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感謝を科学する

よく企業やチームが感謝を重要な要素としてあげている。昔は感謝のような言葉は、なんとなく日本の精神論のように感じてあまり好きではなかった。ところが最近感謝をしっかりと考えてみたが、これは面白い。

さて、感謝とは何かを調べると

”ありがたいと思う気持ち。またそれを表明すること”

と出てくる。ではありがたいとは何かを調べると

”感謝を表すこと”

などと出てきて堂々巡りのように感じられる。ありがたいの語源は有り難さからくるそうだ。つまり、珍しいこと、または日常的に有ることが難しいということだ。そう考えると感謝の背景には、それが有り難いこと、つまり希少なことだという感覚があるのではないかと推察する。

さてその上で感謝に戻る。一体感謝できる人間とできない人間の違いは何か。一言で言えば想像力の差、見えないものまで見えるかどうかの差に尽きると思う。

例えば、チームや組織に感謝するという人は、自分が見えていないところで組織を支えているであろう存在に想像力が及ぶ。また時間軸を広く取ると先に信用を積み上げた人にも想像力が及ぶ。反対に表面しか見えない人は、自分の貢献しか見えていないので、感謝する気が起きない。

社会は当たり前に動いているように見えて当たり前ではない。これは日本語で書いているから日本人が多く読んでいると想像するが、日本の環境は地球上でも極めて安定している。これからはわからないが、途上国に行くと日本に生まれて育った時点で、随分下駄を履いていることに気がつく。

自分が生まれてきたということ自体受け身の行為だ。吉野弘のI was bornという詩にその思いが綴られている。私たちは自分が意図せずしてこの世に生を受ける。自分が自分として生まれるのは確率的にいっても極めて低い。

また、生命そのものがこの地球上になぜ誕生し、発展したのか。意識を持った人間という存在になぜなりえたか。ホモ・サピエンスがどうして王者として君臨したかについても必然であったとは考えにくい。奇跡のような偶然が積み重なって今のような状態に至ったのだろうと想像する。

つまり広く深く知れば知るほどにこの当たり前の日常がいかに有り難いものかを思い知らされる。一言で言えばこの毎日の当たり前が不思議でしょうがない。三浦梅園は「枯れ木に花咲くより、生木に花咲くを驚け」と言っている。私はこのような想像力と思考力が感謝の底支えになっていると思う。

感謝を重要視する組織の本意は、自分という存在およびこの生の有り難さに気づく程度に、知識や教養を身につけ、見えないものを見る想像力を身につけ、それを自覚せよということではないかと思う。それはつまるところ視野の広さと思考の深さを意味していて、要するには賢くなれよということではないだろうか。

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