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ざれごと

気づきを得ました。

実は私の「やりたいこと」はわからなかったのではなく、最初から存在してなかったのです。

幼少期、「○○ちゃんは手が掛からなくていい子ね~」と親に言われたのを覚えています。
当時の私は幼いなりに、手が掛かると理由も告げず怒り散らす、ほとんど八つ当たりのような親の説教に遭わないために、静かにテレビを見て、おとなしく部屋の隅でブロック遊びをするべきだと学んでいました。

親の言葉は、いつしか呪詛として私を縛るようになりました。
新しいことに挑戦してストレスを受けることより、怒られないと分かり切ったことをして、自分の精神衛生と右頬を守った方が自分にとってよいことだと私に信じ込ませました。

小学校では、いくつか習い事を始めました。水泳、学習塾、ソフトボール...
すべて、友人がやっていたものに後から参加しました。
「家の外に居れば親の目もない!!友達が居るって言えば始めさせてもらえるかもしれない!!」
そして、ほとんどすぐに挫折しました。長く続いた方の水泳も、惰性で通っていたようなものだった気がします。興味や情熱は、早い段階で尽きてしまっていました。

中高の部活動は、やりたいこと...もとい、今まで目につかなかった新しいものを部活としました。具体的には弓道とカヌー。やりたいという感情と目新しさを混同して始めたそれらのスポーツは、割とすぐ部活動の義務にランクダウンしていました。友達の助けで辞めはしなかったものの、かなりギリギリを低空飛行、なんなら離着陸を繰り返していました。

そして進路、できそうな方向に舵を取りなんとなく進んだ結果、したくないことを選び取ってしまい、当然意欲などない、日々マイナスを加算している毎日を生きています。
将来を探すための時間は、親元を離れないと見えないと思ったため、浪人もせず県外の大学へと進みました。道を決めたあの日の「できそうなこと」は難解になり。もはやできることはもう何もない。

他にもたくさん思い返しました。

「写真はやりたかったことではないか」
『生徒会の義務を、それを長らく引きずっていただけ。楽しんでなかったもの。』

「ゲームやトレカはどうだろう」
『面白そう、って始めて一年持ったものは無かった。途中から作業になったし、楽しいってか強迫観念にかられてしてたよな』

「占いは」
『それも義務で作業だったよな』

結局、やる気・興味が尽きないものを選べなかった、もとい選ぶ方法を知らなかったことが今日の堕落につながっているのではないかと思うようになりました。


そして、そんな虚無虚無しい私を忘れ去るため、現状を変えるため、私は意味もなく長い距離を歩くことが多くなりました。
どこかにあるはずの本当の私を探すため、液晶とにらめっこする時間が増えました。
バイト先から電車で15分の旅路を何度も往復しました。
名前も知らない土地をただひたすら散策しました。
Twitterを開いては閉じ、ネットサーフィンに明け暮れました。

そして何度も見切りをつけて、こんな懺悔を書き出そうとしました。
エネルギーを与えられなかったその時の感情は、枯れて土になり、それを元手にこの懐古文が産まれたのです。

これさえ書いて言葉を固定してしまえば、感情を腐らせ死なす前に、標本として残しておける。意思が気分の荒波に揉まれても、どれだけ芯のない私にも「たしかなもの」として残り続ける。
ようやく日の目を見たこの思考が、おぼろに移り変わることもなく、私を肯定していくことをひたすら願うばかりです。