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ブラックとカフェラテ⑫

ブラックとカフェラテ⑪のつづき

 すっかり立ち直った私は次の日からまた講義はでずとも堕落せずといった1年生からつづけていた学生生活を取り戻した。その前の日まで、家から出たくなく、一時は死にたいとまで思っていた自分が嘘のように立ち直ったことに自分でもある種のあきれに似たような気持ちを持っていた。去りゆく金野の姿を思い浮かべることはなく、その次の次の日に迫っていたセミナーで本を渡した時の金野の表情、姿を思い浮かべる。思わず、微笑んでしまうほどである。
 それと同時にある種の不安感も覚える。どこで、どうやって渡すのだろうか。私は、この前のことを思い浮かべて、彼女の前でなにもしゃべれなくなってしまうのではないか。そういう心配が次々と浮かんできたのであった。しかし、それは前の日のような絶望のような不安とは少し異なった。言い方を変えれば、健全で、生産的で、幸福な不安だった。
 私が想定していた光景は、金野直子にあの自動販売機の前の椅子でコーヒーを飲みながら、本について、選ぶまでの思い、選んだ本がどう彼女とまっちするか、それらのことを盛大にプレゼンテーションするつもりだった。私の想像ではそのプレゼンテーションを聞いたときの金野はただでさえ大きく美しい目をさらに大きくさせて、さらに美しく輝かせている。大そう綺麗なことだ。しかし、この想定は想定通りいくのだろうか。これが健全で、生産的で、幸福な不安の全貌である。生産的といったのはそのような不安につつまれたなかでも、いつものように本の文字は頭に入ってきたし、かえって読むスピードも上昇しているようであったためである。彼女の承認は本当に大きいものがあった。
 私は、次の日もほとんど同じことを繰り返していた。そして、夜に、明日に備え、彼女にlineを打つ。初めてlineを打つ。しかしながら、頼まれた本を渡すという大義名分があるため、その作業は容易であった。「こんばんは。本の準備ができたんで、明日渡そうと思うのだけれど、セミナー終わりでいいかな?」
 良いと言われる帰結が見えてのメッセージ。必要かどうかもわからない。無駄なようにも思われた。しかし、大義名分を作ってでも自分からメッセージを送れたことに成長した、彼女に一歩近づいたという高揚感を覚えるのであった。
 彼女からは一言、「お願いします」とだけ返ってきた。いささかそっけないようにも思えたのであるが、自分からメッセージを送ったという高揚感に包まれた私にはそのようなメッセージについて事細かく気にすることはなかった。それに、彼女からの承認は少量でも私を覚醒させるドラッグのようであったから、少しでも承認ととられることがあれば、それは私を元気にした。だから、「よろしくお願いします。」も大そう嬉しいメッセージだった。
 自らが、一人の女性をめぐってなぜここまで、乱高下の激しい精神状態になったのか、原因はわからない。しかし言えることは、ただ、好きだった。理屈もなく、好きだった。

                 〇

 セミナーの日の朝、本を入れる袋を決めるのに30分かかった。紙袋がいいか、手提げがいいか。どのようなデザインのものがいいか。結局、丁度実家から、何かを入れて帰るときに使ったと思われる、姉のものだった思われる小さな手提げかばん(手提げのメーカーのロゴをネットで検索しみると、若者女性に人気の化粧品ブランドであった。商品を買うとその袋に入れられてついてくるようである。)を使うことに決めた。大学に行くとき、手にもった3冊の本が入ったカバンを持って思うのであった。このかばんを持っているということは、中に化粧品が入っていると思われるだろうか。もしそうだと仮定したとき、実際に化粧品を渡すのと、本を渡すの、金野はどちらを喜ぶのであろうか。
 そしてそれから、悪い方向に発想が展開していく。この袋で渡すことは、金野に化粧品を連想させ、中にある本に対する喜びや、それに見出す価値を、化粧品との相対化によって消し去ってしまうことはないだろうか。そう思ったのである。しかし、今更、袋を替えるにも手立てがない。私は思わぬ展開で生まれてきた、余計な不安を抱えたままセミナーの始まりを迎えるのであった。
 今日は、高木という男性のプレゼンテーションだった。私は、その日、いつも以上にも積極的に議論や質問に参加したのであった。それは、もちろん知的探求という変わらぬ思いもあったが、前回同様、金野にストロングポイントを見せつけられるのはここしかないという学術の目的とは違ったことにも突き動かされていた。その姿は、まるでメスの前で、戦闘し、強さを見せつける動物のオスのようだと刹那的に思ったのであるが、私のか弱い精神、そして姿ではそのようなオスのたとえとしてふさわしくないと感じとって直ぐにそのたとえは悲しく思えてきて消し去った。そして、終始私の熱がこもっていたセミナーはやがて終わりを迎えたのであった。
 金野には、「セミナーの終わり」としか言っていない。後で思ったのが、あの「自動販売機の前」と事細かに約束をとりつけておけばよかったということである。あの想定は彼女が自動販売機の前に来たところから始まっており、セミナーが終わってからどのような流れで誘導するかという一番肝心なことが、まだ決定していなかった。時が迫ってくると、思考ももちろん鈍くなり、ただ焦りと不安が募るばかりであった。そのようななかでも、前回同様コの字の机の対面に座る金野(入口は私の側にある)の様子をうかがいながら荷物をしまう。金野が立ち上がった。金野が非常に少ない荷物を持ってこちらにくる。まだ、私は立てない。腰が石のように硬くなっていた。金野が入り口のところに赴くとき、堅い腰を必死に砕くように、やっと立ち上がった。廊下にでて、なんとか金野と落ち合って、自動販売機の前に行くのだ。
 しかしそのような思いとは裏腹に、事態は思わぬ方向へと向かった。彼女が出入り口で方向を変え、私の方に足を赴けたのである。私は、立ったばかりで、そして、金野がこちらに来ることが予想していなかったため、呆然と立ち尽くしてしまっていた。そのようななか、彼女は私の前に立ち、何かを物欲しそうにしている。「なぜだ?」「なぜなんだ?」。頭の中で駆け巡る、そのような言葉とともに、頭が真っ白になった。自分がここで何をすべきなのかわからない。そのようななかで、私の前に立ち尽くす彼女は私にこう言った。「本持って来てくれた?」
 この言葉を聞いた時、私はふと我に戻った。そうだ。本を彼女に本を貸すことになっていたのである。私はあわてて、床に置いた自分の鞄の横にあった、あの化粧品会社の手提げを彼女に差し出した。「ありがとう。」彼女は、私の手提げをとってそのように言うと、足早に私のもとを去っていった。ここでの彼女の去りゆく姿は、先週と同様に見えた。
 隣に座っている、太田は私に対して、「あれ何?」と聞いた。私は、元気なく。「ああ、本。貸す約束してたから。」
 太田が何かを聞くのを避けるように、私は静かに、鞄を背負って足早に会議室をでたのであった。勿論廊下には、彼女の姿もなかった。

廊下に刺す日差しは私の目には灰色に映った。


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