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暖かく、そして温かい

家庭の事情で誰も家におらず、いつも自宅の鍵を持っている子供の通称「鍵っ子」。今ではほとんど聞かなくなったが、昔はざらにいた。彼らがなぜ、鍵っ子と分かるのか。そのほとんどが、自宅の鍵を首からネックレスのようにぶら下げていたからだ。現代では安全面を考え、子供にそんな鍵の持たせ方をしないが、今もいるはずだ。かく言う私も鍵っ子だった。親がいない寂しい子というレッテルを貼られ、恥ずかしくて、ポケットに忍ばせていた時もあれば、自立した大人になりきって、自慢げに見せびらかして歩いていた時もあった。周りのクラスメイトの反応しだいで、私の態度は豹変した。

放課後、人気のない家が嫌で、学校付近の公園で遊んで帰るのが日課だった。
夕暮れになると、公園で遊んでいる子供たちを、母や祖母が手を振りながら迎えにくる。その光景を見送る私は、いつも最後まで残っていた。ひとりぼっちの公園に夕闇が迫ると、なんだか恐ろしくなり、家の方がマシに思えて早足で帰る。隣家の換気扇から漏れてくる美味しそうな夕鍋の匂いと、食卓の笑い声を横目に、首からぶら下げた鍵で自宅の扉を開け、冷えた玄関に靴を置く。暗闇の恐怖から逃げ出すため、真っ先に電気を点け、机の上の置き手紙を読む。その隣に置かれたお弁当は、いつも代わり映えしない。レンジがないので、おかずもご飯も冷めていた。割り箸で突き刺すと、お弁当の形状を残したままご飯が抜き取れる。冷たくて硬いご飯は孤独な子どもには最悪だった。なにより、一人で食べるのがつまらない。だから自然と食も細くなる。テレビで面白い番組がやってるときは、いくぶん食が進んだ。稀に、『今日は時間がないから、これでパンでも買って』とお金が置いてあると、パンやお菓子を買った。売り場が暖かいので、冷たいご飯よりはるかに美味しく感じる。お弁当じゃなく、毎日お金を置いといてくれたらいいのにと独り言ちるが、母を思うと口には出せなかった。そんな、私の楽しみは日曜日。日曜日だけは暖かいご飯が食べれた。母は、月曜から土曜日まで、私が起きる前に仕事へ出かけ、私が寝た後に帰ってくる。母の顔を見ることができたのは、日曜だけだった。「学校どうや?」と母に訊かれても、私は本当のことを話さなかった。鍵っ子で、母子家庭で、合いの子と呼ばれる私の学校生活は、いじめられっ子のテンプレだった。母には「別に、普通や」とだけ答えた。唯一、温かい日に、そんな温度が下がる会話などしたくない。私は、辛い日々の中にも僅かに生まれる楽しい話を母にした。母も、面白い話をたくさん聞かせてくれた。私たちは一週間分話をして、一週間分笑った。

現在、母は定年になり、毎日リビングを温めている。私もこの度アラフィフとなり、長い海外生活を経て実家へ戻ってきた。帰る家にはいつも母がいる。外出時は、鍵を持って出かける私だが、鍵を使って玄関を開けることはほとんどない。「ただいま」と言えば、「おかえりなさい」と返ってくる、この単純なやり取りこそ私が幼少期に切望していたものだった。

私は今、毎日、温かいご飯を食べている。自分で鍵を開けて入る誰もいない家は真夏でも冷たく、ご飯は美味しくない。だけど、誰かがいる家は暖かく、そしてご飯は冷めても温かい。

山本棗先生にコミカライズしていただいたものはこちらです。


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