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無知は独善

私の好きな言葉で”無知は独善”というものがある。

人間はいつも何かを思い込んでいる。私もあなたもおそらくあの頭のいい人も、今も何かを思い込んでいる。そして人は自分が思い込んでいると気づいた時には、もう思い込んではいない。つまり私たちはいつも何かを思い込んでいて、そして思い込んでいることに気づいていない。

独善という状態は自分の正しさを疑わず、一方向からしか物事を見られていないのだと思う。つまり視点の固定化だ。人生では若い時には正しいと信じて疑わなかったことがある経験を経てそうとは限らないと気づいたり、明らかに正義だと思っていたものが現場に行ってみるとそうではなかったことと気づくことがある。自らの偏見に気づいた時、自分の正しさは一つの見方でしかなかったということに気づく。何度かこのプロセスを経て、人は自分が今言っている正しさは、将来も言い切れるとは限らないと知るようになる。正しさや善というものは、価値観を固定しないと存在できない。自分の価値観は、誰もが持つ普遍の正しさだと信じることを私たちは”独善”と呼ぶ。

経験上、自分が独善の状態にいる時に、私自身はそれを認識していなかった。むしろどうしてこんな当たり前の正しいことにみんなは気づかないのかと憤っていた。私はわかっていて、みんなはわかっていない。だから教えてあげないといけないと思っていた。あの時は本当に自分では善いことだと信じて人に自分の価値観を押し付けていた。独善の状態は心地よい。何より自分自身は正しいのかどうかと疑う視点がないから心に葛藤がない。

独善の状態で突っ走ることも重要な時期もある。アスリートであれば何かを一心に信じることは大事だし、プロジェクトを始める時もいちいち自分を疑うわけにもいかない。むしろ独善である人間について行く方が迷いがなくて楽なこともある。何しろ何が正しいかは全て引っ張る人が決めてくれる。失敗すればその人の判断が間違えていただけだと糾弾することもできる。

問題はどのタイミングでこういった自分を客観視すればいいかということだ。自分は独善であったといつ気づけばいいのか。気づかないままいければいいが、多くの場合独善状態はあまり善い未来を招かない。少なくとも周辺の人間は疲弊し、苦しみ、離れて行く。独善の人の周りは同じ独善の人で固められがちだ。極論は極論を呼び先鋭化する。私は、友人の多様性が独善から気づくために大事だと思っているが、友人にも相手を選ぶ権利があるので独善的な人と友人でいたい人がどのくらいいるのか。

無知は独善だと私は思う。そして独善状態の時、人は自分が独善であるなんて考えもしない。

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