見出し画像

コエヲタヨリニ 距離10cmの勉強会

*あみそ組さんのゲーム「コエヲタヨリニ」の二次小説です。主人公が完全オリジナル。オリキャラ多数登場。いろいろ捏造。


 紀伊島屋書店の一角。夏休みの課題用に書く感想文の本を探していたりのは相川の後ろ姿を見て声をかけようとした。が、出来なかった。
(なにあの量!?)
 相川の脇には分厚い本が三冊挟まれていた。本のタイトルは見えないが、本の分厚さから専門書であろうと自他共におバカなりのでも察した。
(こ、これが大学生ってやつか〜〜!!)
 他の大学生が聞けば「そこまで買わねえよ!?」とツッコミを入れられるが、この場にはいない上に心の中であるため、りのの誤解は常識として変換された。
(前から思ってたけど相川さんって頭良いよね……。結構知識豊富というか物知りというか、暗号も解いてたし。実は名探偵の家柄? おじいちゃんが探偵でカクセイ遺伝ってやつで才能を受け継いで、大学生というのは表向きで実は……)
 などと妄想に耽っていたりのは前方からの気配に気付けず、聞き慣れた男性に名前を呼ばれて肩を跳ねた。
「りの?」
「ひょえ!?」
 顔を上げると相川が眉を寄せて首を傾げていた。
「何してるの?」
「な、なにも……」
 目を泳がしながら言っても説得力は無く、相川の目つきがじっとりと平たくなる。このまま問い詰めてみようかと思ったが、出来なかった。
「あ!」
「うぉっ、なに?」
 いきなり声を上げたりのは話を振った。
「相川さんこの後どうするの?」
「うーんと、喫茶店でレポートの推敲ともう一個のレポートの骨組みを作っていこうかなって」
「急ぐの?」
「締め切りまでにはまだ結構あるけど、僕としてはさっさと終わらせておきたいから。って、どうしたの? いきなり聞いてきて」
「あ……いや、えっと、な、なんでもない! 聞いてみたかっただけ!」
 笑って誤魔化すが、相手は誤魔化されてくれなかった。
「……【夏休みの読書感想文におすすめ十選】」
 目線を落としながらの呟きにりのの頬が引き攣った。りのの手には【夏休みの読書感想文におすすめ十選】と書かれた小冊子があり、相川の目線はりのと小冊子を行き来していた。
 その眼差しにりのは耐え切れなくなって本屋に来た理由をぶちまけた。
「読書感想文どう書いたらいいのか分からないのよ! あと他の課題も分からないところだらけだし!」
 地団駄を踏まん勢いで叫ぶりのに相川はたじろぎながら逡巡する。このまま別れて家に帰って課題を片付けるかそれともーー。
「手伝おうか?」
「え?」
 考え事が口から出たことに相川は驚くが、一日二日レポートを書くのが遅れても問題は無いと判断し、りのの言葉の裏に隠された想いを口にした。
「本当は頼みたかったんだよね。宿題手伝って欲しいって」
「……うん」
 その声はずるい。などと思いながら頷くりのの甘えたそうな声色に、相川は庇護欲をくずられて頭を軽く撫でた。
「僕に出来るのは手伝いだけ。解くのは自分でやるんだよ」
「え……」
 相川の言葉を咀嚼し、頭に置かれた手の温もりを感じ取った瞬間、顔に熱が集まっていった。
「あ、ありがとう……」
「早速本を選ぼうか」
「う、うん!」
「その前にりのは読書感想文にどんなイメージを持ってるの?」
「えっと……きっちりした文章を書かなきゃいけなくて、本のことを説明しなきゃいけない、かな。私、それが苦手で……」
「りのさん。読書感想文は本のことを説明するんじゃなくて、本を読んでどう思ったのかを書くんだよ。簡単に言えばレビューだね」
「レビュー……」と、顎に手を当てて唸るりのに相川はさらに噛み砕いて話す。
「たとえば沖縄か北海道に旅行に行ったとして。その旅行に行った時の出来事や思い出を書く。それと似たようなものだよ」
「えーと……内容を話して、その内容の良さを話すって感じ?」
「うん。そうだよ。あとはレビューを書く前にあらすじを書いておくこと。いつどこで誰がなにをする話なのかをね」
「なるほど……」
 目から鱗と言わんばかりの形相に相川は微苦笑を浮かべながら本棚を指さす。
「読書感想文は書き終えることが大事だから。でも、その前にまずは本を決めないと」
「そうだった! 何にしようかな……」
 あれかな。これかな。うーん、なんか難しそう……。などと唸りに唸った末にりのが手にしたのは夏目漱石の『こころ』であった。
 理由を聞けば「中学の時、呼んだけど内容忘れちゃって……でも、自殺のインパクトが凄かったの覚えてるから内容ちゃんと覚えたくて」とのことだ。
「自殺のインパクトって……」と、頬が引き攣るのを堪えて相川は適当に頷いた。その際に視線が泳いだのをりのは見逃さず、目尻を吊り上げて睨んだ。
「……それでどこで勉強会しようか」
 逃げるように促した相川の判断は賢明であり、促されたりのは目を平たくしたものの事の発端が己であるため、一応引き下がった。そして考える。喫茶店? ファミレス? それともーー。
(そういえばお互いの家知らないんだよね)と思った途端、りのは招き入れたくなった。
「あ、あのさ、うちに来ない?」
「え?」
 瞬間、相川の時間が止まった。どこぞの吸血鬼の幽波紋攻撃を喰らったわけではない。年下の少女から勘違いしかねない誘いに動揺したからだ。
「今なんと?」
「だーかーら! 私の家に来て勉強教えて欲しいって言ったの!」
(あ、だよね)と、何故か物足りなさを感じたものの会話の文脈からして当然だろうと相川は納得した。
「……道案内よろしくね」
「うん!」
 夏目漱石の『こころ』を購入し、本屋を出た二人は東崎家に向かって歩いて行った。
 赤煉瓦の屋根に二階建てで庭付きガレージのクリーム色の一軒家。門の近くの表札に『東崎』と書かれている。
「大きいね」
「そう?」
 ノーリーズソフィのシアーローンラッフルスリーブブラウス(ピンク色)と膝丈までの白のズボンを着こなしているりのは家のデザインと相まって御伽の国の主人公のようだと相川はぼんやりと思った。
「相川さん入って入って」
「あ、ああ。お邪魔します」
 玄関の扉を開けて潜り、靴を脱ぎ揃えて上がる。りのに案内されて部屋に入った相川はメルヘンチックな壁紙やベッドの上に揃えられているうさぎやペンギンのぬいぐるみやmeijiのアポロちゃん、机の上に置かれている化粧ポーチや占いの本を見て感嘆の息をこぼした。
(ここがりのの部屋……結構可愛いな。あと、甘い匂いもする。香水でも使ってるのかな? それとも……って、僕は変態か!?)
 友人である年下の少女の部屋をキョロキョロ見回してとんでもない考えに至りそうになった己を心の中で殴った。これ以上部屋の中を見るのはマズいと思い、ちゃぶ台の上に肘を置いて手で目を覆った。いわゆる見ざるであった。
 その姿をリビングからお盆とコップ二つを持って上がってきたりのはギョッとするが、触れないことにした。
「はーい、お茶だよー」
「あ、ありがとう」
 麦茶が二人の目の前に置かれていく。相川は一口飲んでからコップを置いて道中気になっていたことを尋ねた。
「ご両親は?」
「ああ、今家にいないの。二人とも仕事に行ってて」
 ピクッと相川の肩が跳ねた。やましいことは考えていないはずなのに、何故か鼓動がうるさい。夏の暑さだけではない汗が額と頬を伝う。
(いやいや落ち着け僕。僕とりのはただの友達。今日は友達に勉強を教えに家に上がったんだ。そこに特別なことなんて何一つない。それに)
 チラッとりのの顔を見る。特に照れた様子もなく、ノートと教科書を広げて首を傾げている。
(待っているりのを放置するのは良くないよね)
 そう結論を出した相川は本来の目的を果たすことにした。
「えーと、まずはどれからやる?」
「歴史!」
「どのあたりが分からないの?」
「……もう、ね、なにもかも分からない」
「何もかもは流石に大雑把過ぎるよ。まずどこからどこまでの時代が難しいとか、この時代に起きた出来事の理由が分からないとかある?」
 相川の丁寧な促しにりのは「えーと」「うーんと」「あーと」と唸りながら教科書をめくっていく。
「あ! 百年戦争とハブスブルグとルネサンスから大航海時代までが分からない、かな……他の国の歴史もわかんないけど、ヨーロッパあたりは国の名前と王族が一致してなくてゴチャゴチャしてて一番わからんない……」
「まあね。現代の国名とイコールじゃないし国境も変わってくからややこしいよね。あと、ハブスブルグじゃなくてハプスブルクね」
「ほんっと暗記何回もしたんだけど全く覚えられなくて!」
「んー、暗記よりも一つの物語として覚えていくのはどう? たとえば『ルターは激怒した。免罪符などというものを売り出して金儲けに走る教会の堕落ぶりが許せなかったからだ』っていうふうにして」
「おお! ルターって言ったら宗教改革の人だ! それで、ルターは何かを書いてたような……」
「ヒント。当時の聖書はラテン語しか書かれていなかった。ルターの出身は現在のドイツ」
「あー! そうだ! それで九十五ヶ条の……論題を書いたんだ!」
「そうだよ。それで、そこからルネサンスに繋がるんだ」
 相川の的確な教えによってこれまで勉強が苦行でしかなかったりのはイキイキと顔を輝かせて一ページに二〜三行分しか書いてこなかったノートを埋め尽くす勢いで内容を記した。
 その様子を相川は微笑みながら見つめていた。
「よーし、書き終わった!」
「ちゃんと読み直すんだよ」
「はーい」
 歴史の教科書を閉じて床に置き、古典の教科書を机の上に置こうとした瞬間、ベッドの上にいたはずのにゃんごろうがりのの視界を占領した。
「あ、ちょっ、にゃんごろう! 机から降りて! 相川さんのお顔、しっぽで叩かないの!」
「にゃあん」
 返事をするように鳴くが、尻尾は相川の頬をぶっていた。とはいっても柔らかくふさふさしているので痛くも痒くもないが、教科書が見えない上に尻尾のせいで気が散る。
「どこうとしないね……仕方ない」と、相川はため息混じりに立ち上がった。
「え?」
「横を失礼するよ」
 意味を捉えかねて呆気に取られたが、横から聞こえる声にりのは状況を把握しーー声を上げそうになった。
「次は古典か。分からないところはどこ?」
(か、顔! 顔が、近い!)
 異性と目と鼻が触れそうな距離で接した経験など__幼少期に父親に抱っこされたぐらいで__全く無いりのにはこの状況は心臓に悪い。男友達がいないわけではない。クラスメイトとは仲が良いし男子と戯れ合うこともあると言えばある。だが、今みたいに密閉された空間で二人きりで手と手が、肩と肩が触れそうな距離で囁くように教えられたことなど一度もないのだ。そう、落ち着きがなくてガキっぽい同年代の男子とは違う、物腰の落ち着いた年上の男性に__
(あ、これって、マンガとかでよく見るアレじゃ)
 顔の表面温度が急激に高まっていく。心臓がうるさく鳴り響く。汗がどんどん滲み出ていく。
「どうしたのりの? 風邪?」
 ただならぬ様子に相川は顔を覗き込みながら額に触れた。
「ひゃう!」
「え……」
「あ、あんまり、触らないでよ! 相川さんのバカ!」
 バカ呼ばわりされて距離を取られた相川は固まった。純粋に心配しただけなのにこんな反応を返されるとは思ってもみなかったからだ。
(え……待って。なにか嫌われるようなことした?)
 思い返してみるが、思い当たる節はない。どこだ? どこが彼女の気に触った? 
 などと見当違いな思考を巡らせている相川の耳にヘルプアシストAIの知らせがと着信音が届いた。
《電話です。杉本昌也様からのお電話です》
「ちょっと外に出るね」
「あ……うん」
 立ち上がって部屋の外に出ていく後ろ姿を茫然と見つめながら教科書を広げるが、内容が頭に入ってこない。
(……相川さんに酷いことしたな)
 純粋に心配してくれただけなのに、年上の異性に触れられたってだけで過敏に反応するのはおかしい。ただの勉強会をなんで変な方に受け取ってしまうのか。最近の自分はなんだか変だ。
(相川さん、なんの話してるんだろ……)
 気になる。知りたい。見たい。聞きたい。好奇心の赴くままにりのはこっそりと部屋の扉を開けて隙間から廊下の窓際で電話をしている相川の様子を観察した。
「杉本どうしたの? 文化祭のイベント企画が増えた? どれ? 今すぐ送って。え? 受け入れるのかって? 内容次第だよ。とりあえずやれる範囲でやって、無理が出そうなら改善していく。それが僕らのやり方だろう? 大雑把すぎる? それは誰かさんのせいかもね。ははっ、杉がつく名字の人とエスプレッソをよく飲む人のせいだよ。あんまり細かいの嫌いだろう? 細かい部分はハリシャさんと加藤と橘先輩と黒藤と牧野に詰めてもらって、広報関係は杉本と武藤先輩と松岡と白木先輩とリーメイに任せるよ。え、今何してるって? りのの家で勉強教えてるだけ。って、なに、興奮してるの? なに息荒げてるの? おい待て話聞け!!」
 初めて見る砕けた雰囲気、親しい人特有の馴れ馴れしさ、学生特有の青臭さと成人になりかけの成熟さが混ざった口調と会話。それら全てがりのにとっては未知で新鮮で__一抹の寂寥と多量の好奇を煽り立てた。
(私、相川さんのこと、あんまり知らない)
 彼の家族構成も交友関係も過去も好きなものもあまり知らない。りのの胸にチクリと痛みが走る。知り合って一ヶ月の関係なのに、どうしてここまで貪欲に知りたいのだろう。どうして自分にあんな顔を見せないのに苛立つのだろう。
(相川さんのこと、もっと知りたい)
 外で会うだけでは、家に招くだけでは、足りない。もっと踏み込みたい。彼のスペースに。
「ふう……電話終わったよ。りの、どうする? 続ける? それとも」
「相川さんの家に行きたい」
 気がつけば熱に浮かれた口調でねだるように相川の袖を引っ張った。
「え」
 目を瞠る相川にりのは我に返った。
「あ! えっと、明日は相川さんの家で勉強したいなー! って!」
「僕は別に構わないけど……ちょっと待ってね」
 今さっきの発言はそういうことかと納得した相川は先ほどと同じように部屋の外に出て一階に降りて電話をかけた。
もしもし」と、流暢な中国語で挨拶をすると、ゆったりとした女性の声が返ってきた。
はーい、変わらず生未くんは律儀ね。どうしたの?』
「月さん。明日、お客さんが来るんですが、冷蔵庫の中のものをいくつか使ってもいいですか?」
『わざわざ確認しなくてもいいのに。貴方はメゾン・アラカルトウチの子なんだから自由に使ってもいいのよ』
「……そうですね」
『まだ慣れない?』
「あ、いえ……そんなことは……もう二年近く経ちますし。二年も経ったら建物の構造とか物の位置とかルールとか分かってきますよ」
『そういう意味じゃないわ。貴方にとってのおうちはあそこなんでしょう。かつて結依さんや国木田さん、彩音ちゃんと過ごしたーー』
「ありがとうございます。冷蔵庫の中のもの、いくつか使わせてもらいますね。それじゃ」
 返事を待たずに相川は電話を切った。これ以上、月と会話をしていたら平静でいられる自信がなかった。
(……僕も青いな。ちょっと言われただけでぐらつくなんて……)
《マスター、心拍数が平常より上がっています。血圧も百三十とやや高めです。深呼吸をして体調を整えてください》
「ありがとうMori」
 眉を八の字にして伝えるMoriのアドバイスに従って息を吐き切り、深く息を吸って息がなくなるまで深く吐き出す。
 それらの繰り返しでようやく落ち着いた相川はスマートフォンをポケットにしまって階段を上がると、部屋の扉が半分開いていることに僅かに眉を寄せた。
 部屋に入ると、アポロちゃんを両腕に抱えて顔を埋めている少女が相川をジィッと睨め付けた。
「……ユエさんって、誰?」
「僕が住んでいるアパートの大家さん。母親とは仲が良かった人でね、大学入学した時にその縁を頼って住まわせてもらっているんだ」
「相川さんにとってはお母さんみたいな人なんだね」
「そのようなもの、かもね」
「何その曖昧な言い方。お母さん繋がりで仲良いみたいだし。断言すればいいじゃない」
「実感が無いんだよ。ユ、日比谷さんが母親代わりだって実感が……」
「母親代わり?」
 純粋な疑問で、言葉の意味を捉えかねて尋ねただけだ。分かっているのに、なんでもないと受け流せばいいだけなのに、柄にもなく息を呑んでしまった。
「っ、今日はこのぐらいにして、続きは明日僕の家でやろう。それじゃあ」
 沸騰した薬缶に触れたように顔を歪める相川にりのも息を呑んだ。そして相川が扉の向こうに行くのを見て立ち上がった。
「あ! ちょっと待って!」
 引き止めようと駆け出すが、相川は既に靴を履いていた。
「お邪魔したね。お茶ありがとう。美味しかったよ」
「あ、相川さん、私」
「また明日」
 行儀の良い挨拶と笑顔を残して去っていく姿を呆然と見送りながら、何も言えず立ち尽くした。
(……明日ちゃんと聞いてみよう。なんであんな辛そうな顔をしたのか。それで理由を知ったら)
 その先どうすればいいのだろう。理由を知ったら自分はどんな反応をするのか。自分でも分からない。それでもーー。
(知りたがるのは当然のことだもん)
 友人である西大寺菫や喜屋武美幸や田中英里のときだってそうだ。そうやって仲良くなってきたじゃないか。だったら、相川も同じだ。相川だって友達なのだから。
 胸の奥で蠢く酸味のある感情から目を背けた少女が決意を固める一方、家に着いた相川は椅子に座って目を閉じる。
(あの時とはもう違う。大丈夫だ。折り合いもついている。あとは日常会話のように答えればいい。僕が変なことをしなかったら、りのだって不安にならない。だから、明日は絶対に落ち着け。冷静になれ。明日もりのに勉強を教えるだけ。家族のことを聞かれたら変に誤魔化すな。正直に答えてさっさと終わらせるんだ。いいな、相川生未)
 明日に向けての対策を立てた青年は本を一冊手に取ってページをめくった。タイトルは『死別の悲しみと向き合う。グリーフケアとは何か』であった。


***


 翌日、相川から送られた地図情報を頼りにメゾンアラカルトに着いたりのはアパートのレトロな雰囲気にほうっ……と息を吐いた。
「わあ……すごい。こんな素敵な家に住んでるんだ」
 キョロキョロと見回すが、白の四角形に灰色のボタンがついたインターフォンが視界に入り、本来の目的を思い出す。
 インターフォンのボタンを押す。ピンポーン。高い音が鳴り響く。鼓動が煩い心の臓を服の上から押さえてりのはインターフォンを見つめる。
 一分経った後、出てきたのはおっとりとした様子の女性であった。
『はい? どなたですか?』
 この人が日比谷ユエなのだろうとあたりをつけたりのは用件を述べた。
「えっと、東崎りのです! 相川さんに勉強を教えてもらいにきました!」
哎呀あら! 貴方があの東崎りのちゃんね! はいはい。待っててね。今すぐ開けに行くわ』
 足音が数歩聞こえたのち、萌葱色の扉が開く。扉を開けてくれたのは水色のブラウス型ワンピースを着た長い黒髪の女性__日比谷月であった。
 りのの母は若作りと呼ばれるほどに若々しいが、目の前の女性も負けていなかった。
(母親代わりというよりお姉ちゃんなのでは??)
 目を回して混乱していたりのだったが、月に名前を呼ばれて我に返った。
「あ……こ、こんにちは。初めまして、です」
「初めましてこんにちは。どうぞどうぞ、上がってちょうだい」
 月の案内に従って靴を脱ぎ、家に上がる。レモン色の壁紙、榛色の天井、磨りガラスの窓。ここが月の、相川の家なのかと思うと胸が妙に弾む。まだ相川の部屋にお邪魔してもいないのに。
「ありがとうございます。えっと、ところで、相川さんのお部屋は」
「生未君の部屋は二階の二〇三号室よ。遠慮なく入っていっていいわ」
「大問題なのでやめておきます」
「あら残念」
 丁重に断って二階に上がる。残念そうにしているのは何故なのかは敢えて聞かない。
 二〇三号室のプレートがかかった扉を前にりのは息を整え、扉をノックした。
「相川さんいる〜?」
『ん……だれ?』
 返ってきた声はいつもよりぼんやりしていた。珍しいなと思いつつ用件を述べた。
「私よ。東崎りのよ。勉強教えてもらいに来たのよ」
『ああ……勉強……ああ!!』
 突如として上がった大声にりのはビクッと肩を跳ねた。
『ちょっと待って。身支度するから』
 布を蹴る音、布が敷かれる音、扉が開く音、物が出される音、布が落ちる音、扉が閉じられる音が慌ただしく相川の部屋に響き渡る。一歩、二歩、三歩、四歩、五歩。足音が止まって扉が開かれた。
「お待たせ。さあ、上がって」
「う、うん……」
 ゆったりめの白のTシャツを黒のショートパンツにタックインして着こなす相川のいでたちは上品さと無造作が奇妙にも同居しており、初めて見る相川の格好にりのは無意識に唾を飲み込んだ。
(いや、なにドキドキしてるのよ私。相手は相川さん。被写体は相川さんで、キレイなモデルじゃないんだから)と、言い聞かせて部屋に入った瞬間、息を呑んだ。
 扉の正面から見て真正面にはベッド、右側には漆塗りされたタンス、左側には勉強机とその隣に本棚が配置されており、内装は至ってシンプルだが、五つある本棚に収納されている本の数に圧倒された。
「本の量すごい……」と、ぽつりとこぼす。
「これでも抑えている方だよ」
「えっ!?」
「オーディブルとか電子書籍で買ったりもしているから、五百を超えたところで数えるのやめた」
「……脳が人間じゃない」
「酷い言い草だなぁ」と、苦笑いする相川だが、杉本たちに聞けば「りのちゃんの言う通りだ」と頷かれること間違いなしだ。
『言語学とは』『民俗学とは』『南方諸島の言語分布』『談話言語学』『第二言語学習の謎を解く』『人生に必要な知恵は全て幼稚園で学んだ』『夜と霧』『ライ麦畑でつかまえて』『ゲド戦記』『黒の巣』などとジャンルの幅の広さと本の厚さから(内容もすごそう……)と慄いていると、勉強机に伏せられた板状の物体がりのの視界に入った。
「ん? これは?」
「ああ。家族写真だよ」
 微笑みながら告げる相川の声色には慈しみと愛情がこもっていた。だからこそ、家族写真が伏せられていることに違和感を抱いた。
「お茶どれにする? 緑茶とほうじ茶と烏龍茶と麦茶とはと麦茶と紅茶とコーヒーがあるけど」
「どれだけバラエティ豊かなの……」
「ちなみに紅茶はセイロンとアッサムとダージリンとオレンジペコとフレーバーティーとプーアールかな。あと、コーヒーはキリマンジャロとグアラマテラとエチオピアとモカとコピルアクと、これぐらいかな」
「充分多いわよ……んー、アッサムで」
「了解」
 部屋の外を出ていく相川の足音が遠ざかっていくのを確認し、勢いよく立ち上がって机に駆け寄る。
(家族写真って言ってたよね……なんで伏せているんだろ……)
 これはただの家族写真だ。伏せてあるのは小さい頃の自分が見られたくないとかそんなんであって、別になにか大きな秘密があるわけでもない。__本当に? 
(いや、なに緊張してるのよ。パッと見てパッと伏せるだけでいいんだから)
 言い聞かせて写真立てに触れた瞬間、足音が聞こえた。慌てて自分が座っていた場所に戻り、正座をした。
「りの。アッサムだよ」
「あ、あ、ありがとう!」
 元気に返事をするが、顔は相川の方を向けていない。
 いつもは自分の顔を見て話をするりのの変化に相川は訝しみながら尋ねた。
「……部屋の中のもの、いじってないよね?」
「い、いじってなんかないわよ!」
「なら、いいけど」と、あっさり引き下がった相川にりのは驚愕を超えてちょっぴり怖くなったが、彼が腰掛けた位置に瞳が瞬いた。
「なんで正面なの?」
「横に座られるのイヤじゃないの?」
「え」
「え」
 沈黙の天使が二人の間を通った。時計の秒針が一周、二周、三周したのち、口を開いたのはアッサムを一口飲んで喉を潤したりのであった。
「わ、私が顔赤くしてた理由、分かる?」
「昨日赤面していたのは横に座られて緊張して集中できなくてイライラしてたから」
 イライラさせられるのはその斜め下内角インローな回答だ。謎の怒りや羞恥を覚えたりのはドンッ! と机を強く叩いて叫んだ。
「んなわけないでしょ! 単純にドキドキしてたからよ! 相川さんに!」
「え……」
「あ、あんな、近い距離で教えてもらったら、その……ドキドキ、するしか、ないじゃん……」
 今目の前の少女はなんと言った? ドキドキしていた? 自分が横に座っていたことに? 自分が隣で勉強を教えていたことに? ーー自分を、意識していた?
(やばい。心臓、うるさい)
《マスター。顔の表面温度、脈拍共に上昇しています。高血圧ですか?》
 余計な口を挟んでくるAIをスマートフォンの電源ごと落として黙らせる。勉強机の上の置いて立ち上がり、移動する。
 肩と肩が触れ合う距離に二人とも顔を赤くしながら口をゆっくり開いた。
「……横、座ってもいい?」
「……いいから座って」
「はいはい」
「はいは一回!」
「Oui」
「フランス語で答えるなー! せめて英語にしろ!」と、英語の教科書をかざす。
「Yes My student.分からないところは?」
「えっと……」
 コップの水滴が水たまりになるまで二人の穏やかな時間が流れた。
「う〜〜っし! これで英語は終わり! はあ……疲れた……」
「お疲れ様。なにか最後に一つ聞いておきたいこととかある?」
「聞いておきたいこと……」
 アッサムを飲みながらぼんやりと思い返す。昨日の心残り、気になること、相川の家族のこと__
「相川さんのお父さんとお母さんはどこに住んでるの?」
 いつも聞かれること、よくあること。そう言い聞かせて相川は瞳を伏せながら答えた。
「……もういないんだ」
「え……?」
「お父さんもお母さんも亡くなっているんだ」
 日常の会話のように淡々と話す相川に、りのは息を呑んだ。一見すると薄情に聞こえる声色に寂寥と哀切が籠っているのを感じ取ったからだ。
「あ……ご、ごめん!」
「なんで謝るの? りのが謝ることじゃないよ。もう慣れたから」
 ゆるりと首を振って受け流そうとするが、相手は流されてくれない。それどころか目尻に涙を浮かべて叫んだ。
「慣れることなんて無いわよ! それに、言いたくないことなのに、それを私が言わせてしまったから」
「りのが決めることじゃない。僕が決めることだよ」
「な……そんな、突き放さなくてもいいでしょ!? って、待ってよ!!」
 座布団から腰を上げて歩き出した相川の腕を慌てて掴んで後ろに引っ張り下げた。
「え、ちょ、うあっ!?」
 突然の襲来に相川は反応できず、引き倒される。立ち上がれない相川にチャンスと睨んだりのは肩を掴んで振り向かせ、馬乗りになる形でのしかかった。
「二度目のドタ逃げなんてこの私が許さないわよ! 捕まえ、た……」
「どうし……」
「…………」
「…………」
 息が触れ合う距離で二人はお互いの顔を見つめ合った。

***

(きれいだ)
 りのが真っ先に思ったのは相川の顔への賛美であった。
(どこが地味なのよ)
 目鼻立ちが異常なまでに整っている。なのに、印象に残りにくいのは顔のパーツが黄金比と呼ばれるほどに揃っているからだろう。
(まつ毛細い……)
 短いまつ毛に縁取られた黒曜の瞳は驚愕で彩られている。遠目から見ると焦点が合ってるか分からなくて茫洋とした印象を受ける瞳が実は感情豊かなのを知っている。緩やかに変化する表情よりも。
(意外と肩幅あるんだ)
 華奢で細身な身体は触ってみると程よく固くて筋肉もそこそこついている。この腕が、この胸が、自分を支えて引っ張ってくれた。
(あったたかったな……)
 暑いけど彼の体温に触れたい__
 太ももの上に乗っている腰を僅かに動かした瞬間、そう思った自分と破廉恥な行動に叫びそうになった。
(は、はやくどかないと!)
 こんなところ誰かに、月さんに見られたらおしまいだ。


(肩細い)
 相川が真っ先に思ったのはりのの華奢な身体への心配であった。
 そっと腕を持ち上げて肩に触れる。ピクッと跳ねたのを見ないフリして。
(こんな細い腕で立ち向かって、僕を引っ張ってくれたんだ)
 力を込めれば折れそうな細い肩。柔らかくしなやかな腕。あの時は無我夢中で肩を抱き寄せたり腕を引き寄せたりしていたが、ただ細いということしか分からなかった。だが、今この状況で触ると凄く大胆なことをしてきたのだなと実感し__現状を鑑みて羞恥に襲われた。
(早く離れないと)
 なのに、腕は押し除けようとしない。意思に反して身体はこの状況を享受しようとしている。このままではダメだ。踏みとどまれる今のうちに何か言わないと。

***

「「あ、あの」」と、口を開いた瞬間、最悪の事態が訪れた。
「二人ともそろそろ日が暮れるわよ。晩ご飯はどうす……」
 言葉を失った。両者共に。女子高生が男子大学生を押し倒してます。これどう思いますか? どう見ても叡智なことをする前です。
 目撃された二人の紅潮していた頬から血の気が引いていく。相川に至っては貧血でもしていそうな形相であり、月の琥珀の瞳に軽蔑が浮かんでいるのを想像して泣きそうになった。が、現実逃避するわけにはいかない。ここはなんとしてでも__
「あらあら。もうそんなに仲良しなの。でも、ここは壁が薄いし。なにより相手は未成年よ。最後までしないでね。では、ごゆっくり」
 ニコニコと子供のヤンチャを見守るような保護者の顔つきで促された二人は絶句した。月が背中を向けた時にはやっと内容を咀嚼し、慌ててお互い離れて月を引き留めた。
「できませんやりませんしてたまるものか!」
「ち、ちちちち、ちがいます! これは違うんです! 事故ですハプニングですトラブルです!」
「いいのよいいのよ。若いうちはよくあることよ」と、笑って返してくるが、そんなことあってたまるかと相川は唸った。りのに至っては林檎のように顔を赤くして涙目になっていた。
「だから違います! 誤解なんです!」
「僕たちは月さんが思ってる関係じゃありません! それよりも晩ご飯は何を作るつもりなんですか?!」
「えーと、トマトの豚汁とイワシのしょうが煮とそら豆ご飯よ」
「僕も手伝います!」
「あら、嬉しい申し出だけど。りのちゃんはどうする?」
「え?」
「晩ご飯どうする?」
「食べます。なにか手伝えることはありますか?」
 突然の申し出に戸惑ったものの両親の迎えを待っていたら帰る時間が遅くなる。晩ご飯の時間も遅くなるだろう。それなら月や相川と一緒に食べて迎えを待った方が良いと判断し、尋ねる。
「その前にご両親に連絡入れよう」
「あ、そうだった……」
 言われてりのはスマートフォンを立ち上げてロック解除をする。電話のアイコンを押して連絡帳にある母親の電話番号を押して電話を繋げる。コールが三回鳴った後、応答の音がした。もうこんな時間よ、晩ご飯はどうするの? と聞いてくる母に相川の家で食べてくると、アパートだから大家さんも一緒に。と伝えると、何故かにこやかな声でそうなの楽しんでらっしゃいと後押しされた。
「で! 私はいったい何をすれば」
「食器棚の真ん中の引き出しにある箸を三セット、左端に置かれているマグカップを三つ机の上に並べて」
「……わかった」
 他人の家の勝手を知らない人ができる手伝いなど当然ながらたかが知れているため、配膳になるのは仕方ないが、りのの心には理解不能のしこりが生まれた。
 ご飯が炊き上がる音と共に豚汁としょうが煮の香りが三人の鼻腔を通じて胃袋を撫でる。
 席に座り、手を合わせて、箸を持って各々ご飯に手をつける。
 活発な見た目を裏切る上品な所作で箸を進めるりのを尻目に、豚汁を啜っていた相川はお椀から口を離して呟いた。
「……この味、母が作ってくれた豚汁にそっくりですね」
「ふふっ。結依さんから教わっていたからね。自然と似るようになっちゃったのかしら」
「母が言ってました。大家さんからも料理を教わったって。先週の酢豚も母が亡くなる前に作ってくれた酢豚とそっくりでした」
「お互い影響し合っているのね」と、達観したように笑う月から目を逸らす。
「影響し合わないものなんてどこにもありませんよ……」
 良きものも悪いものも。己は変わっていっている。微細ながら変化している。今までは他人との距離を測れていた。間合いをどう詰めたらいいのかある程度は分かっていた。だが、隣にいる少女が相手だとどう接したらいいのか分からなくなるのだ。
 杉本から表情のレパートリーが戻ってきたと言われた。武藤から子供っぽくなったと言われた。月からは__肩の力が抜けてきていると言われた。それはきっと少女の影響なのだろう。
 そら豆ご飯を一口運んで咀嚼する。変化という事実と一緒に。
「りの」
「んぐっ!? んっんんっ。な、なに?」
「ここは僕の家で__月さんの作ってくれる料理は僕をかたどる一部なんだ。だから」
 箸を箸置きに置いてりのを見据えながら告げた。
「今度、君の家で一緒に食事をしたい」
「え……え、ええっ!?」
「僕も君のこと知りたいんだ」
 君をかたどってきたものを、君の家の味を。
 細められた黒曜の瞳に宿る欲の色(無自覚)を知らないりのは純粋な好奇心だと思って頷いた。
「あ、ああ! そういうことね! うん。また機会があったら、ね」
「うん」
 若人特有の青さと照れと背伸びしたやりとりに、気配を殺して観察していた月は低い声で呟いた。
「……快点绑起来后充とっとと結ばれろリア充
「え? なにか言いました?」
「ううん。なんでも」と、朗らかに笑う月。
「…………」
 この場で唯一中国語が聴き取れる相川は月の意外な一面に顔を引き攣らせた。


***

 午後八時。鐘の音と共に訪れた男女の声が相川とりのの一日の終わりを告げた。
「初めまして。東崎梨香子です。りのがほんっっとうにお世話になりました」
「同じく初めまして。東崎誠司です。りのの勉強を見てくださって、その上に料理まで振舞ってくれて、本当にありがとうございます」
 頭を下げるりのの両親に相川は微笑みながら感謝を告げた。
「こちらこそ今日はとても楽しかったです。りのさんのおかげで」
「じゃあ、次も勉強教えてね」
「いつにするかは家に帰ってからにしようね。ほら、お二人が待ってるよ」
「……気になることがあるけど、いいかしら?」
「あ、はい。どうぞ」
 梨香子と誠司は咳払いを一つして問い詰めた。
「二人とも、どうしてそんな微妙な距離を取って斜め上を見ているの?」
「相川君と何かあったのかい?」
 瞬間、二人の顔の表面温度と脈拍が上昇した。
「なななななんのことを言われているのか僕はさっぱり分かりませぬ。りりりりりのの力が強いことしか覚えてません。ええ、肩細いなとかやっぱりかわいいなとか微塵も思ってません」
「言っちゃってる! 全部言っちゃってる! なにあの時のことを言ってるのよ!」
「あの時の、こと?」
「あ」
「詳しく教えてちょうだい」
 ガシッと母に肩を掴まれて尋問される傍ら、青年は少女の父親に肩をポンっと置かれた。死刑宣告に聞こえるの僕だけかな? と相川は泣きたくなった。
「相川君」
「はい……」
 ああ、短かったな僕の人生……と儚んでいると、意外な言葉が返ってきた。
「娘の背中に手を回したかね?」
「え? 回してません」
 瞬間、頭に軽い衝撃が走った。衝撃を与えた人物は赤くなった手を握って説いた。
「君はバカか! そこは回して肩甲骨や背中の感触を味わうべきだろう!」
「叱るところを唆しますか!?」
「事前に知ることは大事だ」
「敢えてナニがとは聞きませんが、そんな機会来ません。有り得ません。僕にとってりのさんは友人なんです」
 そうだ。友人だ。距離が近くなって一緒にいるうちに色々知りたくなっただけで、友人には変わりないのだ。りのだってきっと自分のことを友人としか思っていないだろう。だから、周りが想像しているような関係なんて訪れないのだ。
 相川の暗い胸中を知らないが、友人にこだわる意地っ張りに誠司は内心ため息を吐きながら忠告をした。
「……その言葉に甘えて胡座をかいている間に痛い目を見ても知らんよ」
「え?」
 きょとんと瞳を瞬かせる相川をよそに誠司は絶賛攻防中の妻と娘の間に乱入した。
「りの! 帰ったらたくさん話を聞かせてもらうぞ!」
「そうよりの! 詳しく! 話してもらうわよ!」
「だから、二人が思ってるようなことがないんだってば〜〜!! 相川さ〜ん!」と、助けを求めるが、首を横に振られた。
「……グッドラック」
「薄情者〜〜!!」
 台風一過のような東崎一家が車に乗って過ぎ去った後、相川は満月になりかけの空を見上げる。

『その言葉に甘えて胡座をかいている間に痛い目を見ても知らんよ』

 痛い目、とはなんだろうか。喧嘩だろうか。それとも……。

『姉さんの見舞い、行きたくない……』
『お父さんなんて大嫌い!』
『話? ああ、ごめん。今、急いでいるから。また家に帰ったら聞かせて』

 頭に鈍い痛みが走る。目の奥がじんわりと熱くなる。手の甲で目を覆いながら相川は茫洋とした口調で呟く。
「……明後日は墓参り、か」
 一陣の生温い風にぶるりと身を震わせた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?