電子書籍時代の読書体験を考える(橋本大也、講演録)

「電子書籍時代の読書体験を考える」
国民読書年記念シンポジウム「読書とはなにか」

2010年10月20日 於 国立国会図書館
橋本大也

■1Q84と紅白歌合戦

村上春樹の1Q84を読んだ方は会場にどのくらいいらっしゃるでしょうか。ちょっと手を挙げてみていただけますか。ほお、なるほど、結構いらっしゃいました。さすが国会図書館のシンポジウムですよ。熱心な読書家が集まっているのですね。ちょっと異常な確率です。本来は300人の会場に3人いるのが平均なのですから。

1Q84はBook1と2、そしてちょっと遅れて出た3の3冊合計で300万部を突破したミリオンセラーの作品です。読者は約100万人超ということになりますね。つまり日本国民の100人に1人という確率なのです。その年に1番売れた本でもその程度ということです。

はい、それではもういちどお手を拝借。昨年の紅白歌合戦を観たという方、挙手をお願いします。はい、ありがとうございます。

おおざっぱな計算ですがテレビの視聴率の1%は約100万人にあたると言われます。10%なら1000万人、昨年の紅白みたいに40%くらいだと4000万人が見ていることになります。国民的といってよいですね。それで1Q84をテレビ番組だとすれば、1%の視聴率の番組と同じレベルということになります。普通は視聴率が1%では即刻打ち切りですけれど。

紅白歌合戦はみんなが見ている。だから翌日、紅白の話で盛り上がることができます。一方で、同じ本を読んだ人をみつけて、その内容で盛り上がるのはなかなか大変です。年間に7万点を超える新刊書籍が出版されています。相当本を読んでいる同士でも、”あの本”について盛り上がるのは難しいんです。年間300冊読む私でも実社会では苦労します。

ちなみに本当に国民的な作家って誰かは御存じですか。ベストセラーの部数をWikipediaで調べてみるとこんな表が載っていました。

赤川次郎

累計3億部以上
西村京太郎
累計2億部以上 
司馬遼太郎
累計2億部近く 
森村誠一
累計1億部以上 
内田康夫
累計1億部以上 

■ソーシャル・リーディング 読者のコミュニケーションが生み出す知

でも、ネットを検索すると同じ本を読んだ人の感想が見つかります。たとえばグーグルで「1Q84 感想」という二つの言葉でネットを検索すると、10万件を超えるヒットがありました。アマゾンにも多くの本に読者レビューがみつかります。リアルの世界では同じ本を読んだ人や感想をみつけるのが困難なのに、ネットでは比較的やさしい。

モテキって言葉を御存知ですか。漫画からでた言葉で同名のドラマにもなりました。人間には異性に突然もてる時期があるということなんですが、デジタル化の波に乗って、本のモテ期が、これからはじまろうとしているのじゃないか、というのが私の意見です。本は間違っても更年期・熟年期じゃないのです。新たな青春のモテ期ですよ。

同じ本を話題に読者がネットで盛り上がる。すでに米国ではソーシャル・リーディングという言葉が発明されています。Amazonの電子書籍端末であるKindleには、Popular Highlightsという機能があります。Kindleでは電子書籍の上にアンダーラインを引くことができます。読者が本文に注釈の書きこみができる電子書籍もあります。

紙の本にアンダーラインをひくという行為は個人的なものですが、Kindleでは世界中の読者がラインを引いた個所の情報をネット上で集約して開示します。そうすると、本の中で具体的に何ページのどの部分がみんなの目を引いたのか、役に立ったのか、つまり、何がモテたのかが一目瞭然になるのです。

■リンクされてモテる本

電子書籍内のテキストからウェブへ、ウェブから書籍内テキストへ、あるいは別の電子書籍へとリンクを張ることももちろん可能になります。よそからリンクされるということは人気がある、モテているということです。こうしてモテモテの本のランキングができて、そこから本が発見され、売れていくというのがソーシャル・リーディングの世界です。出版社の広告や本屋の営業だけじゃなくて、本当にモテてる事実で本が露出していく。

検索エンジンはリンクが多いページを検索結果表示ページの上位に表示しています。ソーシャル・ブックマークといって、みんながブックマークしたページや、残した注釈を公開・共有するサービスがあります。たとえば「はてなブックマーク」というサービスがありますが、100人くらいにブックマークされるとランキングで目立つので、それを見た1000人くらいがブログに来訪してきます。

本当に読まれている本は何か。本当に読んだ人が、どこをいいと思ったのか。そういうことがこれまではあまりわからなかった。本当に面白い本との出会い、自分にとって最適な本との出会いを可能にするのが、デジタル化、ネットワーク化された本、ソーシャルリーディングの時代です。読書×コミュニケーションで何ができるか、ソーシャルリーディングで何ができるかが私の一つ目の問題意識です。

■検索とリンクで出会い

そして本との出会いに重要な要素としてはもうひとつ「検索」もあります。目下、開発中の国立国会図書館サーチやグーグルのブックサーチなどでは、紙の本も電子の本も、本文のテキストが検索できます。出会いの機会が倍増します。

たとえば今、私たちは国立国会図書館にいますが、国立国会図書館が出てくる小説を探すのは、従来は非常に難しいことでした。物語の中で登場人物が文献調査をしたりするシーンで出てくるとか、探せばきっと何百冊もあるのでしょうが、相当の知識を持った図書館司書だって、10冊もあげられたら優秀ではないでしょうか。網羅的になんて絶対に探せません。

でも、これからブックサーチが完成すると、全部検索で見つかるようになります。国立国会図書館という言葉が入った新刊書籍がでたら。ケータイにメールがくるなんていうアラート機能だって実現されるでしょう。趣味や関心のキーワード、人名や地名、座右の銘だとか好きなフレーズなど、書籍の内容の細部にこだわった出会いができるようになるでしょう。これまでは本棚のカテゴリや著者名から探すことが多かった本ですが、興味関心の具体的なキーワードから出会える、これって本と人間の恋愛関係にとってきっと凄い革命ですよ。エクボが好き、アバタが好き、メガネっ子が好きなんていう風にマニアックに異性を探せるのと同じですからね。

探す場所も本屋やPCの前でけではなくなります。もちろん電子書籍端末やケータイというのはあるのですが、それに加えて先週グーグルテレビというウェブ検索機能のついた次世代型テレビが発売になりました。ウェブとテレビを一画面で同時に見たり、番組とページを一括で検索したりができるんですね。お茶の間で本と出会うことも増えるはずです。

■ザッピングされる本、1章が1冊に増殖する本

ところでテクノロジーは恋心も変容させます。ある研究によると中学生とか高校生の恋愛のペースが短くなっているそうです。ケータイとネットが登場して、出会いの機会が増えたけれど、関係が燃え上がる期間も短くなっているんですね。本のモテ期にも同じ現象がおきそうです。一冊の長い本をかじりついて最初から最後までじっくり読む人が減ると思います。

テレビのザッピングやウェブのサーフィンと同じように、書籍のページをざっと見て、必要な個所だけ利用する。音楽がレコードCDの時代からiPod、iTunes、MP3の時代になって、アルバム全体をじっくり聞いてもらえなくなったのと同じです。

書籍の新刊点数は今は年間7万点くらいだと言いましたが、10年後には軽く10倍になると見込んでいます。いや100倍だってありえますかね。電子書籍の出版点数が、紙の本を抜く日はすぐにやってくると思います。

紙の本を作ろうとすると印刷や流通に乗せるのに何十万円、何百万円もかかります。だから本を出せる人は選ばれた人でした。でも電子書籍はそのコストがゼロに近くなります。出版社や編集者だって不要かもしれません。パソコンで書いて、フォーマットして、ネット書店に登録するだけ。コストなんて数百円から数千円です。猫も杓子も電子の本が出せる時代になるのです。

十五万字書かないと一冊の本が成立しないという前提も変わります。私は「一万字新書」が増えると予言していたのですが、先週発表されたKindleという電子書籍のフォーマットは、文量が1万~3万語(約30ページから90ページ)程度のコンテンツということでした。著者は細かいテーマに分けて短い本をたくさん書くようになるでしょうね。従来の1章が1冊になるのです。

■うつろうテキストと相対化される権威

それから電子書籍は内容の修正改版が容易です。王の言葉、神の言葉が石板に刻まれていた時代はテクストは永遠に不変でした。でも液晶ディスプレイに表示されるデジタルのテキストはうつろいやすいのです。ウェブ、ブログではよく間違いを後から訂正します。次の日に読みに行ったら逆のことが書いてあるかもしれないわけです。ソフトウェアがベータ版として公開され、バージョンアップしていくのと同じように、電子化された書籍もまた更新されていく可能性があります。

岩波新書から『読書論』という本が1950年に出ています。小泉信三という慶応義塾大学の塾長で天皇陛下の家庭教師をつとめた経済学者が書いた本なのですが、古典的な読者のあるべきモデルを説く内容です。

大著を努力と忍耐で読め。「難解の箇所にぶつかっても、辟易して止めるな、ともかくも読み進んで、読みおえて顧みれば、難解の書と思われたものも意外によく解るものだというのが私の主旨である。」。普遍的な正しい解釈を求める学僧のような読者であれというわけです。論語の素読の精神に近い。わからなくても気合で読め。そのうちわかってくるから。

うつろいやすい電子テキストにそんな読みをする読者はいないでしょう。逆に正しい解釈の価値が小さくなるかもしれないと考えています。読者の好き勝手で自在、恣意的な読みこそ、ネット上のテキストの真骨頂だからです。

■読みかえで豊饒化するテキスト

私は2600日連続で毎日ブログを書いています。ウェブ上には何万件もの引用やコメントがあるのですが、多くは私の真意を理解してくれていません。いやそういう意味でいったんじゃないんだけどな、なんでそこだけ切り出して使うかな、と不満を感じることが多いです。でも自分が他人のブログを引用するときのやり方を反省してみると、実際、自分も他者のテキストを我田引水な文脈によく使うんですね。「こういう意見があるけど私はこう思う」式の物言いは、自分勝手な読み変えが本質ですね。

アルベルト・マングェルという学者が書いた「読書の歴史 あるいは読者の歴史」というまさに今日のお題「読書の過去・現在・未来」をまとめた本があるのですが、面白いのは古今東西で古典がどう読まれてきたかという研究です。これが意外にも、正しい解釈を考古学的に追い求めるのではなくて、同時代の自在な読み変えの歴史なんですね。

マングェルはこう書いています。「読書において、「最後の決定的な言葉」というべきものがないのなら、いかなる権威も「正しい」とされる読みを我々に押しつけることはできない。」

ユダヤの教典タルムード研究者たちは原典に対して注釈を加えたが、常に古い注釈を批判的に読み、原典に立ち戻ったつもりの再解釈を加えていった。結果としてひとつのテクストから無限ともいえるような創造が行われていきました。テクストの意味は読者の能力と願望によって拡充される、というのです。

「ときには読者の無知により、またときにはその信仰によって、あるいは読者の知性や策略、悪知恵、啓蒙精神などにより、テクストは、同じ言葉でありながら別の文脈に置き換えられ、再創造される。まさにその過程で、テクストはいわば生命を与えられるのである。」

書籍は読者層をある程度選びましたが、ネット上のテキストには年齢、職業、教育レベル、信条、宗教、国籍の多様な読者がいます。検索に引っかかっちゃうから、小学生が難解な医学書の1ページを拾ってしまうかもしれませんし、100年前の本を見つけるかもしれません。ネットではブログの我田引水や意図的な読みかえが頻繁に起こります。そこにこれまでにない意味や価値の創造、文化の創造が花開いていく、と思うのです。

■「検索知識人」と「うろおぼえ力」

本を知識の源として使うスタイルも大きく変わるでしょう。いやもう変わってきていますね。アレクサンダー・ハラヴェという人が書いた「ネット検索革命」という面白い本があるのですが、「検索知識人」という新しい知の様式を定義しています。

そういえば、検索すればわかる、とか、あの人に聞けばわかる、いうことは多い。従来はそれは知識とはみなされなかったが、ネットやソーシャルネットワークを使って即座に知識を引き出すことができる能力は、ほとんど知と同義です。会議でわからない言葉が出てきたときに、さっと机の下に隠したケータイでウィキペディアにアクセスして「ああ、それってこういう意味ですよ」と教える。元から知っていたのか、いま調べたのか、周りの人にはわかりませんし、どっちだっていいのです。チームにそういう検索知識人がいることは価値なのですから。

知識の有無や広がりをぼんやりとでも広範囲に把握しておく「うろおぼえ力」は重要になります。まずは雑学的知識を広範囲に大量に持つことです。歳をとってくると名前が思い出せずに”ほら、あれをあれしておいて”なんて言いますが、いいのですよ、それで。名前は調べれば出てきます。やり方があることを知っているのが知です。

そしてネット上に、それらの詳細の知の分布状況を熟知していること。ウェブで探せばだいたいこのテーマはあそこらへんにこれくらい落ちていると理解していること。ネットという世界最大の知の蓄積を使いこなすためのメタデータ=目次・索引を、脳に保持しておくべきなのです。

知識の目次や索引はアタマの中に記憶しておいて、その先にある知識の本文はネット上や知人のアタマの中にある。たとえていうならグーグルみたいなものです。それ自体はコンテンツを持っていないのに、外の知識の索引を使って、博覧強記を演じる。まあ次の世代くらいでは、頭にUSBメモリの辞書を挿したり、高速計算モジュールを挿しこんで、脳の情報処理能力を加速させることもできるかもしれないですけどね。

高度に発達したテクノロジーは魔法と見分けがつかない(アーサー・C・クラーク)。
高度に発達した検索知識人は天才と見分けがつかない、のです。

■読書テクノロジーの進化

石板に刻んだ文字やヒモの結びにメッセージを託した時代がありました。それがパピルスが羊皮紙になって、巻物がパルプ紙になって、グーテンベルグが活版印刷を発明して、と本の進化にはいくつも節目がありました。それで今またテクノロジーによるメディア進化の節目がきているのです。

そういえばこの前「電子書籍は紙の本より読書スピード遅い」というニュースがありました。 http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1007/06/news065.html

“紙の本と比べて、iPadは6.2%、Kindleは10.7%読書スピードが遅かった。ただしiPadとKindleの読書速度には統計的に有意な差は見られなかったという。”

“満足度に関して1~7(7が最高)で点数を付けてもらったところ、iPadは5.8、Kindleは5.7、紙の本は5.6だった。PCは3.6とかなり低い点数だった”

でも、これはテクノロジーがまだ黎明期だからであって、遠からず読書体験において、紙にはできないことをデジタルが実現する日は近いと思います。

たとえば、

・文章を紙よりも速く読めるインタフェース
・紙よりも内容を読者の記憶に定着させるインタラクション

など。速読だったら私にもアイデアが容易におもいつきます。たとえば、

最新の10ページのラップタイムを表示する
昨日の自分のスピードを表示する
読書中にメトロノームの音がする
速くめくらないと指先に電流が走る
速読用の“動く文字”の発明

なんてね。

それからテキストの印象だって紙とは違います。ケータイ小説をケータイで読むときと、印刷された本で読むとき、私は試してますがぜんぜん感想は違う者です。デジタルならではの表現技術が、ハード、ソフトの両面でこれから進化していくと予想しています。そして著者や読者も表現や読書のスタイルを共進化させていく。

■人間関係で情報を探す「ソーシャブルサーチ」と未読の知

技術と人の共進化。

さきほどの本でアレクサンダーが挙げたもうひとつの重要な概念が「ソーシャブルサーチ」でした。ネットで情報を調べるに際して検索エンジンではなく「明示的・暗黙的な人間関係の構築」が重要だというのです。確かに検索で答えが見つからないとき、ヤフー知恵袋だとかはてな人力検索みたいに、コミュニティに質問をして答えをもらうことができます。あるいは知りあいとチャットで議論したり一緒に調べたりして答えをみつけることもできます。

同じ本を読んだ読者をみつけられなかったアナログ本の時代は、なかなかその本のテーマでディスカッションができませんでした。デジタル本の時代は読んだ人を簡単にみつけられます。そのことはすでに語りましたね。さらには、これからは読んでいない同士でも、検索で見つかった本の断片知識をネタにして、新たな知識創造や問題解決ができるようになってしまうのです。

だってそうでしょう。ウェブで検索エンジンを使って知識を引き出す時に、結果ページの全部読んでいますか?。読まなくても大丈夫なんですよ。本は。読んだ本なんて氷山の一角です。未読の知のほうがはるかに大きい。

「読んでいない本について堂々と語る方法」という冗談みたいなタイトルの本があるのですが、中身はまともで深い哲学の本です。ピエール・バイヤールというパリ第8大学の哲学教授が書いた本で、ヨーロッパではベストセラーになりました。

有名な本を読まないで書評する方法を教えます。「大勢の人の前で」、「教師の面前で」、「作家を前にして」、「愛する人の前で」などパターン別で実演します。有名な本(著者はそれらの作品を読んでいなかったりするのだが...)を題材にして、いかに読まないでも有益な話を語れるかを示します。

ちなみに未読本へのコメントのコツは

1 気後れしない
2 自分の考えを押しつける
3 本をでっち上げる
4 自分自身について語る

だそうですよ。読んだからといって深い話ができるわけではない。大切なのはその本の位置づけを知ることだ、というのです。たとえばプルーストやジョイスは読まなくても、ちゃんと語ることができる。

この先生に指摘されて気がついたのですが、読んでいない本の方が圧倒的に多いわけです。既読より未読が普遍なのです。年間7万点の日本の出版物の状況では、全体の1%も読める人はまずいないわけです。99%は読んでいない本です。ソーシャルリーディングの時代は、読んでいない本も、読んでいないウェブも知的資源として有効に使う時代なのです。

■思索と読書の問題意識

さて、読むとか読まないの前にそもそもなぜ読むのかという話があります。

「1日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失っていく。」
「ほとんどの思想は、思索の結果、その思想にたどりついた人にとってのみ価値を持つ。」

多読派には耳が痛い言葉ですが、「読書について」という本にある19世紀の哲学者ショーペンハウエルの言葉です。ショウペンハウエルは人間には思索向きの頭脳と読書向きの頭脳があるという。思索とは自らの思想体系でものを自主的に考える精神の深い行為だが、読書は思索の代用品であり、他人の思索の跡をなぞるだけの浅い行為に過ぎないのだと言います。

いま文字情報は爆発的に増えています。出版点数の増加、ウェブの増殖、デジタルアーカイブの構築など21世紀は実はテキストの時代です。それにビジネス書にみられる多読や速読を推奨する傾向。読む時間が増えれば考える時間が減ります。

情報爆発の中で、いつ考えるか、何を考えるかは大きな問題だと思います。パソコンやケータイを前にすると、私たちはどうも深く考えることが難しくなる傾向がある。「次の情報」をクリックしたり「別の情報」を検索したり、自分で結論する前に誰かに聞いてしまったりする。デジタルの情報を前にして深く考える方法論やツールを、私たち新たに必要としていると思います。これは私の二つ目めの問題意識です。

■むさぼるような読書体験

三つ目の問題意識はむさぼるような読書体験です。飽食の時代にあって情報に飢えるということが難しい時代です。昔は絶版のレコードを中古屋で捜しまわって、やっと見つけて聴くサウンドに感動しましたが、いまはiTunesで検索一発です。これでは感動の深さが浅い。

作家 津島佑子に「快楽の本棚―言葉から自由になるための読書案内」という本があります。太宰治の娘であるが故に、母親は娘を文学から遠い場所で生きるように導こうとした。文学は暗くて危険なものだと思い込ませた。結果として娘は本当のことを知りたい欲望から文学の世界へと引き寄せられていく。

津島はこの本で人生で深く影響を受けた本を振り返りますが、性の本なんかが多いのです。性への好奇心が文学の入り口となり源氏物語、好色一代男、発禁処分の『チャタレー夫人の恋人』を英文で読んだ。読んではいけない本、見てはいけない映画に夢中になる。あらゆるものから自由になるために。

「「背徳的」とはつまり、自分の生きている世界をしつこく疑い続けること、おとなたちが隠したがっていることを知りたがることなのだ」

私も自分の中学高校時代を振り返るとマルクスの資本論やジェイムズ・ジョイスのユリシーズなんかを訳も分からず読んでいた。危険な思想や難解な文学に憧れたからだが、教師から教養のために読めと言われていたら絶対に読む事なんてなかっただろう。

個人にとって”禁断の知識”こそ本物の知識だと思います。エデンの園のリンゴもそうでした。アダムとイブ、リンゴとヘビ。リンゴは知の象徴でそれをイノベーターのイブが食べて人間の世界が始まった。革命家の知識こそ本物の知識だと思います。かつてはそういうヤバい知識があった。いまはグーグルで検索するとなんでもでてきて禁断でもなんでもないんですね。そういう知をむさぼる体験が、飽食の時代は難しくなっている気がします。

■まとめ

さてそろそろ時間ですので、この後のディスカッションに向けて私の問題意識をまとめると、

現代の読書における課題は、

デジタル化による本をとりまく環境変化の中で

3つあります。

 1 読書×コミュニケーションで何ができるか ソーシャルリーディング
 2 主体的な思索の重要性
 3 むさぼるように読む読書体験が大切

とうことになります。

つまり読者は

いかに つながるか
いかに むきあうか
いかに むさぼるか

ということになります。

ちなみに今日の私の講演部分をテキスト化すると約1万字のボリュームです。電子書籍一冊分の長さです。御静聴ありがとうございました。ご意見ご感想などありましたら、配布資料のメールアドレスまでお気軽にメールをください。まずは、つながり、むきあいましょう、むさぼるかどうかは、相手次第ですが。

ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?