見る行為は、見ることだけではない

映画「ナイトクルージング」(https://nightcruising.net/)を観た。とてもおもしろかった。

この映画は全盲の人が映画を監督として作る様子を追ったドキュメンタリーだ。そのため本編の中でその作られた映画そのものも上映される。二つのそれら作品を観て、「見る」もしくは「観る」ことは、視覚情報を受け取ることだけではない五感や認識を総動員させて感じることであり、その「観る」時間を生きてさらに「観た」ことを自分に反映させてその後も生きていくこと、その総体なのだということを再認識させられた。

本編の序盤に数人登場する視覚障害を持つ人たちが好きな映画を「観た」ときのエピソードについて語るのを観るとき――その人たちは映画を「観る」「観た」と言う、批判を甘受すべき形容をあえてするならば、「聴く」などとは言わずに――「観る」という一語にその人の感覚や認識が全力で注ぎこまれているのだということを感じたし、一般的な方法や過程で作られ公開される映画に、視覚を刺激したり視覚経由で伝えようとする物事以外の様々な要素が意識的にでも無意識的にでも含まれることの大事さ、むしろその視覚に対する表現以外の表現や構想――安易な言い方をすれば目に見えない要素、映されない部分の設定や世界観や作る過程――が豊かであることが作品を薄くなく本当におもしろくするのだと思った。

自分は視覚を通して映画を観ているので本編終盤の公園での会話の場面の色、太陽の光がやわらかく明るく差している画面の様子を美しく安らかな気持ちで観たが、その「太陽の光がやわらかく明るく差している様子」「を美しく安らかな気持ちで観る」ような認識というか言語なり言語以外の手段ででも表現されうる「イメージ」のようなものを、この映画の中で映画を作っていた加藤秀幸さんは様々な人たちと様々な手段を用いて対話を重ねて作品にした。そしてその作品は映像がある、というよりも音も付いた映像作品そのものだ。この映画の序盤に出てきた視覚障害を持つ人たちが「観た」映画を語るときのように、自分は加藤さんが作ったこの作品を「観た」と言えるだろうか。視覚を通してのみで観てしまっているのではないか。また、加藤さんが持つイメージの奥行やそれを言語で表現しようとする意志の強さと粘り強さが自分にもあるか、それを他の人にも具体的にイメージして形にしてもらおうとするために自分ができることを行うかつ増やしていくことが同じくらいできるだろうか、と問われるような気がした。

とは言え全編楽しく見られる映画だった。加藤さんが音楽が好きなことや、アフレコのときをうれしそうに振り返る様子は正直ほっとさせられてしまうものもありつつ、おいおいと突っ込みたくもなった。加藤さんは映画作りや映画について考えることが楽しそうで作ることにまつわる出来事も丁寧に楽しんでいてその様子をたくさん味わえて幸せな時間だった。

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