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僕にこの人を批判する資格はあるのだろうか

ある議論。僕は議論の司会をしていた。

議論は比較的順調に進んでいたのであるが、ある二人が中心の議論とはそれたところでホワイトボードで議論に熱中していた。そして、その場は二つの議論が繰り広げられているかたちとなった。

僕は、一つの場で議論したいと思う。しかし、ここで「協調性」という言葉を使って横道にそれていく二人を批判する資格はあるのだろうか。「協調性」という言葉を用いて、この二人を批判すれば、議論というものに本来はいらないはずの「協調性」という言葉を意識させてしまうのではなかろうか。また、ここで「コミュニケーションの理性」という言葉を投げかけて批判しようと思ったのであるが断念した。これも、僕の理想状態を彼らに押し付けているだけなのかもしれないと思ったのである。

しかし、僕はその一方で議論をまとめなくてはならない。何も言えなくては中心的な議論に参加する人に対して今度は被害が及んでしまう。

仕方なく僕は、「そこで話し合ったことを教えてよ。」と言って、ホワイトボードで話す彼らに主導権を与えた。しかし、彼らは「まだ答えがでていない。」といって議論を続けた。またも議論を続ける彼らを修正し、但し、彼らの言論を一旦止める資格が僕にはあるのだろうか。しかし、その一方で僕にはその場の議論をまとめる資格も与えられているのである。まよったまま二人の議論をもっともらしい「時間」という口実を使い、中断させたのであった。

ある男性参加者が唐突に、なんら文脈もなく「みんなセックスしよう」という発言した。恐らくただ言いたいだけだろうととられるようなものだった。しかし、なぜここでそれを正さなくてはならないのか理由が見つからない。それは差別発言でも、誰かを傷つけるものでも、スポンサーが下りるものでもないのである。だから、そっと「もう少し、詳しく説明して。」というしかなかった。詳しく説明されても、それは陳腐なくだらないものだった。しかし、それを批判することはできなかった。その資格は僕にはないと思ったからだ。「言いっぱなし」には気を付けてねと言うばかりであった。

もっと強くあっても良いと思う。資格がないと思ってしまうのだ。その人のその行動の真意を理解して、その行動を批判するだけの情報を僕は持ち合わせていたのか。そして、それを批判したとき、それが本当は意義深いものだったものだったとしたら、それを潰してしまうのではないか。

僕は書評を書いたり、他人の文章を批評させてもらうことが時たまある。それらはテキストベースが多いので批判はあまりためらわれない。その批判の説明がしっかりと前後でできるからだ。自らが間違っていればそれを批判されることになるし、その余地を与えているからだ。しかし、それでもなお思うのである。これを批判するだけの資格が僕にはあるのかということを。

ためらっている。立場を示すことに、立場を示す自分に、立場を示すことが求められるなかで、僕はためらっているのだ。

「人を批判する資格」とそこへの「ためらい」。「僕って生きていてもいいですか?」、「僕っていてもいいですか?」常にこの問を自分に抱えている僕への試練だ。

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