二頭の獣

黒い獣がいた。名前はなかった。気が付いたら生きていた。親も思い出せないし同族もいなかった。一人が自然のことで、それは毎日太陽が昇って沈んでいくのと同様に当たり前で、淋しさは感じなかった。その感情を教えてくれる生き物もいなかった。
一番古い記憶は、寝床の近くにある森の奥の綺麗な湖畔で透き通った冷たい水を飲んでいるところ。静かで他の気配は感じない。記憶に意味はなく、生きるための知恵だけを持っていた。
何かを捕まえて食う。それだけだった。名も知らぬ生き物を捕まえて食らい、寝たい時に寝て、ただ命を保っていた。何かを考えることはしなかった。それに意味はないから。

白い獣がいた。名前があった。親から貰った誇り高い名が。同族は白い獣を名前で呼んだ。獣はそれが好きだった。毎日同族と語り、常に仲間との明日を考えた。生きる知識と知恵を教わり、仲間と狩りをして日々暮らしていた。ある日、同族がいなくなった。寝るまで元気だった仲間達は朝起きることはなく、次々に死んでいった。自分だけになってしまった獣は、生まれてからずっと暮らした場所を後にした。たった一頭で思い出の詰まった場所で過ごすのが苦しかったのかもしれない。

二頭の獣が出会ったのは偶然だった。白い獣は黒い獣よりも二回りも大きかった。黒い獣は自分より大きいそれを見て、狩るのは無理だと思った。白い獣は自分よりも小さいそれを見て、少し幼い自分を思い出していた。

黒い獣は言葉を持たなかった。そして語るべきことも持たなかった。ただ自分よりも大きい何かがいる事実だけを理解していた。
白い獣が黒い獣に何かを話しかけたが、黒い獣はそれをただの唸り声程度にしか感じなかった。

黒い獣が歩き出すと、白い獣も後ろをついていく。二頭は似た姿だった。思い出の中の仲間を思い出しながら、白い獣は歩いていた。

森の中は鳥の声と木々の葉が触れ合う音だけがうっすらと聞こえてくる。二頭は並んで湖畔の水を飲んだ。白い獣は再び何か話しかけようとしたが、それをしなかった。先程の反応で黒い獣に言葉が通じないことを悟ったのかもしれないし、言葉に意味はないと考えたのかもしれない。静かに水を飲んだ後、白い獣は頭を黒い獣の首元に擦りつけた。

黒い獣の寝床まで白い獣はついてきた。そしてそのまま二頭は丸まって各々が眠りについた。白い獣は、そのまま起きることはなかった。目の前に肉の塊があるのに、黒い獣は何故かそれを食べることができなかった。死はこれまでいくつも見てきたし、いくつも命を奪ってきた。それが生きるということだし、きっとそうやっていつかは自分も死んでいく。それがあと太陽が何回沈んだら来るのか、それはわからないが本能的にそのことは悟っていた。そして自然に従って、今、目の前で一つの命が消えて死が発生した。それだけのことのはずなのに。

黒い獣は、死をそのままにして森に出掛けた。一人で水を飲んでいると、昨日首元に頭を擦りつけられた柔らかな感触を思い出した。初めて会った時の唸り声を真似してみた。黒い獣は、初めての淋しさを感じたのだろう。淋しさの言葉と意味を教えるものはいないのだけど。

もう一度大きく唸ったその声は、少し響いてから森の静けさに吸い込まれて消えていった。それが何という意味だったのかは、もう誰にもわからない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?