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カイロからの手紙

22年10月初め、人生二度目のエジプト上陸。
予定している一時帰国期間を除いても、合わせて1年半にはなる予定の留学生活を始めました。
過去に一度、せいぜい3〜4日の旅行でしか来たことのないエジプト・カイロに、初めての海外長期滞在で、1年以上住むー。
全く実感の湧かないままカイロで生活を初めて3週間、ようやく憧れのエジプトに来たんだ!という喜びと、一般的な日本での生活を思い浮かべれば別世界とも言えるようなエジプトで生活するということ、ただ通り過ぎていく旅行客としてではなく、カイロで確かに生きてきた人・生きている人たちに入り混じって生活するということの難しさ、疲れ、楽しさを感じています。

なぜエジプト?


私は、大学院で中世エジプトの歴史を研究しています。
専門は、中学や高校世界史ではマイナー扱いのマムルーク朝(1250ー1517)。
教科書ではよく、アイユーブ朝君主のサラディンと十字軍が戦ったという12世紀末の出来事の後、軍事奴隷が支配するマムルーク朝が勃興したというような、
かなり乱暴な登場の仕方をする王朝です。
さらにその後、バグダードのアッバース朝を滅ぼし西進してきたモンゴルを
退け、エジプト・シリア一帯を支配下に置いて文化的・経済的繁栄を誇るも徐々に衰退、1517年にオスマン朝セリム1世に滅ぼされるという流れで、なんともあっけない記述なのが寂しいところ・・・。

古代エジプトにはピラミッドやツタンカーメンに始まるミステリーとロマンがあって、教科書でも四大文明のひとつとして取り上げられ、展覧会のテーマにもよく取り上げられて、あんなにインパクトもあるのに、ファラオの時代が終わった後のエジプトってどうなったんだろう・・・??と思ったことはありませんか?
今のエジプトはイスラーム教徒が多い・・・じゃあエジプトはいつからいわゆる「イスラーム教の国」になったんだろう??
あれ、でもエジプトってローマ帝国の属州だったこともあるな、それじゃキリスト教も・・・?

マムルーク朝期をはじめ、多くの中近世建築が残るエリア@ムイッズ通り
前方に見えるのは、マムルーク朝×オスマン朝建築の給水所兼学校(サビール・クッターブ)
近代エジプトの父と呼ばれるムハンマド・アリーのモスク

私の「中世エジプト」への関心はここから始まりました。
子供の頃好きだった古代エジプトへの憧れが、いつの間にやら中世に時代を移していると考えるとなんだか不思議な感じがします。そして、中世のエジプトも古代に負けず劣らず面白いのです!
中世の歴史なんて、どうやったらわかるの?
という声も聞こえそうですが、この時代のカイロは政治、経済の中心地であり、文化の一大中心地でもありました。マグリブ(北アフリカのチュニジア、モロッコなどのあたり)、ヨーロッパ、東方イスラーム世界から多くの人々が行き来し、文芸や執筆活動が盛んになり、多くの作品やその写本が作成され、流通したのです。それらの写本は、中世という時代にしては稀有なほど、現代にまで相当数残っています。

手紙に書くこと

今回の留学の目的も、中世の写本資料を調査・収集することにあります。
調査の中で見つけたもの、読んだもの、研究にはならないけれど面白いこぼれ話など、ここにつらつらと記録に残していこうかなと思います。
それから、初めて海外長期滞在する人間の生活記録として、カイロの街やエジプト各地で見つけた面白いもの、食べたもの、生活のちょっとしたメモなども徒然に書き綴っていきます。

海外生活に悪戦苦闘する一学生の記録を御笑覧ください!





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