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あるがままと現状肯定の違い

よく「あるがまま」を受け入れようという話をすると、それじゃあ現状の問題は何も解決されないし社会もよくならないし、ただの「ことなかれ主義だ」だ、という意見をもらう。

まず「あるがまま」を受け入れることは、言葉の通り「あるがまま」を受け入れているわけで、現状を肯定しているわけでも否定しているわけでもない。ただ石がその形でそこにあるというのが「あるがまま」を受け入れているということで、石は丸であるべきなのにあの石はなぜ角ばっているんだというのは自分の判断が入っている。サバンナでシマウマがライオンに食べられましたという世界も「あるがまま」見ればただそうでしかないが、ライオンに食べられたシマウマがかわいそうじゃないかには判断が入っている。あるがままの世界には善も悪もない。

一方「現状肯定」の方は、現状の不満は捉え方を変えて受け入れていきましょうという考えに近い。
現状を変えるのは困難である→だから捉え方を変えることで対応する→自分にとっての意味が変わる。
現実社会ではこの対処はとても大切で、世の中は複雑でほとんど思うようにはならないから、上手に捉え方を変えていかなければとてもやっていけない。一方で、これは問題を解決しているわけではないので(それが問題だと感じる時点で自分の判断が入っているが)、確かにこういう事ばかりやっては世の中は何も良くならない。

「あるがまま」を受け入れるというのは、そもそも見る人がいなければ悪も善も存在しないという立場にたつことだと思う。私がいなければ私にとっての世界はない。一方「現状肯定」は現状の捉え方を肯定的に変えようという眼鏡の架け替えになる。「あるがまま」は眼鏡を通じて見ているということに気づきましょうで、「現状肯定」は眼鏡の架け替えによって対応しましょうという違いに思える。そういう意味で「あるがまま」と「現状肯定」は同じレベルにあるのではなく、少し段階がずれている。

「あるがまま」を受け入れるということは、一言で言えばはやとちりをしないことだ。自分を一旦は置いておくことだ。判断や思考や価値観が湧き出る前の、それがそれでしかあり得ないという無分別の世界に一瞬浸るということだ。踏み込んで言えば石を見た時にそれが石だとわかること自体もすでに言語的に分別しているから、本当の「あるがまま」には物の境界線もない。

「あるがまま」は常態ではない。一旦「あるがまま」に浸った後は、”私”がすべきだと感じることをする。世の中のあるべきをするのではなく”私”のすべきだと感じることをする。なんだ結局普通の行動と同じじゃないかと言われるかもしれないが、この段階を踏むだけで随分違う。善悪があるという世界と、善悪を自分が決めたという世界は大きく違うように。

そう。「あるがまま」を経た後の世界には取引がない。「このぐらいやったらこのぐらい返ってくるはずだ「あの人は行いの報いをきっと受けるはずだ」という等価交換の感覚がない。いつかは報われるという前提で行う善行や努力は、見返りを期待している分落胆も嫉妬も大きい。「あるがまま」の後の世界は、博打に近い。行動と結果の間に関連がない。ただすべきだからしている世界に取引はない。

私たちは眼鏡を外すことはできない。しかし、眼鏡をかけていることに気がつくことはできる。

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