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【試し読みおまけ!】吉田靖直『今日は寝るのが一番よかった』から、先どり公開!

バンド「トリプルファイヤー」のボーカル・吉田靖直さん最新エッセイ集『今日は寝るのが一番よかった』1月22日、ついに発売!!

【オビあり】今日は寝るのが一番よかった

この1年で立て続けにエッセイ集を刊行している吉田靖直さんが、今回初めての全編書下ろしに挑戦! その発売を記念して本書から1回分を丸ごと公開します。全3回の予定でしたが、発売を記念しておまけの4回め!

神社の息子の私とスピリチュアルなバイト

 割とスピリチュアルなものに興味がある方だ。
 飲んだ帰りにフラッと路上の占い師に占ってもらったことも何度かあるし、引き寄せの法則に則り願望を1日
20回書く作業を数ヶ月にわたって継続したこともある。ライブのある日には近所の神社にお参りする。人が見ていなければ、鳥居をくぐる時に一礼もする。

 スピリチュアルに興味があるといっても、シュタイナーとかアカシックレコードとかスケールがでかそうなものはけっこうどうでもいい。
 自分に直接作用しそうなものにしか興味が湧かないことが私の知的成熟度を表しているのかもしれない。

 私が比較的スピリチュアルな人になったのは、元をたどればやはり実家が神社を運営していることが大きい。
 小学一年生のとき、親から突然「今日から学校に行く前に神社の階段を掃除しろ」と命じられた。子供には断る権利がない。親がやれと言ったことは絶対だった。めちゃくちゃ嫌だった。

 100段近くある神社の階段に落ちている葉っぱを箒で左右に掃き寄せる作業は、季節によって所要時間も変わるが平均で20分くらいはかかる。
 毎朝20分はでかい。たまに時間がなくてサボる日があると家に帰ってから怒られ、結局夕方に掃除させられる。みんなが遊んでいる時になんで自分だけこんな面倒なことをしなくてはならないのかと家業を恨んだ。

 階段を掃除しながら上って行くと神社の本殿がある。親には「毎朝神社に手合わせてから学校行けよ」とも言われていたが、命令に背いた証拠が残るわけでもないのでその部分は勝手に省略していた。
 しかし掃除中、早朝から神社にお参りする信心深い大人たちとすれ違ううちに、お参りした方が何かいいことがあるのではないかと思い始めた。

 初めて自発的に神社にお参りしたのは、50メートル走のタイムを計る日だった。
 小学校低学年の頃の私はクラスで一番足が速く、それを何より誇りにしていた。みんなが驚くようなタイムを出したかった。神社に手を合わせたからといって結果が変わるわけでもなかろうが、逆に遅くなることもないだろう。
 面倒に思いつつも10秒ほど手を合わせ「いいタイムが出ますように」と願掛けしてから学校に行った。

 実際にいい記録が出たのかは覚えていない。でもその時、「もしお参りしていなかったらもっと遅いタイムだったのかもしれない」という証明しようのない論理が自分に植え付けられた気がする。
 それ以降、何かイベントごとがある日には掃除のあとお参りしてから学校に行くようになった。

 小学校高学年や中学校になると嫌なことも増えてきた。
 学校でいじめっ子に鉛筆を折られるかもしれない。女子にキモいと思われるかもしれない。逆に、お参りすれば好きな子が私に好意を抱いてくれるんじゃないか。不安と期待が大きくなるにつれ、朝のお参りの頻度も増えた。高校生の頃には神社に参ってから学校に行かないと風呂に入っていない日のようなストレスを感じるまでになっていた。

 その頃には毎日の行き帰りの電車でも、創造性に作用する緑色の気を宇宙から吸い込むイメージで瞑想をしたり、丹田を意識して生活したりと他のスピリチュアル行動にも手を広げるようになった。

 大人になるとスピリチュアルなものに対して前よりはクールな態度を取れるようになったが、求めているわけでもないのになぜかスピリチュアル寄りのバイトに縁があった。
 たとえば、存在しない占い師の振りをしてサイトの会員にメールを送るバイト。文章作成のバイトと聞いて応募し、働き始めてやっとわかった内情は思っていたよりヤバかった。

 占い師の言葉に説得力を持たせるために、ネット上からスピリチュアル系の文言をパクってきて「アファメーションしていますか?」「金運の波がやってきています!」「遂に○○年に一度のアセンションの時が来ました」といったメールを作る。それを1万人以上のサイト会員へ一斉にばらまくと、100人前後から返信がくるので、
「もう少しで運気を掴めそうです」と適当な理由をつけてやり取りを引き延ばす。
 メールを送れば送るほど、会員はお金が掛かるというシステム。出会い系サイトのサクラと同じだ。ひどい仕事である。

 当時、スピリチュアルな文章を書くために、占い師のホームページをたくさん見た。その作業をしているうちに、スピリチュアルを謳う人に対する懐疑的な目がかなり強くなった。
 ヒーリングというジャンルがある。たとえば「体の悪い部分に手を当てて気で治療する」というもの。まあ相当胡散臭いが、そういうパワーを持った人もこの世界のどこかには存在するかもしれないと思えないこともない。

 しかし「遠方の方は電話をしながら遠隔でパワーを送ることもできます」などと言い始めると、さすがに雲行きが怪しくなってくる。間違えて別の人にパワーを送ってしまったりしないのだろうか。そんなことができるなら全員それで送ればいいんじゃないか。そういうものなのだと言われてしまえばどうしようもないが。

 それでもさすがにインチキだろうと言い切りたいものもある。
 よく覚えているのは、「遠隔ヒーリングで七福神の金運をあなたに授けます」というもの。「恵比寿さま、大黒さま、毘沙門天さま……とそれぞれの運気を順番に送っていきます」とそのサイトには書かれていた。

 納得がいかない。
 まず、目に見えない神様のようなものがいるにしても、七福神のような具体的で縁起の良さそうな形は明らかに人間が便宜的に作ったとしか思えないのが一つ。そして百歩譲って七福神がそういうチームで揃ってどこかの世界に存在したとして、いち人間がその力をコントロールして勝手に人に分け与えて良いのか。知らないけど多分ダメだろう。

 極め付けにそのサイトにはこう記されていた。「お送りした運気がもしこぼれてしまったとしても、舟に溜まっていくので心配ありません」

 舟。
 それはつまり、年賀状とかでよく七福神が乗っている宝船のことである。
 舟。舟か。
 舟に運気が溜まっていく。いつの間に私は七福神の舟に乗っていたんだろう。
 七福神はいつも舟に乗っているのか。乗っていない絵も見たことがある。七福神は乗っていたとしても、私たちは七福神ではないので舟に乗せてもらえないと思う。乗せてもらえたとしたら、ヒーラーの人が何もしなくても勝手にすごい運気が来そうだ。
 というか、運気ってそんな汁みたいに下に溜まっていくものなのか。その上を裸でゴロゴロ転がっていれば運気が体に染み込んでいくイメージで合っているだろうか。頭がおかしくなりそうだ。

 この遠隔ヒーリングの料金が今なら5万円。そうサイトには記載されていた。よくアフィリエイト広告で飛び出してくるようなギラギラしたサイトではなく、綺麗な心で真面目にスピリチュアルに取り組んでいますという雰囲気の個人サイトでこんなことを書いているから怖い。

 バイトの作業内容は今までになく自分に向いていて楽だったのだが、自分の運気が下がりそうなので1年ほどでやめた。
 余談だが、おそらく法の網の目を掻い潜るためか、1年の在籍期間中に会社名が二度変わった。

 次も文章系のバイトで行こうと探して見つかったのが、池袋にあるスピリチュアル系出版社のバイト。なんでまたスピリチュアルなんだ。でも文章系のバイトはそれしか見つからなかった。

 面接に行くと、実家が神社だと言った瞬間に明らかに面接官のテンションが上がって余裕で採用された。
 しばらく働いてわかったのだが、唯一の上司である女性も、私とほぼ同時期に採用されたバイトの女性も、オーガニックな素材の服を着て腕にパワーストーンの数珠を何本も巻いているちゃんとスピリチュアルに傾向した人たちだった。

 スピリチュアルを舐めくさりすぎている前のバイトも嫌だったが、本気でスピリチュアルな人にもそれはそれで気を遣う。
 そして文章作成をすると聞いていたはずが、実際は占いの本に載ってもらうために占い師の先生に電話で営業を掛けまくるバイトだった。しかもこちらがお金を払って載ってもらうのではなく、広告になるからということで1ページ何万円というお金を貰って掲載する、占い師に対して失礼とも言える営業だった。結構な営業能力がないと成立しない。

 予想通り、私ももう1人のバイト女性も一件も契約が取れないまま数週間が過ぎた。
 上司のイライラは募り、私は仕事場に蔓延する邪気を祓えと毎朝神棚に向かって祝詞を上げさせられるようになった。もう1人のバイト女性は若干口答えするせいで特に目を付けられていて、社長から「悪い気が体から出ているのよ!」とイチャモンをつけられ塩を撒かれるなどしていた。

 なんて嫌な職場だ。こんなバイトに辿り着くしかなかった自分の身の上が憎い。
 契約を取れないまま電話営業担当を外された私は、出版社が定期的に主催しているスピリチュアルセミナーの手伝いをするようになった。
 ビジネスクラスで海外旅行に行けるようになると信じ続けていたら今ではそれが当たり前になった、と語るセミナー講師と、それを熱心に頷きながら聞いている有機野菜を好きそうなおばさんたちの姿が記憶に残っている。

 私はスピリチュアルなものが結構好きなのだと思い込んでいたが、たとえば鋲のついた革ジャンに破れたジーンズを穿いているパンクスのような、いかにもイメージ通りなスピリチュアルの人は受け付けなくなってしまった。普通の俗っぽい欲を何か崇高そうなもので覆い隠そうとしているように感じた。

 今でも家の近くの神社によくお参りをするが、お願いごとをすると私が苦手なスピリチュアルに近づいて行きそうで抵抗がある。
 だから神前で頭を下げる時にも心の中で「ありがとうございます」と言うだけに留めるか、何も考えていない。

 しかし私の心のどこかには、そんな無欲な私をこそ優先して開運してください、という気持ちがあることを否定できない、というか確実にある。
 一番欲深いのは私なのだろうか。神様に嫌われたくない。スピリチュアルへの納得のいく向き合い方を今もまだ探っている。


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