんな設計の女性用シャフトは、阿部さんにとってはぐにゃぐにゃのゴムホースみたいなものだ。


「そりゃあんな高く上がるよ」
「それより、あんなぐにゃぐにゃのクラブでよくミートできましたね」

メンバーみんなでゲラゲラ笑いながら、ボールを探した。
だが、なかなか見つからない。

いったんOBとみなし、阿部さんには代わりのボールを打ち進めてもらった。
だが、グリーンに達したところで、誰かが「アッ」と声を上げた。

阿部さんのボールが、グリーンの手前ふちに突き刺さっていた。

刺さらなければ330ヤードを1オン、しかもベタピンだった。
だがそもそも、キャッチャーフライの弾道でこの距離というのがありえない。そしてあんな距離、高さから落ちてきたら、地面に刺さらない方が難しいだろう。

僕はのちにゴルフ担当にもなったが、あんなスイング、あんなショットは他では見たことがない。
野球選手の潜在能力について、他競技の選手に語らせてもらう時、僕は今に至るまでいつもこの話をさせてもらっている。

瞬時の「火消し」 ~ 林昌範投手


「ああ、なつかしいですね。阿部さんはすごかった」

林昌範さんがそういって、顔をほころばす。

グアムキャンプから13年近くがたった2016年12月。
40歳手前でようやく念願の野球担当記者になった僕は、DeNAベイスターズの選手会納会ゴルフの取材に駆り出されていた。

会社からの指示は、山口俊投手のマークだった。
FA権を行使し、移籍することを明言していたため、動向や発言が注目されていた。

ただ個人的には、林投手に再会するというのも、大事なテーマだった。

阿部さんと一緒に、グアムで自主トレをしていたメンバーのひとり。
当時はまだゴルフを始めたばかりだった。だがラウンドするたびに、10打ずつベストを更新していき、最後は80台で回っていた。

抜群のセンスとともに、印象に残っていることがある。あるラウンド中に、自主トレメンバー同士が口論になった。
ヒートアップした一方の選手は、もう一方の選手のボールを拾うと、OBゾーンに投げ捨ててしまった。

林投手は少し離れたところで様子を見ていたが、やがてさりげなく割って入った。
「分かるよ。でも、阿部さんもいるからさ」とだけ言って、2人の肩をたたく。

2人とも一瞬で我に返った。


林投手は翌2005年に、先発から中継ぎに転向。
さらには抑えも任され、15ホールド、18セーブを挙げた。

反撃の機運が高まって盛り上がる敵地を、すとんと落ちるフォーク1球で静かにしてしまう。
事も無げにマウンドを降りてくる姿に、グアムでのラウンド中の光景が重なった。

その後、林投手は日本ハムをへて、DeNAでプレー。
再会した2016年には33歳になっていた。相次ぐ負傷に苦しみ、この年はプロ入りした2002年以来となる1軍未登板に終わった。

「クビにはならなかったですけど、来年が最後かなと。現役のうちにまた会えてよかった」

2人きりということもあって、彼はそう吐露した。

「ところで、みんなとは連絡取り合ったりしているんですか?塩畑さん、いろんな選手にかわいがられていたでしょ」

彼の言葉には、特に含みはなかったと思う。
だが僕は思わず、言葉に詰まってしまった。

「なぜ、真剣な表情を撮らないのか」 ~ 上原浩治投手


確かに2004年の僕は、巨人の1軍の選手みんなに顔を覚えてもらっていた。
当時の写真を見返すと、とにかくカメラ目線のものが多い。

そうなったきっかけはいくつかあった。

グアムでの自主トレ取材。
僕は阿部選手や林投手と終始行動を共にできていた。だが肝心の撮影した写真の方は、どれもイマイチだった。

毎日のように、日本のデスクに電話でダメ出しをされた。
他の先輩から「巨人を担当できるといって浮かれてんじゃねえよ」ときついお叱りを受けたりもした。

やがて自主トレ期間が終わり、チーム全体でのキャンプが始まった。僕は依然として、これといった写真が撮れないまま怒られ続けていた。
何とかしないといけない。追い込まれた僕は、よくわからないやり方をとることになる。

海のイメージが強いグアムだが、キャンプ地は島の中でも山奥にあった。
投手陣の走り込みも、山の中の坂道で行われた。

ある日、僕はそこに海パンとシュノーケルセット、足ひれをつけて赴いた。


グアムでの取材と聞いていたのに、思ってたんと違う。
そんな「ストーリー」のつもりだった。

「何してんすか」
「いや、グアムでの取材と聞いて、海辺だとばかり」
「仮に海辺だとしてもよ、野球の取材で海には入らないでしょ」

若手投手の面々は、笑いながら寄ってきてくれた。
目線あり。満面の笑み。そんな「自分だけの写真」が山のように撮れた。

これならば、デスクにも怒られないだろう。
そう安堵しながら、走り込みの様子を取り続けていると、急に視野が暗転した。

ファインダーの向こう、一眼レフのレンズをわしづかみにされたのだ。

「あのさ、何を撮りたくてやっているわけ?」

その声に、恐る恐るファインダーから目を外す。
レンズをつかんだ相手はなんと、あの球界の大エース、上原浩治投手だった。

余計に言葉が出なくなった。
そんな僕に、上原さんはさらに言った。

「俺たちは真剣に練習をしているんだよ。だから真剣な表情の写真こそ、この現場では本物なんじゃないの?」


その「無礼」についてお詫びができたのは、14年もあとのことだった。
2018年の年始。僕は都内で、上原投手の自主トレを取材させてもらっていた。

インタビュー取材が終わったあと、恐る恐るグアムでのことを切り出してみた。

「えっ?オレ、そんなことしました?」

アタマを下げられてしまい、こちらが恐縮した。

「偉そうに言っちゃって申し訳ありませんでした。ただまあ、いま考えてみても、言わせてもらったことはそんなに間違ってなかったかなとは思いますね」

本当にその通りだと思う。
そしてもうひとつ気づく。

会社の上司の反応にばかり気を取られ、ファン、読者から何を求められているのかに全く目が向いていない。
そんなプロ意識に欠けたカメラマンのことなど、上原さんはまったく覚えていなかった、ということだ。

差し伸べられた「救いの手」 ~ 桑田真澄投手


2004年の春季キャンプは、2部構成になっていた。

後半、チームはグアムから宮崎に移動。
徐々に実戦的な練習の比重を高めていた。

この頃になると、かなり多くの選手に顔を覚えてもらっていた。
シュノーケルなしでも声をかけられたり、目線をもらえたりするようになった。

その日、僕は投手陣の階段ダッシュを撮影しようとしていた。
カメラを構えていたら、何人かの選手から声をかけられた。

「自分でもやってみて、大変さが分かった上で撮った方が、きっといい写真が撮れるよ」

「勘弁してくださいよ」と言ってみせたが、いじってくれるのは内心うれしかった。
走るために、撮影用の機材を肩からおろそうとすると、すぐにツッこまれた。

「カメラマンにとって、カメラは身体の一部だって誰かが言ってたな」

いやはや、フリとして完璧だ。
カメラ本体は約1キロだが、そこに5キロほどある400ミリレンズをかませていた。それを左肩で背負う。

さらに、200ミリのズームレンズをつけたサブ機を首からぶら下げて、階段を駆け上がる。

「おお!できるじゃん!」

みんなが手をたたく。
調子に乗って、僕はペースをグッと上げた。


10キロほどの荷物を持っての階段走は、本当にキツかった。

「自分でもやってみる」どころか、明らかに選手以上の負荷だ。
それを林投手、鴨志田投手ら若手と一緒に5本やった。

最後の1本に入るあたりで、急に腹が痛くなった。
それでも何とか走り切ったが、ゴールとともに信じられないほどの痛みが身体の真ん中を貫いた。

僕はすぐそばに芝生を見つけて倒れ込んだ。
声も出ない。この痛みは一体何なんだ。恐怖を感じた。

周りはそうは思わない。
投手陣の皆さんは、オーバーリアクションだと思って、笑ってくれている。そして、次のメニューに向けて移動していく。

僕はただ、痛みに悶えていた。
何か言葉を返すこともできなかった。


「ああ、無理にやるからだよ」

戻ってきて、声をかけてくれた人が、ひとりだけいた。
あの桑田真澄投手だった。

「大丈夫?立てる?」
「は、はい」
「ああ、しばらく休んでいた方がいいよ」

桑田さんはそういうと、持っていたリュックサックの中からボトルを取り出して、僕に手渡してくれた。

「クエン酸。飲んでしばらく休んでいたら、きっと楽になるよ」

まだ練習中だから、ついていてあげられなくてごめんね。
桑田さんはそう言い残すと、他の投手陣を追って走っていった。


痛みはなかなか消えなかった。

それどころか、今度は背中がカチコチに張り出した。
仕方がないので、何とかレンタカーを運転して自分の宿に戻った。

エンジンを切ったところで、電話がかかってきた。
同じ社の先輩カメラマンだった。

「どこでさぼってんだよ!」
「実は腹が痛くて」
「知らねえよ。お前がいないから大変なんだよ」

会話を続けるのもおっくうだったので「すぐ戻ります」と言って切った。
そして民宿の自室で、畳に倒れ込んだ。

宿のご主人が、心配してのぞきに来てくれた。
思い切ってお願いをした。「病院に運んでもらえませんか」


血液検査の結果をみて、病院の先生はあきれていた。

「尿酸値が14もある。この半分でも痛風になりますよ」

腹痛は、濃くなりすぎた尿酸が結晶化して、腎臓の出口につまったために起きたそうだ。いわゆる「尿路結石」だ。

「命に別条のない病気の中では一番痛いと言われてますからね。なんにしても、このままでは痛風の発作も出るし、生活を考えてください」

思い当たるふしはありすぎた。
グアムでの自主トレの最中から、選手に合わせて毎日のように焼肉を食べた。1日3回焼肉、という日まであった。

生ビールも1日に10杯近く飲んだ。
そうやって蓄積したプリン体が尿酸値を急激にあげた。そして階段ダッシュで大量の汗をかいたことで、血中でさらに濃縮された。


クエン酸が効くような症状ではなかった。

ただ本当に、桑田さんのご配慮はありがたかった。
何度も言いたい。ありがたすぎ、である。あのような大投手がわざわざ、僕のために駆け戻ってきてくれたのだ。

周りのノリに同調することなく、倒れている人に手を差し伸べる。
そんな姿も、とても印象に残った。

桑田さんは現役引退後、早大の大学院に進学された。
さらには、東大の野球部でコーチを務めたりと、プロ野球選手の常識的なセカンドキャリアとまったく違う道を歩まれた。

そうしたニュースを目にするたびに、僕はあの日、クエン酸を差し出してもらったことを思い出す。
桑田さんだけは雰囲気に流されず、僕の「異変」に気付かれた。

いつかお礼を言いたいと思う。きっと覚えていないと思うけど。

◇   ◇   ◇


パッと思いつくだけでも、これだけあった。
今もって書けない話もたくさんある。

しかも、選手と直接言葉をかわす機会が多い記者ではなく、カメラマンだったのに、である。
キャンプ取材というのは、それだけ濃厚なもの、ということだと思う。

ただ、林昌範さんの「みんなと連絡取り合っているんですか」という言葉は、残念ながら僕をあまりにも買いかぶりすぎたものだった。
誰も、行きずりのカメラマンに過ぎない僕のことなど、覚えてくれてはいなかった。

当時の僕には残念ながら、その場限りの笑いを提供するくらいの度量しかなかった。
上原浩治さんのご指摘通り「選手たちの"プロとしての凄み"を読者に伝える」という、自分の仕事の本質も見失っていた。

また、あの年のキャンプのような機会があったなら。
その時こそ取材のプロとして認められ、覚えてもらえるような仕事をしていたい。

ずっとそう思っていた。
だから、日刊スポーツを退社する直前に、西武担当としてキャンプの取材ができた時は、本当にうれしかった。

もしかしたら、「今度こそ」という過度な思いを、選手の皆さんに押し付けてしまったかもしれないけど…。

◇   ◇   ◇


今年は各球団とも、コロナ対策の中のキャンプを余儀なくされたと聞く。
報道陣の皆さんも、例年のような「選手との濃密な時間」を過ごすことはできなかっただろう。

それは、キャンプ中の報道に影響するだけではない。

選手の素顔や、競技に懸ける思いに触れる機会が減る。
記者が取材のプロとして、選手に認めてもらう機会を持つことも難しくなる。

つまり、今季を通して取材に影響する、ということだと思う。
そこをいかに埋め合わせ、スポーツ界の未来につながるような報道を続けるのか。

どうか、がんばっていただきたいと、心から思う。
コロナが収束し、取材エリアに"日常"が戻るその日まで。





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