見出し画像

早すぎる引退。「やりなおせるなら」の問いに彼は…中継ぎ投手という生き方


その喫茶店は、ただただ静かだった。

2020年12月中旬。
その日、仕事がオフだった僕は、吉祥寺の駅前にいた。

クリスマス直前の街は、コロナ禍を忘れたようににぎわっている。
ポインセチア。クリスマスリース。赤と緑が通りを彩っていた。

人が少ない喫茶店に入り、空席ばかりの一角に席を取る。
除菌ティッシュでテーブルをざっと拭くのはもう習慣になった。いすに腰掛け、スマホのメモアプリを開く。

コピペしていたリンクから、記事に飛ぶ。
書かれていたのは、ひとりのプロ野球選手がこのオフに球団から戦力外通告を受け、引退を決意するまでの経緯だ。

数日前のこのニュースは、驚きだった。
まさか彼が、こんなに若くして人生の決断を強いられるとは…。

読み返していると、画面の上部にLINEメッセージの着信を知らせる通知が浮かびあがった。

「5分遅れます。ごめんなさい」

送り主は「Shogo」。
記事に書かれていた元・西武ライオンズ投手、野田昇吾さんからの連絡だった。

ボール②


僕が西武の担当記者だったのは2017年。
野田さんにとっては、プロ2年目のシーズンだった。

初めて開幕一軍メンバーに名を連ねた。まずはリードを許した展開での登板を重ねて、少しずつ信頼を得ていく。
彼はそんな立場だった。野球担当記者になりたての僕は、「これから現場で居場所をつくっていく」という意味で、勝手に共感を持っていた。

担当記者生活はわずか半年で終わった。日刊スポーツを退社することになったからだ。
野田さんは先輩の武隈祥太投手とともに、大阪遠征中に送別会を設けてくれた。思い入れのある取材対象ということもあって、素直にうれしかった。

「俺も頑張ります」

焼肉店での会が終わりに近づいたころ、野田さんはそう言った。

「タケさんには先発に挑戦してほしいので」

球場


西武の中継ぎ陣の中で、武隈投手は柱とも言える存在だった。
首脳陣からの信頼は篤い。年間60試合以上の登板を続けていた。

そんな武隈投手に対して、野田さんは「先発に挑戦してほしい」と言った。

同じ中継ぎ、同じ左投手。彼がいなくなれば自分のチャンスは増えるー。
一瞬、そんなシンプルな話なのかと思った。だが、そうではなかった。

「長く一緒にやらせていただきたいですから。タケさんの仕事はかっこいいですけど、過酷でもあります」

とうの武隈投手本人は、頭は切れるし話もうまいが、根はシャイな男だ。
知らないふりをするように、黙って肉を焼いていた。

ボール②


そこから野田さんは、登板数をどんどん伸ばしだした。

身長167センチ。当時のプロ野球全投手の中で最も小さかった。
だが、その身体をめいいっぱいしならせて、直球でぐいぐいと押す。

その球威については、送別会の焼肉店でも武隈投手が言及していた。

「野田の球の力は本当にすごい。うらやましいとしか言えない」

その年、野田さんは計38試合に登板して防御率1.98。投球回あたりの被打&四球数は1を切った。
翌2018年シーズンは開幕から、リードしている展開でマウンドを任されるようになった。

あの日、宣言していた通りだ。
武隈投手が中継ぎを卒業し、先発に挑戦できるような状況をつくってみせた。

プロ3年目。順風満帆に見えた。
だがこの時すでに、野田さんは長く続く苦境に足を踏み入れていた。

コーヒー


吉祥寺駅前の喫茶店。
窓の向こうで、こっちに向かって手を振る人影がある。

迷いながら手を振り返すと、小走りで店内に入ってくる。

「ごめんなさい!お待たせしました」

その声で、ようやく確信が持てた。野田さんだ。
マスクに帽子姿だったから、というだけではない。彼は見違えるようにスリムになっていた。

もともと小柄ということもある。
ほんの数週間前までプロ野球選手だったとは思えなかった。

脱いだコートを丁寧にたたんで、斜め前の席に座る。
「マスクつけたままで失礼します」と丁寧に言って、背筋を伸ばす。

そんな野田さんに、僕は「おつかれさまでした」と声をかけた。
彼は静かに、深く頭を下げて応じた。

「もちろん、もっとやりたかったんですけど」

そう断った上で、ポツリと言う。

「正直、ホッとしたところも、あったんですよね…」

ボール②


2018年シーズン。
野田さんは中継ぎの中心として、58試合に登板した。

その裏で、さらに積み重なっていた数字がある。

「あのシーズン、ブルペンで肩をつくった回数は、合計で170回くらいまでいっていたんです」

1週間に1度と登板日が決まっている先発投手とは違う。
中継ぎ投手の登板機会は、試合展開次第だ。

試合中のブルペンをずっと眺めていると分かる。
入れかわり立ちかわり、多くの投手が投球練習をする。それは次にマウンドに上がるであろう投手が、状況によってコロコロと変わるからだ。

・勝っているか、負けているか
・試合が何回まで進んでいるか
・次の打者が左打ちか、右打ちか

投球練習のペースを上げて備えたものの、登板には至らない。
しばらくして、また投球練習を始めるが、また準備だけで終わる。そういう場に、野田さんたち中継ぎ投手は身を置き続ける。

「1試合に5回、肩をつくったこともありました。で、結局登板はしない、とか…」

球場


公式記録に残るわけではない。
だが彼らは、登板数以上に投げ続けている。

いつ登板するかわからない、という緊張もずっと強いられ続ける。
準備で体力を奪われもする。肩やひじも消耗する。

顕著な例が、年間60試合以上の登板を重ねてきていた武隈投手だ。
僕のために送別会を設けてくれたころには、すでに心身にダメージが積み重なっていた。

技術と経験でカバーし、質の高い投球を続けてはいたが、本当は限界だった。
それを知っていたから、野田さんは「何とかタケさんを先発投手陣に送り出したい」と言った。

先発には先発で、ひとりで試合をつくらないといけないという大きな重圧、そして孤独感がある。
中継ぎから移って成功できる保証もない。だがそれらを鑑みてもやはり、武隈投手には一度環境を変えてみてほしい。野田さんはそう思っていた。

ボール②


有言実行。
彼は武隈投手が担っていた役割を果たせるようになった。

だがそれは、自分も武隈投手と同じ立場で、同じ重荷を背負うということも意味していた。

170回の投球練習とともに、積み重なったもう一つの数字がある。

「あの年は、肩に痛み止めの注射を20本以上打ちました。2週間おきに、という感じで」

感覚がにぶるような気もして、本当は打ちたくなかった。
だが、そうでもしないと、日常生活にまで支障が出る。

痛みはそんなレベルに達していた。

球場


アマチュア時代から、小さな身体で150キロ近い速球を投げ続けてきた。
その分、左肩に蓄積されていくダメージも大きかった。

鹿児島実業高校時代には、15試合連続で完投したこともあった。
社会人野球・西濃運輸に進んだ2年目、ついに3か月間の長期離脱を強いられることになった。

最後に気持ちよく腕を振って投げられたのは、その離脱前だとも言う。
それでもプロを目指して投げ続けたのには、理由があった。

「小学5年生の時に、この人と同じ道をたどっていくんだ、と決めたんです」

この人、とは杉内俊哉さん。ソフトバンクや巨人で活躍した大投手だ。

ボール②


球界を代表する左腕は、少年野球教室に講師として訪れた際、野田少年に「頑張ればプロになれる」と声をかけてくれていた。

少年時代の杉内さんも、自分と同じ九州硬式少年野球連盟のリーグ戦でプレーしていた。
だから野田さんは、自分を重ね合わせずにはいられなかった。

杉内さんと同じように、鹿児島実業高校に進学し、社会人をへてプロへ。
11歳にして、人生の目標は定まった。

だから、高校時代に過酷な連投を重ねていた時も「きっと杉内さんもこうだった」と思って投げ続けていた。

その結果、社会人2年目以降は常に肩に痛みを抱えることになった。
だが「プロを目指すというのは、きっとこういうことなのだろう」と受け止めた。

球場


2019年5月1日。
野田さんは日本ハム戦に3番手で登板した。

プロ入り後最長の3イニングを投げ、打者10人を無安打、四球1つの無失点に抑えた。
結果だけを見れば、ほぼ完ぺきな投球だった。だがその試合直後、2軍行きが発表された。

強まる肩の痛みで、思うような投球ができなくなっていた。
だから、この日の登板前にコーチと話し合い、2軍での再調整を決めていた。

「10日で戻ってくる」と気丈にコメントしたが、調整は長引いた。
腕を振って強い球を投げることができない。できるわけがない。投げる以前に、少し揺らすだけでも左肩は痛む。そんなレベルに達していた。

仕方なく、サイドハンド気味で投げることにした。
球威が落ちた中でも、何とか打者と勝負ができるように、という試みだった。

8月下旬、ようやく1軍に復帰した。
すぐに2勝に恵まれ、前年のようにリードする展開の中で登板する立場も勝ち得た。

だがシーズン最終盤には、アウトを取るよりも被安打、失点が先に立つようになった。
10月、日本シリーズ進出をかけたクライマックスシリーズ。ソフトバンク戦のベンチ入りメンバーリストに、野田さんの名前はなかった。

ボール②


それでも、まだプロ5年目。
巻き返しをはかる時間は十分にある。

実績もあるだけに、外からみればそう思えた。
だが、野田さんは危機感を募らせていた。

何かのめぐりあわせで結果が出なかった、というわけではない。
ボールの力自体を失ってしまったのだ。おそらく、首脳陣はみんなそれを分かっている。「将来性」を鑑みての猶予期間は、自分には残されていない。

2020年シーズン。
野田さんはサイドハンドからオーバーハンドにフォームを戻した。肩に負荷がかかることを承知の上で、勝負をかけた。

「いつ壊れてもおかしくない。覚悟しておいてほしい」

1月に結婚した妻には、そう告げていた。

球場


野田さんは球威を取り戻した。
直球のスピードは毎時150キロに迫るようになった。

「真っすぐで押せる」

そんな感覚は、いつ以来だろうか。
プロ入り直後か。あるいは、肩を壊す前の社会人1年目か。

今こそ、1軍に呼んでほしい。そう思いながら投げ続けた。
だが、夏場に入っても、お呼びがかかることはなかった。

中継ぎの登板機会と似ているかもしれない。
1軍に昇格できるかどうかもまた、状況に左右されてしまうところが非常に大きい。

そうしているうちに肩の痛みが増し、球威が落ち始めた。
フォームを戻す取り組みは、いわば劇薬。その効果には限界も、副作用もあった。

8月下旬。野田さんはようやく1軍に呼ばれた。
だが、思うような投球ができる状態ではなかった。わずか3試合に登板しただけで、2軍に戻ることになった。

スマホ


2020年11月12日。
野田さんは朝からずっと、スマホを気にしていた。

明日から秋季練習が始まる。
戦力外通告をされる場合は、その前日までに球団から呼び出しの連絡が来る。それが通例だと聞いていた。

つまり、今日という日をやり過ごせればいい。
それがかなえば、また来年もライオンズの一員としてプレーできる。

時計の針が進むのが、かつてなく遅く感じた。
何も手につかないまま、なんとなく数日前のフェニックスリーグでの投球を思い返す。

野田さんはそこで、フォームを再びサイドハンドに戻していた。
肩の状態は悪化しきっていた。もはや、痛み覚悟で勝負をかけることすらできない。それでも来季を見据え、できる限りのことをしようと考えた。

杉山、清川両投手コーチとも「だいぶいい感じだな」と太鼓判を押してくれた。
来年もライオンズのユニホームを着ていたい。あらためてそう思った。

気づけば、外は暗くなっていた。
なんとか、大丈夫だったか…。胸の内に希望のあかりがともりかけた、その時だった。


スマホが小さく震え出した。


コーヒー


「僕はずっと、肩だけのために生活をしていたんだな、と思います」

野田さんはポツリとつぶやく。

彼が眺める喫茶店の窓の外には、クリスマスカラーの買い物袋を抱えた人たちが行きかっている。

野田さんにとって、オフは余暇ではなく、治療に充てる時間だった。
肩が治せるかも。そう聞けばどこにでも飛んで行って、治療やトレーニング指導を受けてきた。

ひとりの時間も、肩回りのストレッチをするのが習慣だった。
少しでも痛みを忘れて、投球ができますように。祈りの儀式にも似ていた。

西武から戦力外通告を受けた野田さんは、12球団合同トライアウトに参加したが、その1週間後には現役引退を表明した。
その瞬間、肩のことを気にする必要がなくなった。それは不思議な感覚だった。治療に割いていた時間がぽかっと空いて、1日が長く感じた。

「急にいろんなことに手をつけられるようになりました。世の中の皆さんはこうやって、どんどん新しいことをはじめていくのかな、と」

ペン


「どこかから野球人生をやり直したい、って思うことはない?」

取材のクセだ。
おつかれさまを言いに来ただけなのに、僕はつい野田さんにそう聞いてしまった。

高校時代。あるいは社会人時代。2018年シーズンかもしれない。
肩を痛めないように、当時の取り組み方を変えることができたら…。僕ならそう思ってしまう気がする。

野田さんは即答した。

「それはないですね。戦力外通告は残念でしたけど、でもやってきたことに悔いはないです」

現役中には見たことがないような、晴れやかな笑顔で語る。

「だって、小学5年生の自分が立てたプラン通りにプロになれたんですよ。170センチもない身体で」

ボール②


頑張れば君はプロになれる。

杉内さんの"魔法の言葉"に導かれ、野田さんはプロの世界にたどり着いた。そして短い期間ではあったが、しっかりと爪痕を残した。

肩の痛みに苦しみながらも、実はプロ5年間で一度も故障者リストには入ったことはなかった。
最後のシーズンも、2軍ではチーム最多の30試合に登板していた。

「特にシーズン終盤は、ファームに人が少なかったんですよね。ブルペンに3人しかいない日もあって。自分が休むと回らないと思って、投げ続けてました」

尽力の結末を知った上で、その言葉を聞くと、無性に切なくなる。
「自分が中継ぎを頑張って、タケさんを先発に送り出す」と言っていたことも思い起こさせる。

「長く一緒に」という願いはかなわなかった。
武隈投手は残るが、自分は去る。それでも野田さんは明るく笑う。胸を張る。

「場所はどこであれ、最後までチームのために投げ続けることはできた。これはホント誇りだし、人生の自信、今後の糧です」

球場


今後の糧、と彼は確かに言った。

「そうですね。引退は1つの節目ですけど、人生はこれからです」

実はもう、次にやりたいことは決まっているそうだ。

「だからスパッと引退を決意できた、というところもあります。いずれ報告しますね」

身体が小さくても、頑張ればプロ野球選手になれる。
子どもたちにそう伝えたいとは思う。ただ、そこには責任も伴う。

「だから、ここからこそが大事だと思うんです。身体が小さくてもプロになれることは示せた。次は身体が小さい僕だからこそのセカンドキャリア、というのを形にしたい」

厳しい現実にぶちあたる結果になったとしても、かけがえのない人生の糧は得られる。夢を追うことには、それだけの価値がある。
野田さんは人生を通して、子供たちにそう伝えたいと思っている。

これからも充実した人生を送ることは、子供たちに夢の道筋を示すことでもあるのだ。

コーヒー


野田さんが去ったテーブルで、僕は冷めきった紅茶に口をつけた。

もっと現役で活躍する姿を見たかった、という気持ちは変わらない。
特に高校時代の話を聞くと「肩を壊さずにやる方法はなかったのだろうか」と思ってしまう。

ただ一方で、他のやり方をとっても、プロの世界に爪痕を残せる保証などない、というのもわかる。
野田さんのように小さな身体で挑戦するなら、なおさらかもしれない。

誰もが納得するような答えは、おそらくないのだろう。
プロの世界は、最終的には自分がどう思うか。そこに尽きる。

◇   ◇   ◇


もうひとつ、彼の言葉に思う。

「自分がどう思うか」は、到達点をどこに置くかで大きく変わってくる。
これはプロ野球選手に限らず、僕ら一般的な社会人にも当てはまるような気がする。

SNSのタイムライン上では、誰かの成功が、誰かの成功で塗り替えられていくようなところがある。
だから目につくのは、どちらかというと短いスパンでの結果、総括が多い。

そういう尺度ではかるなら「プロ5年で引退」は決して喜ばしい結果ではないかもしれない。
肩に痛みを抱えながら、2軍の試合を成立させるために投げ続けて戦力外…というのも、SNS映えするライフハックとは程遠いやり方だ。

だがこれを「人生の糧」ととらえるなら、見え方はまったく違うものになる。そもそも、総括するタイミングですらないのだ。

自分はどこを見据えて、どんな生き方をしていけばよいのだろうか。


そう考えながら、喫茶店を出る。

来るときには気づかなかったことに気づき、ハッとする。
人の波とクリスマスリースにばかり、目が行っていたのだと思う。

その日の冬空は青く、とても美しかった。





※もちたろうさんのnote記事を参考にさせていただきました。ありがとうございました。

※LINE NEWSで2019年に企画させてもらった、ライオンズのブルペンを定点観測する動画連載です。こちらも野田さんと武隈投手のやり取りから思いついた企画でした。本当はモチーフにもなってもらうはずでしたが…


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?