のび太が書いた一月二日の日記は十三字で前日より大幅に短くなっていたことを思い出した

 背中の右側から首にかけての痛みもありパソコンを立ち上げる気力が出てこないのでスマートフォンからアクセスして書き始めることにした。スマートフォンから書くことに薄く抵抗を感じたことも、すぐどうでもよくなって書き始めたことも自分にとってはやや新鮮な心境に感じた。しんきょうと入力すると予測変換の筆頭候補に「新京極」と出されて、そういうところがスマートフォンで「ものを書く」気になりづらいところなんだなと思った。

  一日にジュンク堂が開いていないことに不意討ちを受けたような気持ちになってしまったまま、三省堂の地下の通路をわずかに億劫な気持ちを帯びたまま通り抜け文庫売り場に向かって、正月だから読める(=緩い気持ちのまま読み切れる)かもしれないと思って『富士日記』を買って帰るつもりだったが、端から探すと見つかるのに時間がかかる位置にあった中公文庫の棚には(中)(下)しかなかった。別にどこから読んでもいい本だからまずは上巻がなくてもいい気もしたし、(中)だけとりあえずかなとも思ったが、後にすることにした。

 漠然としたかつ普段より太い購買欲が残っている状態で講談社文芸文庫の棚が現れるのは非常にまずいが、その状態でその棚をスルーできることはまずない。『寺田寅彦セレクションⅠ』『寺田寅彦セレクションⅡ』をつかんで、あと『私に付け足されるもの』を買うのを思い出してそれも手に取った。

 寺田寅彦の書いたものがたくさん載っている本をコートのポケットに入れて電車に乗ったり街を歩くのはとても安心感を覚えるというか、電車に無防備に乗っているのではないような気持ちにさせられた。『寺田寅彦~』と『私に~』を交互に読んでいると、本では百年やそれ以上の時間が離れた作品(というか書かれた誰かの言葉)を行き来しても自分が同じだけ緩んだ構えのままその両方を読んで味わえることがあって楽しいなと思った。音楽ではなぜかあまりそう思わない。

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

1
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。