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01: コンテクストデザインを考える

はじめに

今回、渡邉康太郎さんのコンテクストデザインサブゼミに参加することになりました。そして、サブゼミでの課題がnoteに自身の思考を記すとのこと。
自分自身の考えを言語にすることって難しく、なんだか恥ずかしいですが、これを機に記していこうと思います。きっかけを与えてくださり、ありがとうございます。

「コンテクストデザイン」とはなにか、初めての方はぜひ読んでみてください。渡邉さんが説明されている記事を添付します。

私がインスピレーションを受けたもの。

「日本にはない何か。」
・中国での生活 <幼少期(0~5歳)>
幼少期だったので、どんな生活を送っていたかはあまり記憶に残っていないですが、幼少期に遊んだ友人とはつながりがあって、夏休みに中国へよく遊びに行っていました。中国って聞くと、良い印象を持ってない方は多くいるかもしれませんが、、人と人の距離が近くて本当に温かい。困っていると誰かが声をかけてくれる、手を差し伸べてくれる。雑で少しばかりカオスなところもあるけれど、その雑さが人間らしくて、居心地がいい。カオスだからこそ自分自身を見つめ直すこともできて。中国での生活は間違いなく今の私を作っているなと思います。

「自己表現との出会い。」
・ジャズ <小学生(7~12歳)>
小学3年生の頃に、はじめてジャズというジャンルの音楽を聴いた。
新しくきた音楽の先生がジャズを専門にしていて、ジャズを紹介してくれたのを今でも覚えている。

驚いたのは、それが「即興・アドリブ」だったということ。

もちろん演奏のうまさテクニックにも感激したけれど、その時その場でしか生まれない演奏者の溢れるばかりの感情に自分の心が動いた。
その人らしすぎる音、自由さに衝撃を受けた。
そして何よりも演奏者が楽しんでいる。(本人が楽しんでいること大事)
まさに今でいう、エモい、という感覚でした。それからジャズにハマり、音で自分を表現するようになりました。

「死を想え。」
・”メメントモリ” 
<高校生(16~18歳)>
いつからかは分からないが、私は幼い頃から死に対する恐怖がすごく強く、眠る前によく泣くこともあった。このまま目覚めないかもしれないと。死を強く意識するようになったのは、身近な人の死、テレビでいきなり襲われて亡くなった方のニュースをみてからだったと思う。何が起こるかって本当に分からないんだな、明日もしかしたら死ぬかもしれないと思った。
それからの私はというと、死ぬことへの恐怖から、毎日をビクビク生きていて、どうせ死ぬのだからと冷めたような考え方をしていた。

そんなある日、ある人に教えてもらった言葉。
”メメントモリ”。「死を想え」という意味らしい。やっぱりいつか死ぬんだ、とその意味通りで捉えた。

だが、この言葉が気になってちゃんと調べてみると、本来は違う意味で使われていたらしい。本来は、「今を楽しめ」らしい。

古代の将軍が、「人は何時かは必ず死ぬ。その時を想い、生きている今を楽しみなさい」という意味で使っていたそうだ。なので本来は、「今を楽しめ」という意味だったそうだ。

そうか。今を楽しめか。これもある意味誤読だったかもしれない。
今でも、死に対する恐怖はたしかにある。だけれど、いずれ人は死ぬ。自分が死を迎える時、私にとっていい人生だった思えるように今ここにいることを懸命に生きていきたい、という気持ちが強くなっていきました。

「代々職人の家庭。」
・父 
<大学生(19~現在)>
大学に入るまで、私は父の職業を言うことができなかった。
幼い頃から、父がこだわりをもってものづくりをする姿勢や、いつもお客さんを大切にしている姿が魅力的で、自分の父が職人であることが私は誇らしかった。一方で、友人に珍しいという目で見られるのが嫌だったからだ。珍しいのだけれども。

今思えば、自分の見ていた世界が狭かったことに気づく。
大学に入ると、色々な人がいた。そして、研究室に入ると私と同じく父を職人に持つ子がいた。私の中では勇気を持って、父が職人であることを伝えたけれど、友達の反応はいたって普通。「あ、そうなんだ!」だった。
この瞬間わたしは、案外普通なのかもしれない、自分の見ていた世界が狭かっただけだったと理解した。今は思う存分、好きなことを好きと言える喜びを感じている。

今の私。
いま私は、大学でソーシャルマーケティングを学んでいる。
一言で、「想い先行型マーケティング」と勝手に解釈している。
マーケティングというと通常、企業対人の関係かつ利益重視のイメージがあるが、ソーシャルマーケティングはそれに加えて社会や社会にいる人にとってどんな意味があるのか、もっと広い関係を重視している。なので、「どんな社会を描きたいか」が大切で「強い想い」がないと実現が難しい。ゆえに「想い先行型マーケティング」と勝手に命名している。

しかし、大人になるにつれてお金について考えなければいけないことが増えているなと。全てがそういうわけではないが、利益を出すことが前提となっている世の中。頭では必要なことだと分かっていてもそれが先にくるのが苦しい。現実と理想、お金とお金では測れない何か、、の間に絶賛苦しんでいます。

私が描きたい社会。

まだしっかりと言葉にできていない上、理解しきれていない点も多いですが、「人やものことの裏側にある想いやストーリー」を伝えていきたいと思っています。そう考えるようになったのも、父の影響。幼い頃から、父の働く姿勢とものづくりへのこだわりに価値を感じていた一方で、それが廃れつつある現状に危機を感じたことです。目に見えないものを言葉にすることで、変えられるんじゃないかとぼやっと考えています。
学生時代は、そんなことを考えながら、人にフォーカスした雑誌や人生史を作ったりしていました。しかし、違う考えを理解してもらうことは難しい。そもそも理解してもらうことをゴールとしてたことが違っていたかもしれませんが、私はそれが素敵だと思うから伝えていきたい。残していきたいです。私の家庭に当てはめなくとも、それぞれが自分だけの想いやストーリーをもっていますし、ものにもストーリがあると思っていて、どれも素敵だと思うので、そのストーリーを伝えていきたいです。そして、ストーリーを読んだ誰かが元気になったり笑顔になったりするような誤読を生み出していける工夫を考えたいです。

私にとってのコンテクストデザイン

私にとってのコンテクストデザインの解釈は、誰にとっても心に響くデザインであるということ。言葉にするのは難しいですが、強いメッセージのあるものかつ、弱いメッセージでもあること。たとえ、そのものやことに関心のない誰かにとっても押し付けがましくなく、自分のこととして繋げられることだと思います。それは、渡邉さんの言う「誤読」が生まれるようなデザインであると思っています。そのためには、使い手や読み手が自分だけの解釈できるような空白の部分を残す必要があると考えています。じゃあ、空白とは何か、と聞かれると正直よく分からないですが、現時点では、空白=その人が書き加えられる、作者になれる、カスタマイズ、というイメージです。
空白の部分とはなにか、今後しっかりと言葉にできたら、と思います。

コンテクストデザイン的な企画案

裏側にある想いやストーリーを、
「その人が大切にしている人・もの・こと」から読み解く、というのを考えています。その人が影響を受けた、映画や音楽でもいいですし、いつも持ち歩いているもの・捨てられないものでもいいかなと思います。人・もの・ことという観点から繋いでいきたいと思います。そのストーリーを誰かと共有できる場があったらいいのかな、とそんなことを考えています。今回はここまで。



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