セーフティネットとしての自然・無

ここ最近、東洋思想に触れている。

具体的に言えば、荘子。今までは思想と言えば、西洋という自分のなかでの思い込みがあり思想に触れるのはもっぱら西洋思想であった。

僕が東洋思想に触れてよかったと思えることは、良い意味で物事に対して「どうでもいいや。」と割り切れるようになったことである。それまでの僕はどちらかといえば「物事は細部にまで、善悪や是非が存在し、それを深く考えることによってなんらかの答えが見いだせる。物事は何もかもコントロール可能。」という考えのもと、深く考えるということをしてきた。

確かに、僕にとって考えることは大切だ。考えることによって物事の違和感を捉えたり、自分が何がわからないかということを知ることで成長の原動力とすることができる。しかし、ふと思うことがある。考えていても仕方がないこともあるのではないか。何についても考えすぎて、疲れていないか。自分を今の状況に停滞させていないか。

そこで、登場するのが東洋思想的な「自然」であったり、「無」である。「善悪、是非は僕には考えてもわからない。とりあえず、あるがままに赴くままに、運命のままに生きてみよう。何事もコントロールできるわけではない。」そういう風に僕の心をなんだか軽くしてくれる。

科学とか、答えがあるものはいい。しかし、人生などの正解のないものに無理やり答えを出そうとしたり、そのすべてをコントロールしようとすると実際は思い通りにはいかないのではないか。そこで、考えることに疲れた時、思い通りにならないとき、「自然」とか「無」をセーフティーネットとして使用してみるのもいいかもしれない。

      『人は皆、有用の用を知るも、無用の用を知らず。』荘子

僕に判断をするのはまだ早い。だったら、あるがままを受け入れてみようか。


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