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ひとそれぞれを乗り越える多元主義

正月に帰省していた。三が日も終わり、両親に仏壇と神棚、床の間の正月飾りを外しておくよう頼まれる。そこには、餅が飾られてあった。31日から、4日間裸の状態で置いてあったので、外面はカピカピとしている。そこで私は不衛生であると感じそれをゴミ箱に捨てた。

夜、それに気が付いた母親は私を咎めた。「なんで、餅を捨てたの。めでたいのに。」私は何を起こられているのかさっぱりわからない。私は困惑した。そして、「え、カピカピだったし。」と言う。しかし、母親は信じられないという表情を崩さない。「いや、正月餅はめでたいから捨てるのはだめでしょ。まったく。」

めでたい?通常の餅である。しかも、4日間も空気にさらした餅をめでたいという理由で食べさせるのか。さっぱりわからなかった。かつて、山本七平が「空気の研究」のなかで語っていた。何もないところに何かがあると思うアニミズム的な思想の一旦か、そう思って空気に長らくさらした不衛生な餅をありがたがる両親を批判的に思っていた。

しかし、その見解はその後読んだある一冊の本によって塗り替えられた。それは「社会はなぜ右と左にわかれるのか。」である。アメリカの社会心理学者ジョナサンハイトによって書かれた本だ。これは、道徳的判断や道徳的な営みはどのように形成されるのかということが描かれている非常に興味深い本だ。そこには、結局のところ物事の見方は直観が先行し、後から思考がついてくるということが述べられている。(ダニエルカーネマン風に言うと、システム1とシステム2)私たちは感情の奴隷なのだ。あるものに対する好嫌というものが先立ち、後から理由づけをする。人間は一見合理的でないことにも、それに直観が反応すれば、意味を見出し合理的になるようだ。

これらからするに、私も両親も結局のところ変わらないのである。どちらも正しいし、正しくもない。私は捨てたほうが良いと感じたが、それは長らく放置した餅に対する嫌悪が先立って後から理由付けをしたにすぎないのかもしれない。また、両親は正月に供えた餅に超越的感覚を感じてそれを意味付けしたのかもしれない。好き嫌いという、直観と直観の対立なのだ。それには、正解もなければ勝者も敗者いない。

日常のシーンでこのような正解を出すのが難しい、道徳的対立はよくみられる。それは、どちらも正しく、どちらも間違っている。そして、直観の対立であるだけにそれに合意するのは困難である。まだ、自分自身答えは出せていない。そのような生活シーンでは、直観の対立の解消よりも、その共通功を見出した方が良いのかもしれない。その直観が広く合意できるところで、道徳的な合意を形成した方が良いのかもしれないと考えるわけだ。

一見「ひとそれぞれ」という相対主義的に割り切るのもありそうである。しかし、好き嫌いの直観で道徳的な判断をする私たちが、人それぞれであると本当にわりきることができるのか、現実性は定かではない。だとするならば、より疲れるが道徳的な共通功を見出す作業を無意識的にも、意識的にも行わなくてはならないだろう。

多元主義者とは、相対主義者ではなく、相対主義を理解し、さらにそれを現実的な営みの文脈に落とし込んで乗り越えようとするものを指すと考える。そういった意味で私は2019、多元主義者として生きたいと考えるのであった。

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