フェミニズム【第1章】~月か徳か~

序章のつづき

序章では、2018年のWEFのデータ、そして「82年生まれのキムジヨン」(なぜ、韓国の小説が日本社会の参考にできるかは前章に譲る)、「アズミハルコは行方不明」をもとに、日本の社会が世界の国と比べても女性の参加が進んでいないことを取り上げた。

『元祖、女性は太陽であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような青白い顔の月である』

この言葉は、平塚らいてうが残した有名な文である。大正の時代から始まった女性の政治参画、社会参画を求めていた女性解放運動の中心人物であった彼女が当時の女性の姿を描いたものだ。結局のところ、女性に普通選挙権が与えられたのは戦後になってしまうのだが、この言葉は当時の抑圧されていた女性に、そしてそれを強いる社会に強くなげかけられたのであった。

そして、上にあげた2つの小説でも、キムジヨンやアズミハルコの受ける屈辱、人生にみるとやはり、この月としての女性というのは、程度の差はあるにせよ、未だ問題提起として示唆するものが多いと感じる。

しかし、次のものはどうだろうか。

『お佐代さんは必ずや未来に何物をか望んでいただろう。そして瞑目するまで、美しい目の視線は遠い、遠い所に注がれていて、あるいは自分の死を不幸だと感ずる余裕をも有せなかったのではあるまいか。その望みの対象をば、あるいは何物ともしかと弁識していなかったのではあるまいか。』

これは、らいてうと同じころに活躍した文豪、森鴎外が「安井夫人」において書いたものである。これは、上の主張を複雑にしてしまう。なぜならば、お佐代さんの生き方がまさに上で指し示されたような月のようであるからだ。ここに書かれているお佐代さんというのは、江戸時代の儒学者である安井仲平に仕えた女性である。彼女はこの話では、若いうちから苦労人の仲平に仕え、表舞台に立つことはなく、質素な暮らしをしたまま、財貨という財貨を手にすることなく亡くなる。上の文は、お佐代さんが財貨のような目に見える利益を望んでいて、それを手にせず死んでしまったのが気の毒だとする考えに対しての森鴎外の考えである。彼は表舞台に立つことなく、財貨も手にすることのなかった彼女を動かしたものを、より見えない、抽象的なものにあるとして、彼女の人生を肯定しているのである。

これは、言い方を変えれば、「徳」という言葉で表されることが考えられる。哲学者のマッキンタイアは、その人にとっての徳やそれを追求する善といったものは、共同体のコンテクストによって決まるとしている(詳しくは以前私が書いたエッセイで)。乱暴に言ってしまえば、その文化や社会において築き上げられたその生き方が善いとされるのなら、その生き方をすることが徳であったり、善いことであったりするのだ。つまり、社会にでることもなく、仲平に仕えただけの小夜さんはその共同体のコンテクストである徳という点では、その人生は肯定されるかもしれないのである。善になるのかもしれないのである。

仮に共同体において、女性に献身が求められるのなら、男性が女性を守ることや、家族のために仕事をすることを求められるのなら、少なくとも社会に関わらない女性をもその文化のコンテクストでのなかで、輝いているようにも言えてしまうのだ。

上は、いささか抽象的であったが、現代ではこの問題は次のように表れていると考えている。それは、女性問題において文化をどこまで尊重するべきなのだろうかということだ。例えば、正当な観念としてその共同体で成り立っている文化が他の文化から見た場合にそれが悪徳に陥ることがあるかもしれない。これは、時代にも言える。ある時代にとってある時代は異常なものである。その文化や慣習を尊重するべきか、はたまた普遍的な何かをもって統一的な基準を求めるか。我々はジレンマに陥っているのだ。

このように、一見我々は、「ある女性の姿、生き方、はたまた自らの生き方を月として捉えるか徳として捉えるか。」、タイトルにもある通り「月か徳か」という選択を迫られていることになるのである。

しかし、「一見」とあるようにこの「月か徳か」の選択は見せかけのものであるということが言える。それは、ヌスバウムが示した「ケイパビリティアプローチ」によって説明できる。その話は次回に譲ることとしたい。

つづく

【参考文献】

com/d006/5450268.html


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