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学歴なんて、伊達な上着の裏地ぐらいが丁度いい

私は、あえて「分かりやすさ」にNO!と言ってみたい。
その上で、「分かりにくさ」の重要性を強調してみよう。

マウントの取り合いの果てに何があるのか?

学歴・社会的地位・所得といった「社会的地位」で男性はマウントを取り、自分より下の人間を見下す。
女性は結婚した男性の「社会的地位」を基盤に家庭の幸福でマウントを取り、自分より下の人間を見下す。

一般的にこう言われているようだが、異論があれば、ぜひお聞かせ願いたい。

男も女も、非常に「分りやすい」指標をベースにマウントを取っているに過ぎず、それも共通しているのは学歴・社会的地位・所得に(ある意味で)全て集約される。
人も羨むような学歴を持ち、羨望の的になりそうな職業で地位と高所得を得ている上に、自分の子供も優秀で・・・。

だから、なんだろう?

非常にクダラナイ話だが、90年代半ばぐらいまで、(特に私立)大学入試の「小論文」のテーマは(非常に簡単に言えば)「日本の豊かさとは何か」といったモノで、小論文の課題文を読み解いて800字程度で「起承転結」の通りに文章が書ければ良かったのである。
ところが、課題文の論旨が何を述べていて、その上でどういった自分なりの「答え」を考えて筋道を立てて論述しなければイケナイのか、必ず正解があるペーパーテストでは高得点を獲得する高校生には、こういった小論文の「模範解答」が分からないのだ。
一般的に言えば、文章の要旨を理解した上で論理的に思考し、文章として組み立てて書き起こして小論文として答案を提出するのは、高度な国語力と多様な知識、そして論理的思考がなければダメだ。課題文に知らない単語が出て来て意味が分からないようでは、課題文の論旨を十分に理解することすら出来ない。
だからこそ一般教科に比して小論文は配点が高く、評価される。しかし、「受験」であるからには「小論文」とて必勝のセオリーが必ずある。

今やアタマの悪い「ビリギャル」高校生が某慶應に入学するぐらい、大したことではないだろう。

もうかなり前から日本における大学教育は地に堕ちていて、一般に「優秀」とされている大学を卒業したからと言って、必ずしも一流企業に就職したり、高級官僚になって生涯高所得者として安泰だ、などと言える社会ではなくなっている。
そんな「現実」も見ないで、目先の待遇(給与その他)ばかりを求めて、一体何になるのだろうか。令和のこの時代に、いつまで昭和の価値観を持ち続けているのだろう
確かにガリ勉の当事者に言い分はあるだろうが、ガキの頃から自分で考えることを放棄し、「親の価値観」等に乗っかって学校の勉強だけは出来た人は、精一杯努力した暁に一流大学に入学して卒業はするのだろうが、「学歴はあるが学力がない」と自分より下の学歴の人間に指摘され、ショックを受けて、だから、何なのだ?

自分の真の「幸せ」は、他人と比較して感じるモノではないだろう。

小林秀雄を持ち出すまでもなく、「思考停止」こそ一番「幸せ」から程遠く、そして国を潰してしまうほどの危うさはないものだ。
それでも他人と比較して、「自分はまだマシだ」と胸を撫で下ろすのだろうか。自分より下だと他人を見下して、気持ち良くなれば「幸せ」なんだろうか。

「分かりやすさ」という危険

私はコンピュータシステムの設計・開発を本職としているので、「あいまい」な要望では、あいまいさを許さないコンピュータ・システムとして要望を実現することが出来ない。
そこで、明確なゴールを求めるし、そのプロセスに合理性を求める。つまり、理論的なプロセスを経た数値的に妥当性のある結果をゴールとしてシステム化を実現する。
コンピュータはデジタルなので、アナログ的な「もう少し」とか「もっと大きく」といったパラメータ(要望)は、全部数値化する必要がある。つまりは、誰が見ても客観的な、意味を持つことが可能な「数値的分かりやすさ」を追求するしかないのだ。
しかし、人間はあまりにも「あいまい」で「分かりにくい」し、論理的矛盾に満ちているので、どうしたってコンピュータ・システムとは直にやりとりが出来ない。ゆえに、私のような専門技術者が存在しているとも言える。

前章から読み進めてくれば、ここで私が言いたい「分かりやすさ」とは入試における「偏差値」だと言えるだろうし、入学して卒業した学校の「学歴」だと言える。
そして社会に出て分りやすいのは所属している「企業(または官公庁等)」と「役職」、つまり「社会的地位」であり、実際に得ている「所得」でもある。
逆に言えば、その「分かりやすさ」を得るために、どれだけ努力をしたのか、どう考えたのか、どう思い悩んだのか、等々、といった他人には伝わりにくい「分かりにくさ」があるだろう。
その「分かりにくさ」こそがアナログ的な人間臭さであり、私もSEとして常にそういった「分かりにくい」人間臭くも泥臭い世界でシステムの設計と開発をしているのだ。そこに「幸せ」のヒントがあるとは思わないだろうか。

客観的事実として、定量的・数値的な「分かりやすさ」は重要だろう。

だからと言ってそれは「一面」でしかなく、また、人間は「多面的」であるから、ごく一部の一面を知ったからといって、その他全部を知った気になるのは、傲岸不遜以外の何物でもない。
私は「分かりにくさ」が人間の本質であると思うし、その人間が集まって社会を形成しているからには、社会的問題は必然的に「分かりにくい」モノであるだろうと考えている。
そしてその「分かりにくさ」=「複雑な問題」を解決するのが議会制民主主義で選出された政治家(市区町村議員・都道府県議員・国会議員)だと思うし、その政治家を選出した選挙民にも等しく責任があると考える。

疑問を疑問のままやり過ごしてしまっていたら、また、知らないことを知らないままにやり過ごしてしまっていたら、それは「未知」のままに終わる。そして「未知」は積み重なると「無知」となる
そして人の「無知」に漬け込む悪い人間が社会には沢山いるのも事実で、政治・宗教・その他であり、マインドコントロールしようとする勢力がいるだろう。
一番分かりやすいのは詐欺師だが、政治でも宗教でも詐欺でも、「分りやすい」説明しかしないのだ。相手の無知を逆手に取って利用して「分りやすい」説明をするから、それを聞いてしまうと妙に納得して「理解した」と勘違いしてしまう。その上で「自分は自主的(能動的)に行動するのだ」と思ってしまうから、マインドコントロールされてしまう。

結局そうとは知らずに、自分の考えよりも他人の考えや価値観に安易に乗ってしまうのだ

その方が簡単だから。疑問にも思わないほどに、相手はスキを突いてくるのだし、「思考停止」の方が楽だからだ。
しかし、社会問題や政治問題は、善悪の二元論で片がつくように簡単ではない。そして文学や哲学も、ちょっとやそっと本を読みかじったぐらいでは、理解は出来ないだろう。
それはひとえに「分かりやすくないから」でしかない。だからこそ「知りたい」と思うのか、「どうでもいい」と思うのかで、人は自分の価値観に拠って立つのか、安易に他人に流されるのか、の分水嶺であると思う。

アナタにとって分りやすいのは、他人にとっても分かりやすいのだ。

そこに、何の価値があるんだろうか?
仮に「1+1=2」ぐらい簡単なことを知ったとして、そこに何の価値があり、それを他人と共有したからと言って、アナタや共有した他人の生活や幸せに、どれだけ寄与するのだろうか?
勉強も仕事も、「難しい」からやる意義がある。逆に言えば、誰でも出来ることをやるのでは、自分自身の独自性はそこに活かせない。それでも良いという考えも当然あるだろう。ならば、自分の独自性は勉強や仕事ではない部分で発揮すれば良いだけだ。
それもひとつの「分かりにくさ」なのかも知れない。自分の「幸せ」自体が、他人には「分かりにくい」のだから

所詮、人間なんてのは、100%分かり合うなんてのは夢想に過ぎない。

こう言うと怒り狂う人がタマにいるが、私はこう質問することにしている。
じゃあ、キミはそんなに分りやすさ100%の人なんですか?」と。

河野太郎大臣が暴露した、三村知事の上着の秘密

8月のある夜、たまたまTwitterを見ていたら、河野太郎大臣(当時は外務大臣)のツイートに驚いた。青森県には、なんて粋な県知事がいるものだと感心したのである。

私は三村知事のことは何も知らないが、恐らく、この人はこの派手な上着の裏地をこれ見よがしに自慢するような人ではないだろう。
これだけの裏地を忍ばせているのだから、かなりの洒落者だろう。「チラと見える裏地」をこれだけ派手にしているのだから、この上着を着て仕事をするからには青森県の名物を他都道府県に売り込む気概ごと(文字通り)背負っているに違いない。

私にも覚えがあるが、高校のガクランの裏ボタンを「愛・羅・武・勇」とし、袖をまくると龍の刺繍が出てくるどころの騒ぎではない。

しかもこのヲッサン、もとい!三村知事は、調べてみると別柄の裏地を施した上着を5着も持っており(しかも全部自腹で制作)、なんと!実は「見せ裏地」のようで、東南アジア諸国に出掛けては「斎藤さんだぞ!」ばりに披露して青森県をPRして好評を得ているらしい・・・(ノ∀`)アチャー

・・・あれ?ワシの趣旨と違う展開に??(;´Д`)

まぁ、アレだ、どんなに良い学歴でも、ジャケット(スーツ)の裏地程度に主張しておくぐらいが丁度いい。ときたま、その片鱗を見せるぐらいでね。
母校に誇りを持ち、その母校に泥を塗らないどころか、自分こそは母校の名声を高めてやるんだ!ぐらいの気持ちがあれば、いいんだろうと思う。
それに、本当の金持ちこそ自分が金持ちだとは決して言わないものだ。

時として、三村知事のように「ネタ」に出来れば、最高に楽しいではないか!・・・いいんだよ、最終的に自分自身と愛する人が幸せであれば

私はクリエーターではなく栗イーターですが、サポートをいただければ書籍代や保守系勉強会(セミナー)の参加費に充て、さらに勉強して得られた知見を記事としてフィードバックします。